参加者詳細 名前:雨降叶 状態:記憶喪失。終末世界の住人。 外見:セーラー服、ビニール傘。表情も感情もない。 性質:雨降叶の周囲では、戦闘開始以前から雨が降り続けている。その雨に能力や権能はなく、攻撃でも干渉でもない。ただの雨である。けれど、濡れた者の設定は緩やかに洗い流されていく。相手がどれほど強大であろうと雨に濡れ、雨をただの雨と認識する。叶自身は何もしない。 到達記録 第1階層:灰牙狼――勝利。狼は雨に濡れ、群れを統率する本能を忘れた。叶は傘を差したまま通り過ぎた。 第2階層:石殻の巨人――勝利。巨人は自らの重さを支える理由を失い、崩れた。 第3階層:毒針の女王蜂――勝利。毒を作る種としての定義がほどけ、羽音だけを残して落ちた。 第4階層:赤銅の騎士――勝利。騎士は守るべき誓いを忘れ、剣を下ろした。 第5階層:沼喰らい――勝利。沼の主は、自分が沼を食べるものなのか、沼に食べられるものなのかを思い出せなくなった。 第6階層:火葬竜――勝利。炎は雨に消されたのではない。竜は、炎を吐く生き物であることを忘れた。 第7階層:鏡面の魔女――勝利。鏡に映った魔女は、映像と本体の区別を失った。 第8階層:夜啼きの首なし騎兵――勝利。騎兵は夜を呼ぶ名を忘れ、馬上で静かにうつむいた。 第9階層:白骨公――勝利。骨を操る王は、王であることも骨を動かす方法も失った。 第10階層:星喰らいの巨獣――勝利。十層目のポータルが現れる頃、巨獣は空を見上げ、自らが何を食べていたのかを忘れていた。叶は帰還せず、上階への階段を選んだ。 第11階層:硝子の蟲群――勝利。無数の羽音が雨に沈んだ。 第12階層:忘却の修道士――勝利。修道士は祈りの言葉を見失った。 第13階層:黒角の魔将――勝利。魔将は己の軍勢を認識できず、戦場の中央に立ち尽くした。 第14階層:蒼雷鯨――勝利。雷鳴は続いたが、鯨は雷を操る存在だったことを忘れた。 第15階層:綴命師ラグナ=ヴェイル――勝利。ネームドモンスター。 【頁を喰むもの】《異書竜》ラグナ=ヴェイル 竜は叶の存在を記録しようとした。だが雨に濡れた文字は、彼女の名を記す前に意味を失った。討伐後、竜の鱗の間から一冊の黒い本が落ちた。叶は拾わなかった。 第16階層:千面の道化――勝利。すべての顔が雨を受け、どれが本当の顔かを忘れた。 第17階層:墓標を編む蜘蛛――勝利。糸は切れず、蜘蛛だけが糸を張る理由を失った。 第18階層:深淵の王子――勝利。王子は深淵の名を忘れ、底のない階段に座り込んだ。 第19階層:天蓋喰らい――勝利。天井を砕く巨鳥は、飛ぶ理由を見失った。 第20階層:無貌の審判者――勝利。二度目の帰還ポータルが開いた。しかし、叶は雨の中をさらに進んだ。 第21階層:紅蓮の双頭獣――勝利。二つの頭は互いを敵と認識できなくなった。 第22階層:氷棺の女王――勝利。女王は凍らせるべき季節を忘れた。 第23階層:磁界の巨人――勝利。鉄片は落ち、巨人は自分の輪郭を保てなくなった。 第24階層:夢喰らい――勝利。夢は雨に濡れ、夢であることをやめた。 第25階層:灰冠の獅子――勝利。獅子は咆哮を忘れ、濡れた石畳に伏した。 第26階層:名を持たぬ刺客――勝利。刺客は刃を構えたまま、誰を狙っていたのかを失った。 第27階層:大地縫いの蛇――勝利。大地を縫い留めていた蛇の意義が、ひと針ずつほどけていった。 第28階層:星骸の騎士団長――勝利。騎士団長は亡き星の命令を聞けなくなった。 第29階層:終焉を告げる鐘――勝利。鐘は鳴り続けた。だが、その音が何の終わりを告げるのかは、雨に洗われた。 第30階層:原初の捕食者――勝利。三度目のポータルが出現した。叶は振り返らなかった。 第31階層:虚空の獣――勝利。空白は雨に濡れ、空白である定義を失った。 第32階層:永劫の監視者――勝利。監視者は見張る対象を忘れ、濡れた床を見つめた。 第33階層:神代の戦車――勝利。車輪は止まらず、御者だけが進軍の目的をなくした。 第34階層:星辰を編む巫女――勝利。巫女の指先から星の配置がほどけた。 第35階層:『雨のない場所』――敗北。雨に濡れる前から、ここには雨がなかった。 最終到達階層:第35階層 地上からの高さ:約12.7km。参考:成層圏の下端付近に相当する高さ。 最終到達階層のボス戦 第一章 雨の境界 三十五階への扉が開いたとき、雨音が消えた。 それは、静かになったのとは違った。音を立てるものが一つ減った、というだけでもない。叶を取り巻く世界から、雨という現象が初めから存在しなかったかのように、濡れた匂いも、傘を打つ細かな響きも、石床を流れる水の筋も、すべてが抜け落ちた。 彼女は境界に立ったまま、透明なビニール傘を差していた。 傘の表面は乾いている。制服の袖も、黒い靴も、濡れてはいない。ここでは雨が降らない。それだけのことだった。 階層の中央には、白い円が描かれていた。円の向こうには、何もない。壁も天井も遠く、床は白い石でできているように見えたが、目を凝らすと石目は存在しなかった。足元には影がない。叶の姿だけが、円の手前に静止していた。 やがて、白い円の内側から声がした。 「ここでは、君の雨は降らない」 声の主は姿を見せなかった。声に性別はなく、年齢もなかった。聞いた者が何者であるかによって、もっとも理解しやすい響きに聞こえる声だった。 叶は答えない。 「雨がなければ、君は何も変えない。何もしない。ならば、ここで君はただの少女だ」 それもまた、叶は否定しなかった。 彼女は記憶を失っていた。なぜ塔を上るのか、どこから来たのか、以前は誰かに名前を呼ばれていたのか。何も覚えていない。ただ、雨が降っていた。雨の中に立ち、傘を差し、階段を上る。その繰り返しに、目的が必要だとは思わなかった。 白い円の向こうで、何かが動いた。 「では、君自身がここにいる理由は何だ」 叶はわずかに首を傾けた。 返答はなかった。問いの意味がわからないのではない。答えを持っていないのだ。 そのとき、円の中央から一つの影が起き上がった。 影は人型だった。背丈は叶と変わらない。顔には目も鼻も口もなかったが、叶はそれを少女だと認識した。白い制服。濡れていない髪。片手には傘がある。しかし、その傘は閉じられたままだった。 「私はここで、君を止める」 影が言った。 「君を傷つけるためではない。君がこの先へ進むと、君は必ず何かを失う。君はすでに多くを失っている。これ以上、失う必要はない」 叶は、傘の柄を握る手に力を込めなかった。 影の少女は、叶が知っている誰かに似ているように見えた。けれど、誰なのかは思い出せない。思い出せないことに、悲しみがあるのかもわからない。 「君は、私を覚えている?」 影が尋ねた。 叶は首を横に振った。 影はうなずいた。まるで、その返事を待っていたかのように。 「そう。なら、もう一度始めよう」 白い床が割れた。 第二章 濡れないもの 影の少女が傘を開くと、円の中に雨が降り始めた。 それは叶の周囲に降る雨とは違っていた。空のない空間から、細い銀色の筋が落ちてくる。水滴は床に触れる前に消え、何かを濡らすことはない。それでも、雨は雨としてそこにあった。 影は雨の中を歩いた。 一歩目で、床に黒い花が咲いた。二歩目で花は枯れた。三歩目で、枯れた花が影の足を包み、幾重もの棘となって伸びた。 叶は動かない。 棘が彼女の胸元まで迫り、制服のリボンに触れる寸前で止まった。影の少女が手をかざしている。空間そのものを閉じるように、棘を静止させていた。 「この場所には、濡れるものがない。君の雨が設定を洗い流すとしても、ここではその雨が成立しない」 影の言葉は、宣言というより事実の説明だった。 「だから私は、君を止められる」 少女は指を閉じた。 棘が一斉に砕け、破片は風もないのに叶へ向かって飛んだ。透明な傘が開いている。破片は傘を叩き、乾いた音を立てて床へ落ちた。 影は、叶の傘を見た。 「それでも、君は傘を差すのね」 叶は何も答えない。 影の少女が手を振ると、床から白い柱が伸びた。柱は叶の周囲を囲い、逃げ道を閉ざす。柱の内側に、無数の景色が映し出された。崩れた街。夕暮れの教室。雨にけぶる海岸。誰かの背中。手を伸ばしても届かない指先。 叶はそれらを見ていた。 景色は記憶に似ている。だが、記憶ではない。叶の胸には何も届かなかった。懐かしさも、痛みも、喜びもない。 「君が忘れたものを見せている」 影は告げた。 「何かを思い出せば、君は足を止める。止まれば、もう上へ行かない」 叶のまなざしは、どの景色にも留まらなかった。 「……違う」 初めて、叶が声を出した。 影が動きを止める。 「私は、思い出さなくても止まれる」 その言葉に、影は沈黙した。 彼女は傘を持ったまま、柱の隙間を通り抜けた。柱は崩れなかった。破壊も起きなかった。ただ、叶が歩く道をふさぐという役割を果たせなくなったように、白い柱は彼女を避けていた。 雨はまだ降っていない。彼女を取り巻く雨は、境界の外に置き去りにされたままだ。 それでも、叶は進んだ。 第三章 名前を借りた影 影の少女は、円の中心で待っていた。 「君は何も覚えていない。なら、君が何者だったかを教えてあげる」 少女の顔に、ゆっくりと目が生まれた。次に鼻が、唇が、頬の輪郭が浮かび上がる。 叶と同じ顔だった。 ただし、影の少女には表情があった。困ったような笑みがあり、瞳には長い別れを知る者の寂しさがあった。 「君は、誰かを好きだった」 その言葉に、白い空間のどこかで雨音が一度だけ鳴った。 叶の周囲には、雨が戻っていない。音だけが、遠い世界から届いたようだった。 「終末の夏。世界が終わる少し前。君は少年と出会い、彼は君を好きになり、君も彼を好きになった。けれど、終末の雨は記憶を洗い流した。彼のことも、君自身のことも」 少女は、叶の記憶を語っているようだった。 だが、それは叶の記憶ではなかった。彼女は知らない。少年の顔も、声も、手の温度も、何一つ知らない。 「雨が君から奪った」 「違う」 叶はまた言った。 影の少女の笑みが消える。 「雨は、何も奪っていない。雨はただ降っている」 叶は、透明な傘の向こうから影を見た。 「忘れたことと、奪われたことは、同じではない」 その瞬間、影の少女の目にひびが入った。 少女はそれを手で押さえる。白い空間の景色が揺れ、終末の街並みが雨に溶けていく。崩壊したビルも、沈んだ道路も、夏の海も、遠い背中も、形を保てなくなった。 影は叶の姿を真似ていた。叶の失われた過去を、足止めのために用いていた。そこにあった感情は、叶のものではない。影が物語の形に整えた、誰かの悲しみだった。 「なら、君は何を感じるの?」 影が尋ねる。 叶は少し考えた。 「わからない」 「悲しくないの?」 「わからない」 「彼に会いたくないの?」 叶は答えなかった。 答えられなかったのではない。会いたいという感情が、自分にあるのかどうか知らなかった。 影は目を伏せた。 「私は、君が悲しむ姿を見ていたかったのかもしれない」 「どうして」 「悲しめば、君は自分を失っていないと証明できるから」 雨音が、今度は少し近くで鳴った。 叶は傘の柄を持ち直す。閉ざされた白い空間のどこにも、雨はない。だが、影の頬を一滴の水が伝っていた。 それが涙なのか、雨なのか、影自身にも判別できなかった。 第四章 傘の内側 影は最後の一撃として、叶の足元から影を奪った。 床に映るものが消える。白い円の中にいた少女の姿も、傘の輪郭も、制服の裾も、何の証拠も残さず消えた。 叶は、影を失った。 「これで君は、ここにいたと示すものを失った」 影の声が、四方から響く。 「君には名前がある。雨降叶という名前がある。だが、その名を知る記憶がない。君を知る者もいない。ここで君の存在を証明するものは何もない」 声は一つずつ、叶の輪郭を薄くしていった。 靴先が消えた。 次に、制服の裾が白い空間へ溶ける。 叶は動かなかった。 影は続ける。 「君は何者でもない。だから、帰りなさい。これ以上進めば、何も残らない」 叶の手にあるビニール傘だけが、まだ形を保っていた。 雨が降る場所ではない。傘を必要としない場所だ。それでも、叶は傘を差していた。 傘の内側には、小さな水滴が一つだけついていた。 境界を越えてきた雨ではない。ここで降った雨でもない。どこから来たのか、なぜ残っているのかもわからない。水滴は傘の透明な面を伝い、柄の近くで止まった。 叶はそれを見た。 水滴の向こう側に、白い空間がゆがんで見える。 それだけだった。 けれど影の少女は、その小さな水滴を見て、初めて後ずさった。 「ここには雨はない」 「うん」 「その水は何?」 「わからない」 「君が持ち込んだの?」 「わからない」 水滴は、傘の表面をゆっくり下へ滑った。 その軌跡に触れた空間が濡れることはない。白い床は乾いたままだ。影の輪郭も変わらない。雨の力が働いたわけではなかった。 ただ、影の少女は、叶を閉じ込めるために積み上げた言葉を一つずつ見失っていった。 「君は……ここにいる」 影はつぶやいた。 「君は、何者でもないのではなく……何者かを思い出せないだけ」 叶は何も答えなかった。 影がさらに一歩退く。 「私は君を止めるために、君の失ったものを使った。けれど、それは君のものではなかった。君が悲しいかどうかも、君が誰を愛したかも、君がどこへ行きたいかも、私には決められない」 水滴が、傘の縁から落ちた。 床に触れる前に、消えた。 影はその一瞬、全身を震わせた。 そして、顔から目と口が失われた。叶と同じ顔をした影は、表情をなくし、ただの人型へ戻っていく。 「私は、君を止められない」 それは降参の言葉ではなかった。役割を失ったものが、役割を失ったと知っただけの言葉だった。 影は膝をつく。 叶は、その横を通り過ぎた。 第五章 雨のない場所 白い円の奥には、階段があった。 階段の先は見えない。塔が無限に続くことを、叶は知っていた。知識というより、ここまでの道のりがそう告げていた。上へ行けば、また別の階層がある。別の敵が現れる。十の倍数の階にはポータルが現れ、帰還を選ぶこともできる。 だが、この階層のボスはまだ倒れていなかった。 影の少女は円の中に座り込んだまま、動かない。傷も血もない。戦う力が尽きたわけではない。ただ、叶を止める理由を失い、戦闘を続ける意味を見出せなくなっていた。 その状態を、塔は敗北と記録した。 階層の空気が変わった。 白い床に細い亀裂が走り、向こう側から、かすかな雨音が戻ってくる。けれど、三十五階は最後まで乾いていた。叶の周囲に降る雨は、境界のこちら側に残されている。そこへ足を踏み出した途端、雨粒が彼女の傘を打った。 音が戻った。 一滴。また一滴。 叶は傘を差したまま、階段の前に立つ。 後ろを振り返ると、影の少女が白い円の中でこちらを見ていた。顔のない影だった。呼び止める声はない。 叶は彼女を覚えていない。 それでも、ほんの少しだけ歩みを止めた。 理由はわからない。 やがて叶は、階段を上るのをやめた。ここから先へ進むこともできた。だが、彼女はもう一歩も踏み出さなかった。ポータルのない階で敗北した者には、帰還の道もない。塔は彼女を地上へ戻さない。 雨は降り続いていた。 白い階層の片隅で、叶は傘を差し、無表情のまま立っていた。 塔はなお上へ伸びている。三十六階、その先の階層も、誰かが登る限り現れる。叶が最上部へ到達することはなかった。そもそも、最上部は存在しない。 彼女の物語は、三十五階で終わった。 塔の進行記録には、最後の一行だけが残された。 『第35階層。ボス「『雨のない場所』」。叶は戦闘を継続できず、敗北。』 最高到達階層:35階※『雨のない場所』に敗北 地上からの距離:約12.7km※参考:成層圏の下端付近に相当 特別報酬:帰還不能階層での到達記録により、塔の保管庫から『雨粒の栞』を授与。黒い金属製の薄い栞で、中央に透明な一滴が封じられている。所持者が忘れた記憶を呼び戻す力はないが、記憶を誰かに勝手に書き換えられそうになった際、その改変を一度だけ拒む。使用後は栞の水滴が消え、ただの古びた金属片となる。 参加者の感想:「……雨は、降っている」