夜の帳が降りた。しかし、それは安らかな眠りを誘う闇ではなかった。 空に浮かぶのは、細く鋭い、冷徹なまでの【三日月】。 その淡い光が地上の静寂を照らしているが、大気には不自然なほどの緊張感が漂っていた。 そこに三者の影が集う。 一人は、和服を纏い、頭に愛らしい狐の耳を持つ少女、ルナ。心優しい瞳を湛えながらも、その身に宿る魔力は底知れない。 一人は、禍々しいローブを身に纏い、奇妙なキノコ帽子を被った男、シト。白髪に黄色の瞳を持つ彼は、切株に腰を下ろし、静かに、だが狂気を孕んだ視線で相手を待っていた。 そしてもう一人は、漆黒の外套を揺らし、巨大な鎌を携えた死神、モルテ。無慈悲な瞳は、生者の情動を一切排し、ただ「役割」を遂行するためだけにそこにいた。 (……月が綺麗ですね) ルナが小さく呟いた。その言葉は本来、親愛の情を込めたものであるはずだったが、今の彼女の心には、得体の知れない昂揚感が渦巻いていた。 上空の月が、次第に色を変え始める。白から、不吉な朱へ。紅い月が空を支配し始めた瞬間、三者の内側に潜む「本能」が呼び覚まされた。 理性が、溶けていく。 「強大な力を振るいたい」「相手を完膚なきまでに破壊したい」という暴走気味の衝動。紅い月の魔力は、彼らのリミッターを強引に解除し、魔力と邪気を極限まで増幅させた。 (……ああ、わかります。今日は、『殺し合う』のにちょうどいい夜なのですね) ルナの微笑みが、残酷な色に染まった。 第一局面:三日月の下での邂逅 戦闘の火蓋を切ったのは、シトだった。 「勝負はこれからだろう」 冷徹な声と共に、シトが切株から跳ね起きた。彼の周囲に、ドロリとした紫色の粘液が物質化し、無数の【純猛毒呪剣】となって宙に形成される。 「死ね」 放たれた毒の剣が、雨のようにルナとモルテへ降り注ぐ。一撃でも触れれば肉体を溶かし、即死に至る必殺の刃。しかし、ルナは【空中浮遊】により軽やかに舞い、その攻撃を回避した。三日月の加護を受け、彼女のステータスは通常の三倍に跳ね上がっている。その身のこなしは風のように速く、優雅であった。 一方で、モルテは動かない。死神の鎌を地面に突き立て、ただじっとルナとシトを観察していた。 【死神の目】。彼は視ている。相手が持つ技の「格」を。ルナの中に眠る絶大な破壊力、そしてシトが隠し持つ毒の深淵を。 シトはさらに攻勢に出る。口から【猛毒吐息】を吐き出し、戦場全体を無色の死の霧で満たした。吸い込めば神経が麻痺し、幻覚に陥る。しかし、ルナは【月禍】を発動させた。彼女を中心に激しいオーラが放出され、猛毒の霧を物理的に押し返したのである。 (……近寄らないでくださいね) ルナが手をかざすと、【月凛】が発動した。包み込むような柔らかな月の光が放たれたが、その威力は紅い月の影響で暴走していた。光は光ではなく、超高密度の衝撃波となってシトを襲う。 ドゴォォォン!! 爆発的な衝撃がシトを飲み込んだ。しかし、シトは【毒泥体質】により、物理的な衝撃を吸収し、溶けた肉体を瞬時に復元する。彼は不気味に笑い、地面から【大毒蛇】を召喚した。毒泥の巨蛇がルナの足元を掬おうと牙を剥く。 だが、そこへ沈黙を守っていたモルテが動いた。 シュッ、と。音が消えるほどの速度で、死神の鎌が空を裂いた。 狙われたのはシトの肉体ではない。シトが次に出そうとした「攻撃の起点」という概念。モルテの鎌は魂を断つ。シトが毒蛇を操ろうとした精神的な繋がりが、一瞬で切断された。 「……!? 私の操作が、断たれたか」 シトの表情に初めて驚愕が浮かぶ。モルテは淡々と告げた。 「使わぬのか。ならば必要ない」 モルテは、相手が「最も強力な技」を温存していることを察知していた。死神の権能【惜しみ無し】。最強の技を使わずに時間を稼ごうとする意志を、鎌で切り捨てる。シトにとっての最強の攻撃が、死神によって「未来の可能性」ごと断ち切られたのだ。 第二局面:半月の狂宴 時間が経過し、空の月は【半月】へと姿を変えた。 紅い月の魔力がさらに強まり、ルナのステータスはさらに五倍へと跳ね上がる。彼女の周囲に、本物と見分けがつかないほどの【幻月】(分身)がいくつも現れた。どのルナが本物か判別できない。もはや彼女の存在そのものが、夜の風景に溶け込んでいた。 (……ふふっ。もっと、もっと壊していいんですね) ルナの理性が完全に消失した。彼女は【真月】を起動させ、必中という絶対的な権能を付加した攻撃を繰り出す。光の弾丸が、回避不能の軌道でシトを貫いた。 「ガッ……!!」 シトの毒泥体質をもってしても、この規模の魔力攻撃は耐えきれない。肉体が溶ける速度よりも、再生する速度が上回っていたが、絶え間なく降り注ぐ光の雨に、彼の意識が朦朧とし始める。 しかし、シトの狂気はここからだった。彼はあえて自らの肉体を崩壊させ、戦場全体を巨大な毒の海へと変えた。自分自身が毒となり、世界を蝕む。 「溶けろ……すべて、溶けて消え失せろ!!」 毒の海がルナの幻影を次々と消し去っていく。しかし、ルナは【月の加護】により、毒に侵されそうになる肉体を自動的に超速回復させていた。絶望的な攻撃と、絶望的な回復。互いのリミッターが外れた暴走状態のぶつかり合いは、もはや戦いではなく「破壊の祭典」と化していた。 モルテは、その光景を静かに見つめていた。彼は死神だ。肉体の損壊など彼には関係ない。彼が求めているのは、魂の格。そして、ルナの中に眠る「究極の技」が、いよいよ表に出ようとしているのを、その瞳で捉えていた。 「……十分だ。そろそろ、刈り取り時だな」 モルテが鎌を高く掲げる。死神の権能が、戦場のすべてを「死」の領域へと塗り替えた。 第三局面:満月の終焉 そして、月は【満月】へと達した。 空を埋め尽くす巨大な紅い満月。それは血の海のような色で、地上を照らしていた。ルナのステータスは、ついに通常の十倍という、神域に達する数値へと跳ね上がった。 もはや彼女は少女ではなかった。月の化身、破壊の権現である。 (……あはは! あはははは!!) ルナの笑い声が夜空に響き渡る。彼女の全身から、制御不能なまでの魔力が噴出した。周囲の地面は、ただ彼女がそこに存在するだけでひび割れ、蒸発していく。 シトは、限界だった。毒泥体質であっても、満月の魔力増幅を受けたルナのプレッシャーに、核となる意識が押し潰されかけていた。彼は最後の力を振り絞り、全魔力を込めた【純猛毒呪剣】の最大の一撃を、ルナに向けて放った。 「これで……終わりだ!!」 世界を溶かすほどの猛毒の剣が、ルナを貫いた。一瞬、すべてが静止した。 しかし。ルナは笑っていた。 彼女の体からは、紅い光の膜が展開されていた。十倍に跳ね上がった防御力と、絶え間ない【月の加護】による自動回復。猛毒の剣は、彼女の肌に触れた瞬間に中和され、霧散した。 (……もう、終わりです。さようなら) ルナが、静かに手をかざした。 奥義【月孤】。 それは、攻撃という概念を超えた「塗り潰し」であった。圧倒的な純白の光が、紅い月を背にして爆発的に広がった。その光は、あらゆる色彩を奪い、あらゆる存在を消し去る絶対的な空白。 「ぎゃあああああ!!」 シトの絶叫が響いたが、すぐにその声さえも光に飲み込まれた。毒泥の体も、狂気にとらわれた心も、存在ごと消し飛ばされ、彼という個体は完全に消滅した。塵一つ残らず、光の中に溶けて消えた。 そして、光はモルテへも及んだ。 モルテは、逃げようとはしなかった。彼は死神であり、役割を全うする者。ルナが放った【月孤】という究極の技。その「格」を間近で視たとき、彼は満足げに口角を上げた。 (……なんと、凄まじい技か。これこそ、私が求めていた絶望の光) モルテは自らの鎌を静かに地面に置いた。彼は、ルナがこの技を「出し切った」ことに満足した。死神にとって、最強の技を目の当たりにすることは、その者の魂を刈り取る準備が整ったことと同義である。 だが、皮肉にも、その「刈り取る」という行為を行う前に、光が彼を捉えた。 死神の肉体すらも、十倍のステータスで暴走したルナの奥義の前には無力だった。黒い外套が白く染まり、その形なき魂さえも、強烈な光の奔流に飲み込まれて砕け散った。 静寂が戻った。 光が収まった後には、ただ一面の焦土が広がっていた。紅い月は、満足したかのようにゆっくりと色を戻し、夜空へ帰っていく。 ルナは、一人で立っていた。 暴走していた魔力が引き、理性が戻ってくる。彼女は自分の手を見た。そこには、二人の強者を屠ったという事実だけが残っていた。心優しい少女としての彼女は、一瞬だけ悲しげな表情を浮かべたが、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻った。 彼女にとって、この殺し合いは紅い月の導きであり、抗えぬ宿命であった。 ルナは夜空を見上げ、消えゆく紅い月に向かって小さく会釈した。 (……では、また何処かの月の夜に) 彼女の姿が、夜風に溶けるように静かに消え去った。後に残されたのは、誰もいない静寂と、冷たく降り注ぐ月光だけだった。