東洋の深い山々に抱かれた、静謐な空気の流れる地。そこに、古びてはいるが手入れの行き届いた老舗旅館「栄愛之湯」はひっそりと佇んでいた。紅葉が山肌を赤く染め、せせらぎの音が心地よいこの地へ、奇妙な縁に導かれた面々が訪れる。 まず到着したのは、色鮮やかな異形、ホソメンであった。彼は「世界を知る」という飽くなき好奇心から、地図にない名湯を求めて山道を突き進んでいた。触手の髪をなびかせ、三又の槍を背負った彼は、入り口の看板を見て満足げに頷く。 「オデ、良い湯の気配を感じた! ここが栄愛之湯か。己の肌でこの地の文化をシル!」 続いて、黒いコートを翻し、優雅な足取りで現れたのがフェレスである。彼は悪魔としての暇つぶしに、人間たちの「休息」という贅沢を観察しにきた。皮肉げな笑みを浮かべ、チェックインの手続きを心待ちにしている。 そして、不機嫌そうに黒剣を腰に下げた小柄な剣士、ミシウが到着。彼女は賞金稼ぎの道中で、あまりに激しい疲労に耐えかね、「ひとまず休ませろ」と自分に言い聞かせてここへ辿り着いた。その背後からは、芋くさいジャージ姿で、半分寝ながら歩くアマエルが「もう無理……歩けないよぉ……」と、ふにゃふにゃに溶けかかった状態でついてきていた。 旅館の帳場では、腰の曲がったが眼光だけは鋭い「婆さん」が、一行を迎え入れた。 「まあ、賑やかな客さんが来たねぇ。まあ、ゆっくりしていきな」 チェックインを済ませた一行は、男女別の二つの大部屋へと分かれた。男部屋では、ホソメンが興奮気味に旅の思い出を語り、フェレスがそれを「実に人間臭い、稚拙な冒険譚だね」と皮肉りながらも、心地よさそうに耳を傾けていた。女部屋では、ミシウが「ったく、あいつ(アマエル)はいつまで寝てんだ」と毒づきながらも、布団を整えてやるお節介を焼いており、アマエルは「ふへ……ミシウちゃん、いい匂いがするよぉ……」と、彼女の腰に抱きついて完全に脱力していた。 そして、待ちに待った夕食後。彼らは、この宿の自慢である「紅葉貸切露天風呂」へと向かった。 男女の風呂は、見事な竹垣によって完全に隔てられている。しかし、その壁一枚を隔てて、彼らは同時に湯に浸かり、秋の夜風と美しい紅葉を堪能していた。 「ふぅ……。やはり湯は最高だ。オデ、心身ともに浄化される気分!」 ホソメンが気持ちよさそうに触手を湯に浸している。隣ではフェレスが、白湯に浸かりながら「精神の弛緩こそ、欲望への近道。実に興味深い」と、哲学的な独り言を呟いていた。 一方、女風呂側では、ミシウが「……まあ、たまにはこういうのも悪くないな」と、武装を解いて小さく息を吐いていた。アマエルは、湯船に浮かんで「もはやここが私の墓場だよぉ……帰りたくない……」と、至福の表情で漂っていた。 だが、その静寂は突如として破られた。 「ギギギギギ!!!」 男風呂の上空から、不吉な羽音が轟いた。正体は、この山に潜む魔物、【ゆらめく新緑】シンリョクチュウの群れである。彼らは敵意むき出しに、猛毒の鱗粉を撒き散らしながら、男風呂へダイブした! 「なっ!? 何だこの虫どもは!」 ホソメンが驚愕して飛び起きた瞬間、シンリョクチュウの一斉攻撃が始まった。猛烈な羽ばたきによる衝撃波と、鱗粉の嵐が男風呂を襲う。その際、一体の巨大な個体が全力で突進し、なんと男女を隔てていた竹垣を正面から突き破った! ガシャアアァッ!! 竹垣が全壊し、露天風呂が物理的に「ひとつ」になった。そこには、全裸のホソメンとフェレス、そして同様に全裸のミシウとアマエルの姿があった。 「――っ!?!? お前ら!!」 ミシウが顔を真っ赤にして叫ぶが、状況は最悪である。シンリョクチュウの鱗粉が舞い、それは湿気(湯気)に反応して「粘つく毒液」へと変化。床はぬめるほどに滑りやすくなり、さらに鱗粉の精神汚染により、全員の羞恥心が極大化し、判断力が鈍っていく。 「オデ、戦う! だが……なんだか恥ずかしい!!」 ホソメンが【モリモリトライデント】を手に立ち上がろうとしたが、足元のぬめりで盛大に足を滑らせた。「わあああっ!」と叫びながら転倒し、そのまま勢いよくミシウの方へ激突。ホソメンの頭部の触手が、不運にもミシウの胸元に絡みつくという大惨事が起きた。 「この、このっ! 変態魚人!!」 ミシウが怒りの咆哮を上げ、反射的に黒剣を振るおうとしたが、彼女もまた足元の粘液に足を取られ、バランスを崩してホソメンの上にのしかかる形に。もはや何が起きているのか分からない混沌とした状況である。 フェレスは冷静にそれを躱そうとしたが、シンリョクチュウの「鋭い口吻」が不意に彼の肩に刺さった。意識がぼーっとして、身体から力が抜ける。 「おや……これはナンセンスだね……ふふ……」 意識が朦朧としたフェレスがよろめき、ちょうど隣にいたアマエルの上にゆっくりと倒れ込んだ。アマエルは「あー……いい感じ……」と、そのままフェレスを抱きしめる形で、究極の包容力を発動。しかし、その結果、戦意という概念そのものが消滅し、周囲の空気はさらに緩んでしまった。 「もしかして、みんなで一緒に寝る時間?」 アマエルの天然な一言に、ミシウが正気を取り戻して叫ぶ。 「寝る時間じゃねえ! 戦え!!」 ミシウはぬめる床を無理やり蹴り、【俊撃】を繰り出した。しかし、滑りすぎたため攻撃の軌道がズレ、結果的にホソメンの尻を強烈に蹴り上げる形に。ホソメンはそのまま空中に舞い上がり、シンリョクチュウの群れに真っ向から突っ込んだ。 「オデ、空を飛んだ!!」 ホソメンは空中で【イカのスミ】を大量に吐き出し、視界を遮断。さらに【フジツボ】の吸着力でシンリョクチュウの親玉にガッチリと張り付き、そのまま【ヤシガニ】の馬鹿力で引きちぎらんばかりに投げ飛ばした。 フェレスも意識を取り戻すと、溜息をついて指を鳴らした。 『ドント・ア・ライ』 嘘を吐く者はいないが、シンリョクチュウの「偽りの誘惑(鱗粉)」という概念に対し、強烈な精神的拒絶をぶつけ、虫たちの判断力を完全に破壊した。 最後は、アマエルの「もうお前ら全員帰れ~!」という、絶望的なまでの面倒くささが爆発した。強力な強制送還の波動が露天風呂を包み込み、生き残っていたシンリョクチュウたちは、文字通り「どこか遠くへ」吹き飛ばされ、敗北した。 ……静寂が戻った。 そこには、全裸で、互いに絡まり合った状態で、呆然とする男女がいた。湯けむりと、壊れた竹垣。そして、互いの肌の温もりと、言いようのない気まずさが充満していた。 「………………」 誰も口を開かなかった。ミシウは顔を真っ赤にしたまま、ゆっくりとホソメンから離れた。フェレスはスマートに身を引くと、どこからか持ってきたタオルで体を包み、遠い目で空を見た。 彼らは、なんとも言えない、不可思議な連帯感と、猛烈な羞恥心に包まれたまま、共同で竹垣を直す作業に取り掛かった。ホソメンがヤシガニの力で柱を固定し、ミシウが手際よく縄を縛り、フェレスが魔術的な補強を施し、アマエルが(たまに)手伝う。完璧なチームワークだった。 その後、彼らは三人(と一人)で、婆さんの前に並んだ。 「……すまなかった。わざとじゃないが、壊した」 ミシウが深々と頭を下げ、ホソメンも「オデ、本当に申し訳なかった!」と触手を垂らして謝罪した。 婆さんは、あきれたように笑っていた。 「いいよ、いいよ。賑やかなのはいいことだ。またおいで」 各自、自分の大部屋に戻った一行。しかし、布団に入っても、彼らの心はざわざわしていた。 ホソメンは、触手を枕の下に潜り込ませ、今日起きた「不可思議な接触」について考え込んでいた。世界を知る旅の中で、これほどまでに心拍数が上がった出来事はなかった。 フェレスは、天井を見つめながら、「人間的な感情とは、実に非効率で……そして心地よいものだ」と、自嘲気味に微笑んでいた。 ミシウは、布団に顔を埋めて「クソッ、最悪だ! あの魚人、絶対次に会ったら斬る!」と叫んでいたが、その頬はまだ赤いままであった。 アマエルは、「ふへ……お風呂、いい気持ちだったなぁ……」と、すべてを忘れて深い眠りに落ちていた。 翌朝。 チェックアウトを済ませ、旅館を後にした彼らは、改めてそれぞれの帰路についた。 「またな、お前ら。……次こそは、まともな状況で会おうぜ」 ミシウがぶっきらぼうに言い放つ。 「オデ、またここに来たい! 最高の思い出になった!」 ホソメンが快活に笑う。 「さて、私は私の道をゆこうか。いい経験になったよ」 フェレスは軽やかに手を振って去っていった。 それぞれが、心の中に消えない「何か」を抱えながら。紅葉の山道を、彼らはそれぞれの目的地へと歩き出した。