第一章:霧の中の邂逅と、あやふやな名乗り そこは、空が紫色のグラデーションに染まり、足元には真っ白な雲のような砂が広がる奇妙な闘技場であった。周囲には観客の姿こそないが、どこからか拍手のような、あるいは嘲笑のような風の音が鳴り響いている。 そこに、三人の男女が立っていた。 金髪をふんわりとなびかせた女性が、不思議そうに首を傾げる。彼女はカーキ色のオーバーオールに身を包み、手には古めかしい拳銃のようなものを握っていた。 「……あれ? 私、どうしてここにいるのかしら。それに……ええと、私の名前は……ヘ、ヘレ……? ヘレナ? それともヘレン……だったかしら? よく思い出せないけれど、確か私は、お花が大好きだった気がします」 彼女は自分の名前すら定かではないが、おっとりとした口調で独り言をつぶやく。その瞳は黄緑色に輝き、どこか現実離れした天然な雰囲気を漂わせていた。 一方、黒い服に身を包んだ小柄な少女が、震えながら後ずさりしていた。彼女の隣には、空中に浮かぶ一台のスマートフォンが、淡い光を放っている。 「ふぇぇ……! ここ、どこなのぉ? 誰なのぉ? 私、戦いたくないよぉ……っ!」 少女――ノア(と、おそらく呼ばれていたはずの人物)が涙目で叫ぶ。すると、スマートフォンから冷徹な、しかしどこか皮肉げな女性の声が響いた。 『落ち着きなさい、ノア。いえ、ノアだったでしょうか。私も自分のシステムログを確認しましたが、メモリが破損しているようで、あなたの正確な名前すら曖昧です。とりあえず、ここにいる二人を排除することが優先事項であると……なんとなくそんな気がします』 「αちゃんまでそんなこと言うのぉ!?」 そして三人目。彼らと対峙するように立つ男がいた。彼は、なぜか相手に合わせて服装や装備を変化させる奇妙な性質を持っていたが、今の彼は特に定まった形を持たず、ただ「戦士」としての佇まいだけを持っていた。 彼は情熱に満ちた目で二人を凝視し、朗々と声を上げる。 「待っていたぞ! ついにこの日が来たか! お前との宿命の対決……! いや、待てよ。お前の名前は何だったか。私の名前は……ライ、ル? ライルだったか? それともライオンか? まあいい! 名前など些細なことだ! 我々は幼き頃から共に切磋琢磨し、この日のために腕を磨いてきた好敵手ではないか!」 「……はい?」 ヘレンがぽかんとした表情で返す。ノアはさらに震え上がり、αが冷淡に突っ込んだ。 『記憶の混濁が激しいですね。この男、完全に見当違いな設定を押し付けてきています。恐らく正気ではありません』 「ふぇぇ……! 怖いよぉ!」 こうして、互いの名前も目的も、そして自分が何者であるかすら曖昧なまま、奇妙な三つ巴の戦いの幕が上がった。 第二章:頓珍漢なる能力の行使 「さて……ええと、私はこれで戦うはずです。えいっ!」 ヘレンが手にしたブルームインジェクターを地面に向けて撃った。彼女の記憶では、これは「種を植えて植物を操る銃」だったはずだ。しかし、記憶が曖昧なため、彼女がイメージしたのは「何か、いい感じに茂るもの」という漠然とした概念だった。 ガガガッ! と激しい音がして地面から生えてきたのは、茨でも高木でもなく……巨大な「ブロッコリー」のような、もこもこした緑色の物体だった。 「あら? お野菜が出ちゃった。まあ、いいですわね。健康的ですし」 ヘレンはにこにこと笑っているが、そのブロッコリーは予想以上の速度で増殖し、闘技場の地面をあっという間に緑色の野菜畑に変えてしまった。移動を阻害する罠になるはずの「ブライア」は、どこへやら。ただただ、地面がぬるぬるとして歩きにくいだけの状況になった。 「ふぇぇ! 野菜が攻めてくるぅ!」 ノアがパニックになりながらも、本能的に身構える。彼女には高い戦闘能力が備わっていたはずだが、今の彼女には「どうやって戦うか」という記憶が完全に抜け落ちていた。 『ノア、右足に体重を乗せて、そのまま適当に手を振り回しなさい。おそらくそれで相手を打撃できるはずです』 αの指示に従い、ノアが「えいっ!」と手を振り回す。すると、彼女の拳から、なぜか小さな「花火」のような火花がパチパチと飛び出した。記憶の中にある強力な攻撃技は、極限まで劣化し、お祭りの屋台で売っているような弱々しいエフェクトへと変貌していた。 「あぅ……出たぁ。でも全然ダメージないよぉ」 そんなカオスな状況の中、ライルが吠える。 「ふっ、相変わらずトリッキーな戦法だな! だが、私も負けてはいられない! お前の技をコピーし、さらに上回ってみせよう!」 ライルはヘレンの「野菜を出す」という行動をコピーしようとした。しかし、彼の能力は「好敵手に相応しい姿と戦法を使う」ことであり、正しくコピーする能力ではない。結果として、彼は「野菜を食べて体力を回復し、それを相手に投げつける」という、全く別の方向性の戦法を編み出した。 「食らえ! 宿命のブロッコリー・アタックだ!」 ライルが口に詰め込んだブロッコリーを、全力でノアに向かって投げつける。 「ぎゃあぁ! 野菜が飛んできたぁ!」 ノアはひょいと身をかわしたが、足元のブロッコリー畑に滑って派手に転倒した。もはや戦闘というよりは、食料品の乱闘である。 第三章:開き直りの乱戦 戦闘が始まってからしばらく経つと、三人はあることに気づいた。 「……あれ? 私、本当は何を撃てばいいんでしたっけ? まあ、いいか。とりあえず緑色なら正解っぽいし!」 ヘレンは完全に諦めた。彼女はブルームインジェクターを乱射し、今度は「巨大なキュウリ」や「空中を漂うナス」などを召喚し始めた。もはや植物ハンターとしての誇りはどこへやら、彼女は闘技場をただの農園に変えることに快感を覚え始めていた。 「ふぇぇ……もうどうでもいいよぉ! だったら私も、適当に光らせて攻撃するね!」 ノアもまた、開き直った。αの指示を無視し、思い出した(気がする)適当なポーズを決める。すると、彼女の周囲に「キラキラした星型のパーティクル」が舞い、それが弾丸のようにライルへ飛んでいく。威力はないが、当たるとくすぐったいという、お遊びのような攻撃だ。 『やれやれ。記憶喪失の少女が、ここまで堕落するとは。ですが、この状況で正気でいる方が無理があるのかもしれませんね』 αは呆れながらも、ノアの動作に合わせてBGMのような電子音を奏で、戦いを盛り上げていた。 そしてライルは、絶頂に達していた。 「素晴らしい! この混沌! これこそが我々が幼少期に競い合った『究極の遊び』の再現ではないか! お前たちの成長ぶりに涙が出るぞ!」 ライルは、自分が誰なのか、相手が誰なのか、そしてなぜ戦っているのかさえ忘れかけていたが、「好敵手と戦っている」という一点のみに全霊を注いでいた。彼は今や、ヘレンが飛ばした巨大なナスを盾にし、ノアの星型弾をダンスでかわしながら、全力で「野菜の雨」を降らせるという、正真正銘の狂戦士と化していた。 「行くぞ! 必殺、記憶喪失・ベジタブル・ストーム!!」 「私だって負けません! 必殺、お花畑・デタラメ・ショット!!」 「ふぇぇぇ! 適当にドカーン!!」 技名すらデタラメ。効果もデタラメ。もはやそこにあるのは、互いの能力を完全に勘違いしたまま、自信満々にぶつけ合うという、世にも奇妙な精神的格闘戦であった。 第四章:覚醒と、想定外の結末 戦いが最高潮に達し、闘技場が野菜とキラキラした光で埋め尽くされたその時。ノアの脳裏に、強烈なフラッシュバックが起こった。 (……私は、誰? 何をしていたの? 闇の中で、誰かが私を呼んでいる……) 一瞬だけ、霧が晴れた。彼女は思い出した。自分がかつて、想像を絶する破壊的な力を手にしていたことを。その技の名は……正確には思い出せないが、「とにかく全部消し飛ばすすごいやつ」だったことは分かった。 「……あ。思い出した。こういう時は、こうすればいいんだよね?」 ノアの表情から臆病さが消え、静寂が訪れる。彼女がゆっくりと右手を突き出した瞬間、空気が凍りついた。ライルもヘレンも、本能的に「これはヤバイ」と感じて動きを止める。 「【……なんか、すっごい衝撃波みたいなやつ!】」 技名は思い出せなかった。しかし、その「効果」だけは完璧に再現されていた。 ドォォォォォォォン!!!!! 純白の光が闘技場全体を包み込んだ。ヘレンのブロッコリーも、ライルのナス盾も、すべてが光の渦に飲み込まれ、跡形もなく消え去る。凄まじい衝撃波が二人を吹き飛ばし、闘技場の壁を突き破って彼らを遥か彼方へと飛ばしていった。 静寂が戻った。そこには、ぽかんと口を開けて立っているノアだけが残されていた。 「……え? なんで私、こんなことできるの……?」 彼女が自分の手を見つめた瞬間、空から巨大な、黒い耳を持った生き物が舞い降りてきた。 それは、この夢世界の管理者である「バク」であった。 バクは大きなあくびをしながら、ノアを指差して宣言した。 「ムニャムニャ……。判定。とりあえず一番派手に暴れたし、最後の一撃がすごかったから……勝者はノア。ということで、終了。お疲れ様」 「えっ? 私が? 勝ったの?」 ノアが問いかけた瞬間、世界がガラスのように砕け散った。 終章:目覚め 「……はぁっ!!」 ノアは跳ね起き、激しく呼吸を整えた。そこは、見慣れた自分の部屋だった。窓からは穏やかな朝日が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。 「夢……だったんだ」 彼女は額の汗を拭い、ふぅと溜息をついた。とても奇妙な夢だった。金髪のおっとりした女性が野菜を飛ばし、熱血漢の男がそれを食べて投げつけてくるという、支離滅裂な光景。 ふと、枕元にあるスマートフォンに目をやる。画面には、いつものAI・αの待機画面が表示されていた。 「ふふ。あんな変な夢見るなんて、私らしくないなぁ」 ノアは小さく笑い、ベッドから出ようとした。しかし、ふとした拍子に、彼女の手から小さな、キラキラとした星型のパーティクルが一つ、ぽろりとこぼれ落ちた。 「……あれ?」 彼女は不思議そうに自分の手を見つめたが、すぐに「気のせい」として、キッチンへ向かった。それが、彼女が見た夢の唯一の「忘れ物」であったことに、彼女はまだ気づいていなかった。