空が燃えていた。 夜の静寂を塗り潰すのは、どろりと濁った血のような紅い月。天頂に居座るその異形な天体は、地上のあらゆる理を歪め、精神の枷を破壊する。本能の増幅、魔力の暴走、そして底なしの破壊衝動。理性が「過剰だ」と叫ぶ声を、紅い月の魔力が嘲笑いながら塗り潰していく。 そこは、かつて文明が栄えた跡地か、あるいは誰かの悪夢の中か。瓦礫の山と化した荒野に、三つの不協和音が集結していた。 一人は、赤髪を乱雑に揺らし、大きな酒壺を抱えた女、セリカ・フア。王立聖リヴァリウス魔術学院の「問題児」でありながら、その実態は底の見えない深淵のような女だ。彼女はふらふらと足取りを乱し、焦点の合わない蒼い瞳で紅い月を見上げていた。 「うへへ……あははは! 月が赤いねぇ。いい気分だなぁ、もう。酒が回ってるのか、世界が回ってるのか、わかんねぇや」 彼女の思考はすでにワードサラダ状態にある。しかし、その身体に流れる魔力だけは、紅い月の影響を受けてどす黒く、そして激しく脈動していた。普段なら、彼女の持つ「舞踊祈祷」の力は、繊細な調和と身体操作によって制御されている。だが今は違う。リミッターが壊れた。彼女の中にある「破壊」の才能が、酔いと混ざり合って沸点に達していた。 対峙するのは、純白の翼を広げた少女、天音かなた。彼女の頭上には神聖な「天使の輪」が浮かび、清廉な光を放っている。しかし、その光さえも紅い月の色に侵食され、どこか攻撃的な色を帯びていた。彼女の瞳には、普段の穏やかさではなく、圧倒的な「力」への渇望と、敵をなぎ倒そうとする闘争心が宿っている。 「……不思議ですね。なんだか、力が止まらないんです。全部、壊してしまいたい。そういう気分なんです」 かなたの声は鈴を転がすように美しいが、その背後の空間は、彼女が発するプレッシャーだけでミシミシと音を立ててひび割れていた。握力という概念を超越した、天文学的な物理破壊力が、指先に凝縮されている。 そして最後の一群。異質なノイズを撒き散らしながら現れた、四体の巨大な怪物――グリッチレギオンズ。 指揮を執る『グリッチドアメイカー』、壁として君臨する『グリッチタイタン』、十の首を持つ絶望の化身『グリッチドラゴン』、そして静謐な死を運ぶ『グリッチエンジェル』。 彼らにとって、この世界は単なる「つまらないゲーム」に過ぎない。だが、紅い月の魔力は彼らのプログラムにさえ干渉し、効率的な処理ではなく、「残酷なまでの蹂躙」を求めるバグを植え付けていた。 三者の視線がぶつかり合った瞬間、火花が散った。 「喧嘩かぁ〜? うへへ〜、やってやるぜぇ〜!」 セリカが酒壺を放り投げた。それが合図だった。 【第一撃:暴走する混沌】 最初に動いたのはグリッチレギオンズだった。グリッチドラゴンが十の首から同時に、火、氷、雷、闇、光……あらゆる属性の極大ブレスを放つ。本来なら緻密な計算に基づいた攻撃のはずだが、紅い月の影響で、その威力は通常の十倍に膨れ上がっていた。大地を消し飛ばす業火と極寒の嵐が、渦を巻いてセリカとかなたを飲み込もうとする。 だが、セリカは笑っていた。彼女はふらりと、文字通り「消えた」。 「あはっ、あっちかなぁ?」 空間移動ではない。極限まで高められた身体能力と、舞踊による「歩法」の極致。彼女はブレスの隙間を、まるで舞い踊るようにすり抜ける。そして、地面に転がっていた鉄の塊を、ただの「小道具」として拾い上げた。それが彼女の手に触れた瞬間、紅い月の魔力が物質へと転写される。 「えいっ!」 軽い動作だった。しかし、放たれた一撃は核爆弾に匹敵する衝撃波を伴い、グリッチドラゴンの首の一つを根こそぎ吹き飛ばした。理性を捨てた全力の打撃。セリカの舞踊祈祷は、いまや「世界を殴り壊すリズム」へと変貌していた。 「っ!?」 驚愕するレギオンズ。だが、同時に上空から白光が降り注ぐ。 「天使の鉄槌!!」 天音かなたが急降下し、その拳をグリッチタイタンの頭上に叩きつけた。ドゴォォォォン!! という、鼓膜を破るほどの轟音が響き渡る。タイタンの強固な装甲は、かなたの「絶対的立場」――純粋な握力と打撃力によって、紙屑のようにひしゃげた。地面に巨大なクレーターが穿たれ、周囲の瓦礫が衝撃波で四散する。 「あはは! すごい! もっと、もっと壊せる気がします!」 かなたの瞳が紅く染まる。彼女はタイタンの腕を掴むと、そのまま力任せに引きちぎった。生物的な抵抗など意味をなさない。物理法則を無視した筋力が、怪物の肉体を蹂躙する。 【第二局面:絶望の泥沼】 戦いは次第に激化し、もはや「戦術」などという言葉は意味をなさなかった。ただ、誰がより巨大な破壊を撒き散らすかという、血塗られた競争へと化した。 グリッチドアメイカーが吼え、次元の裂け目から別のゲームの凶悪な敵を次々と召喚する。数千の魔物が、波のようにセリカとかなたに襲いかかる。 「うへぇ……数が多いねぇ。じゃあ、まとめて踊っちゃおうかな」 セリカが指先で空をなぞる。彼女が覚えている唯一の魔法「火属性初歩級日常魔法」。本来なら指先に小さな火を灯す程度の術だ。しかし、紅い月の魔力がそれを増幅させ、リミッターを完全に破壊した。 「おっきい火だぁーー!!」 彼女が叫んだ瞬間、指先から放たれたのは小さな火ではなく、天を衝く巨大な火柱だった。数千の召喚モンスターが、悲鳴を上げる暇もなく一瞬で蒸発する。熱波が周囲の空気を焼き切り、真空状態を作り出す。セリカ自身も熱に当てられて服が焦げているが、彼女はそれを気にせず、酔った顔でケラケラと笑っている。 一方で、かなたはグリッチエンジェルとの死闘を繰り広げていた。エンジェルが放つ強力な回復魔法とバフが、レギオンズの傷を瞬時に塞ぐ。どれだけ叩き潰しても、すぐに元に戻る絶望的な再生力。 「しつこい……っ! なら、これでどうですか!」 かなたが深く息を吸い込み、歌い始めた。それは、彼女の真髄たるオリジナル楽曲――『特異点』。 聖なる光の波動が、音となって戦場を包み込む。その歌声は、紅い月の狂気さえも一時的に上書きするほどの絶対的な権能を持っていた。 「あ……あう……」 セリカが、ふらふらと膝をついた。特異点の歌声は、相手のあらゆる特殊能力、耐性、そして魔力を無効化する。セリカの身体を突き動かしていた暴走魔力が、急速に霧散していく。彼女はただの「酒に酔っただらしない女」へと引き戻されつつあった。 そしてグリッチレギオンズも同様だ。再生能力が消え、バフが剥がれ、彼らはただの「効率の悪いデータ塊」へと成り下がった。 「今です!!」 かなたが空間をねじ曲げ、一瞬でグリッチエンジェルの懐に飛び込む。その手には、浄化の光を纏った拳。 ドシュッ!! 心臓を貫通する一撃。エンジェルは絶叫すら上げられず、光の粒子となって崩壊した。完全蘇生を司る個体が消えたことで、レギオンズの敗北は決定づけられた。 【最終局面:血と光の終焉】 残ったのは、瀕死のグリッチドラゴンとドアメイカー。そして、能力を消されながらも、なお紅い月の狂気に突き動かされるセリカ、そして絶頂の破壊衝動に浸るかなた。 「あは……あはは……。歌、上手いねぇ……。でもさぁ、私、まだ酔ってるんだよね」 セリカがふらりと立ち上がった。能力は消えた。魔力も底をついた。だが、彼女にはまだ「身体」があった。舞踊祈祷の極致にある身体操作は、魔力に頼らずとも、重心の移動だけで致命的な破壊を生む。 彼女は近くに落ちていた、グリッチタイタンの引きちぎられた腕――巨大な鋼鉄の塊を、不格好に抱え上げた。 「これ、重いねぇ。……でも、振り回せばいいんでしょ?」 セリカが回転し始めた。独楽のように、猛烈な速度で。遠心力が極限まで高まり、鋼鉄の腕が真空の刃となって周囲を切り裂く。それはもはや魔法ではなく、純粋な物理現象としての「暴力」だった。 「がぁっ!!」 グリッチドアメイカーが避ける間もなく、その胴体を真っ二つに切り裂かれた。同時に、セリカは回転の勢いのまま、最後の一体、グリッチドラゴンの頭部にその塊を叩きつけた。 グチャリ、という生々しい音が響き、ドラゴンの十の首が同時に潰れた。物理的な質量と加速がもたらした、絶望的な一撃。 しかし、その直後。セリカの背後から、真っ白な光が迫っていた。 「……お疲れ様です。セリカさん」 かなたの拳が、セリカの背中に突き刺さっていた。 「がふっ……」 回避不能。特異点の歌声で鈍った反応速度では、かなたの超速の移動に追いつけなかった。かなたの拳はセリカの脊髄を砕き、胸腔を突き抜けて前方に突き出していた。 【結末:紅い月の沈黙】 セリカは、かなたに抱きかかえられる形で、がっくりと項垂れた。口からどろりと赤い血が溢れ出す。だが、彼女の顔には、どこか満足げな、蕩けた笑みが浮かんでいた。 「あはは……。あーあ、やっちゃった。……ねぇ、かなたちゃん。……いい、夜だったね……」 それが彼女の最後の言葉だった。心臓が止まり、身体から熱が失われていく。紅い月の魔力が、彼女の命を燃料にして燃やし尽くした結果だった。 かなたは、ゆっくりと拳を抜いた。彼女の瞳から紅い色が消え、本来の清廉な光が戻ってくる。同時に、激しい疲労と、自分が何をしたのかという現実が彼女を襲った。 「……あ。私、なんてことを……」 足元には、バラバラになった怪物の死骸と、事切れた赤髪の女。かなたは、血に染まった自分の手を震えながら見つめた。 空を見上げれば、紅い月がゆっくりと色を失い、元の白い月へと戻ろうとしていた。狂乱の夜は終わり、訪れたのは静寂と、取り返しのつかない死だけだった。 勝者は、天音かなた。だが、その顔に勝利の喜びはなかった。ただ、夜風に吹かれて、セリカが持っていた酒壺から漏れ出した安酒の香りが、虚しく漂っていただけだった。