空が燃えていた。 それは比喩ではなく、物理的な現象に近い。天に掲げられた月は、不吉なほどに深く、濃い紅に染まっている。その紅い月が放つ魔力は、地上に降り注ぐ静かな猛毒のように、そこに集いし者の精神を侵食していた。理性を削り、本能を突き動かし、心に潜む「破壊」への渇望を増幅させる。理性を司る前頭葉が麻痺し、代わりに生存本能と殺戮衝動が暴走し始める。 ーーー否、そうか。今日は『殺し合う』のにちょうどいい夜ということか。 その場にいた三者は、自らの内側で魔力がリミッターを外れ、奔流となって溢れ出すのを感じていた。だが、それを危惧する者は一人としていない。むしろ、この全能感に満ちた狂乱こそが、彼らが待ち望んでいた「正解」であるかのように、三者は互いに牙を剥いた。 一方は、白の魔導服を纏い、フードの奥に正体不明の深淵を潜ませた『至高の魔術師』。 一方は、巨大な紙飛行機に乗り、超高度から冷徹な眼差しを地上へ向ける少女、『三神織子』。 そしてもう一方は……地面に転がる、なんの変哲もない、ただの『石』。 静寂を破ったのは、天から降り注いだ絶望の警報だった。織子の出現と共に鳴り響く、出所不明のサイレン。それが合図となり、血を血で洗う、理外の殺戮戦が幕を開ける。 「……不純だ。この夜に相応しくない雑音が多すぎる」 織子が低く呟くと同時に、彼女の周囲に数千、数万という武装した紙人形が展開された。スキル【ケイオス】。通常であれば軍隊一つを殲滅するに十分な物量だが、今の彼女は紅い月の魔力に当てられ、その出力が異常に跳ね上がっていた。紙人形の一体一体が、まるで本物の熟練兵のような殺気を放ち、超高速で地上へと投下される。それは白い雪のように降り注ぎながら、同時に鋭利な刃となって大地を切り裂いた。 至高の魔術師は、動かない。ただそこに立っているだけで、彼の周囲には【トロイアの壁】が展開されていた。常時発動の結界。降り注ぐ紙人形の群れが壁に接触した瞬間、爆発的な衝撃波と共に、紙の人形たちが塵に変わる。しかし、紅い月の影響で、織子の攻撃は「概念的な切断」へと変質していた。壁を貫こうとする絶え間ない衝撃。至高の魔術師はフードの奥で、【純白の瞳】を僅かに開いた。 (……ふむ。出力が過剰だ。理性による制御を捨てた分、純粋な破壊力だけが研ぎ澄まされている) 至高の魔術師にとって、この状況はむしろ心地よかった。数千年の隠居生活で飽き果てていた。理性を捨て、全力で暴走していい夜。彼は右手を軽く上げた。詠唱はない。ただの意思。それが最高位の攻撃魔術へと変換される。 「――消えろ」 彼が指を弾いた瞬間、上空の空間が「裂けた」。次元断裂。織子が乗る巨大な紙飛行機を真っ二つに切り裂く不可視の刃が、光速を超えて飛翔する。同時に、彼は禁忌の重力魔術を重ね掛けし、上空一帯を文字通り「押し潰そう」とした。 ドォォォォォン!! 空が鳴った。衝撃波だけで周囲の森はなぎ倒され、大地には巨大なクレーターが刻まれる。しかし、織子は冷静だった。否、狂乱の中の冷静さだ。彼女は【ディストーション】を発動させ、空間をねじ曲げることで、至高の魔術師の攻撃を強引に逸らした。空間が歪み、次元の裂け目が不自然な方向に曲がる。その反動で彼女の腕の皮膚が裂け、血が噴き出すが、彼女はそれを快楽として受け入っていた。 「忘れたのなら……何度でも思い出させてやる。この世の理を、私の足元に跪かせろ!」 織子が叫ぶ。彼女は【サクリファイス】を展開した。爆弾型の折り紙が、紅い月の光を吸収して黒く染まり、至高の魔術師へと降り注ぐ。それは単なる爆弾ではない。紅い月の魔力と融合し、「触れたものを強制的に消滅させる」という特攻属性を得た死の雨だ。 至高の魔術師は、あえて結界を解いた。そして、至高の格闘術をもって、降り注ぐ爆弾を「素手で叩き落とし始めた」。 バチン! バシン!! 音速を超える打撃。爆弾が爆発するよりも早く、彼はそれを物理的に弾き飛ばし、同時に掌から「極小の特異点」を発生させて爆発のエネルギーを吸収・転換する。暴走気味の魔力により、彼の攻撃一つ一つが山を崩すほどの威力を持っていた。彼は一気に距離を詰め、空間を跳躍(ブリンク)して織子の目の前に現れた。 「至高とは、こういうことだ」 至高の魔術師の拳が、織子の腹部に突き刺さる。それは単なる物理打撃ではない。衝撃を内部で数千回増幅させる概念打撃。織子の身体は紙飛行機と共に、数百メートル後方へと弾き飛ばされた。内臓が潰え、肋骨が砕ける音が空に響く。しかし、彼女は笑っていた。口から溢れる鮮血を拭いながら、紅い月の魔力に突き動かされ、さらなる狂乱へと突き進む。 一方、この激闘の最中、誰一人として気に留めていない存在がいた。 地面に転がる、『インフィニティストーン』だ。 それはただの石である。自我もない。感情もない。ただそこに在るだけだ。しかし、この石には「自分をただの石だと思わせる」という強力な認識阻害が掛かっている。至高の魔術師も、三神織子も、目の前で世界が壊れかけているというのに、足元の石に意識を向けなかった。 だが、戦いは激しさを増し、ついには臨界点に達する。 至高の魔術師は、自身の魔力リミッターを完全に解除した。白の魔導服が紅い月の光に染まり、彼の周囲に数万の魔法陣が幾何学的に展開される。時空、因果、生命、破壊。あらゆる概念魔術を同時に起動し、一つの「特異点」へと集約させる。それは、一つの世界を再構築し得るほどの、あまりにも過剰な威力。 対する織子も、自身の生命力を全て魔力に変換し、【サクリファイス】の最終形態を構築していた。彼女の身体はもはやボロボロで、紙飛行機も半分以上が消失している。だが、その瞳には紅い月の狂気だけが宿っていた。 「全て……焼き尽くせ!!」 白と赤。二つの絶大なエネルギーが衝突した。 ――ズガガガガガガガガァァァァン!!!!! 光が全てを塗り潰した。視覚も、聴覚も、存在さえも消し飛ばすほどの白い爆閃。衝撃波は地平線まで届き、周囲の地形は完全に消滅した。物質が原子レベルまで分解され、虚無が支配する空間。そこには、もはや戦う者たちの姿はなかった。 静寂が訪れる。紅い月だけが、満足げに彼らを見下ろしていた。 ……いや、一人だけ、生き残っていた。 爆心地のど真ん中。全てが消え去った灰の海の中に、ぽつんと一つ。ただの石が転がっていた。 インフィニティストーン。彼は、ただの石だったからだ。至高の魔術師の究極魔術も、織子の全霊の爆撃も、彼にとっては「ただの風」に過ぎなかった。認識されていないものは、攻撃の対象にならない。また、もともと防御力などという概念を必要としない、ただの石であったからだ。 しかし、その石は割れていた。 爆風の最後の一片が、偶然にも石の表面を叩き、小さなひびが入った。その瞬間、石の内部に封じられていた「無限の力の薬」が、微量に漏れ出した。 ……だが、彼は石だ。感情はない。 そして、彼には【セーブアンドロード】という能力があった。 (自分が割られた。ロードする) 石の意識(のようなもの)がそう判断した瞬間、世界の時間は巻き戻った。爆発が起きる前、至高の魔術師と三神織子が激突する数秒前へ。そして、再び「ただの石」として地面に転がった。 しかし、ロードされた世界で、運命は残酷だった。 巻き戻った時間の中で、至高の魔術師は【純白の瞳】で、世界の因果の揺らぎを察知した。彼は「今、この瞬間に、何かが起きた」ことを理解した。そして、彼は初めて、足元にある「石」に目を向けた。 (……なるほど。この不自然な静寂。この石こそが、この場の特異点か) 至高の魔術師は、好奇心に駆られた。彼は、その石を指先で軽く拾い上げた。 その瞬間である。 【インフィニティストーン】のスキルが発動した。 『自分に触った人は、自分と同じただの石になる』 至高の魔術師は、数千年の経験、あらゆる魔術の知識、概念的な防御壁の全てを持っていた。しかし、このスキルは「魔術」ではない。それは「定義」の書き換えである。至高の魔術師という存在を、「ただの石である」という定義に上書きする。理屈を飛び越えた、絶対的な等価交換。 至高の魔術師の身体が、急速に灰色に変色していく。白の魔導服が石化し、金の腕輪が岩に変わり、フードの奥の深淵さえもが、ただの無機質な鉱物へと成り果てた。 彼は驚かなかった。ただ、「ああ、そういうことか」と納得した。最強であることの果てに、最強の不条理に触れた。彼は、静かに、ただの石へと変わった。 一方、空にいた三神織子は、至高の魔術師が石化したことで、彼に向けて放っていた全エネルギーの行き先を失った。彼女は自身の暴走した魔力に飲み込まれ、内部から崩壊し始めた。 「あ……あぁ……」 彼女が最後に見たのは、紅い月だった。不吉な予兆。強大な力の象徴。そして、その下に転がる、二つの「ただの石」。 織子の身体は、紅い月の光に焼かれ、最後の一片まで灰となって風に舞った。 勝者は、いない。いや、勝者という概念さえ持たないものが、ただそこに在った。 紅い月がゆっくりと沈んでいく。夜明けが近づき、空が元の色に戻る頃、そこにはただ、二つの石が転がっているだけだった。 一つは、数千年の歴史を持つ至高の魔術師だった石。 もう一つは、最初からただの石だった石。 風が吹き抜け、石を転がす。それは、この世で最も静かで、最も残酷な結末だった。