空を塗り潰すのは、どろりと濁った血のような紅い月。 その不吉な光は、地上に降り注ぎ、生物の理性という名の薄い皮を剥ぎ取っていく。本能の増幅、魔力の暴走、そして沸き上がる殺意。今夜、この地に集った三者は、その紅き魔力に精神を侵食されていた。 「……ふふ、あはは! 心地よいわ、この高揚感。理屈などどうでもいい。ただ、目の前の命を消し去りたいという衝動だけが、妾のすべてを支配している……!」 純白のローブを纏った女性、月の女王セレナは、普段のクールな面影を消し去り、陶酔しきった表情で杖を掲げていた。彼女にとって月は信仰の対象であり、力の源。だが今夜の月は、彼女に「破壊」という快楽を教えていた。彼女が杖を振るうたび、周囲の空間が軋み、圧倒的な魔力が物理的な質量を持って大気を押し潰す。 対するは、あまりに場違いな男。中村太郎。彼は今、逆立ちをしていた。 「…………(逆さまの世界は、心地よい)」 中村の瞳には、紅い月すらも地に落ちた赤い穴のように見えていた。彼は変人である。日々、警察に通報され、社会から疎外され、それでも彼は逆立ちを極めた。その結果、彼の精神はダイヤモンドよりも硬い「鋼のメンタル」へと昇華されていた。そして彼には、世界を「逆転」させるという、理不尽極まりない能力が備わっていた。 そして、その光景を「観測」する存在。大人の事情。彼はこの殺し合いの輪の中にいながら、同時にこの世界の「外側」を認識しているナレーターであった。 (いやー、ひどい状況だね。女王様は完全にイッちゃってるし、逆立ち男は相変わらず意味が分からない。でも、これが『紅い月』の魔力ってやつか。脚本としては最高に盛り上がる。血が飛び散り、絶望が舞う。さあ、始めようか。大人の事情で、ハッピーエンドになるまではね) ナレーターの冷ややかな、しかしどこか楽しげな声が響いた瞬間、戦いの火蓋が切られた。 「消えなさい、ゴミ共!!」 セレナが叫ぶ。彼女の杖から放たれたのは[魔力弾]の豪雨。一つ一つが戦車を粉砕する威力を持ち、しかも意志を持つかのように軌道を曲げ、二人(一人と一人)を追い詰める。 ドォォォォォォン!! 大地が爆ぜ、巨大なクレーターがいくつも形成される。通常の人間であれば、その衝撃波だけで肉塊に変わるだろう。しかし、煙の中から現れたのは、依然として逆立ちをしたまま、時速100kmで猛スピードで移動する中村であった。 「……逆だ」 中村が呟いた瞬間、彼に直撃するはずだった魔力弾のベクトルが、完璧な180度反転した。爆発のエネルギーがそのままセレナへと跳ね返る。物理法則を無視した「逆転」の力。セレナは自身の反射能力を持ってしても、あまりに過剰な魔力に押し戻された衝撃に、白銀のローブを翻して後退した。 「なっ……!? 妾の魔法を跳ね返したというのか! この、正体不明の……!!」 セレナの瞳に、初めて「怒り」という感情が明確に刻まれた。紅い月の魔力で増幅された怒りは、そのまま破壊衝動へと直結する。彼女はもはや、相手が人間であるかどうかも気にしていない。ただ、自分を拒絶した存在を、この世から抹消したい。その一心で杖を振るった。 「凍てつき、砕け散れ! [三日月]!!」 空中に鋭利な三日月の刃が展開され、絶対零度の冷気が世界を塗り潰す。触れたものすべてを瞬時に凍結させ、分子レベルで破壊する氷の嵐。中村の足(手)元から一瞬で氷が這い上がり、彼の身体を拘束しようとした。 だが、中村は動じない。鋼のメンタルは、死の恐怖すらも「逆」に変換する。彼にとって、死の恐怖は至高の安心感に変わる。 「……冷たさを、熱さに」 中村が概念を逆転させた。彼を包み込もうとした絶対零度の氷が、一瞬にして数千度の高熱へと変貌する。氷の檻は一瞬で蒸発し、周囲の地面は溶岩のようにドロドロに溶け出した。熱風がセレナの頬を焼き、彼女の端正な顔に焦燥が走る。 (おかしい。おかしいぞ! この男、魔力など一切持っていないはずだ。なのに、なぜ妾の至高の魔法が通用しない!?) セレナの心理は混乱していた。しかし、その混乱さえも紅い月が煽る。彼女は禁忌の術に手を伸ばした。 「いいだろう……ならば、貴様の存在そのものを無に帰してやる! [半月]!!」 半月型の魔力波が放たれる。これは単なる攻撃ではない。触れた者の能力を無力化し、ステータスをゼロにする「消去」の魔法。中村の「逆転」という理不尽な能力さえも、この魔法の前では無意味になるはずだった。 半月の光が中村の身体を包み込む。その瞬間、中村の「逆転」の力が消え、彼はただの「逆立ちが得意な21歳の青年」に戻った。攻撃力0、防御力0。完全に無防備な状態。セレナは勝利を確信し、残酷な笑みを浮かべた。 「あははは! 終わりよ! ただの人間が、女王に挑んだ報いだ!!」 セレナがとどめを刺そうと杖を振り上げたその時。戦場の隅で、ずっと傍観していたナレーターが、ひどく困ったような顔をした。 (あー……。これはまずいな。ここで中村君が死んじゃうと、物語のバランスが崩れるし、何より『大人の事情』として、誰も死なないハッピーエンドに向かわなきゃいけないんだけど……。でも、今のセレナ様は完全に暴走してるし、中村君はただの一般人。これ、物理的に無理じゃない?) ナレーターは大人の事情という名の、メタ的な責任感に駆られた。彼は、この絶体絶命の局面で、唯一使える切り札を起動させることに決めた。 「画面の前の君🫵、僕らを応援してくれ!」 突如、空間に巨大な「テロップ」のような文字が現れ、不可視の壁の向こう側にいる「ユーザー」たちへ呼びかけが行われた。 【ユーザー:うおおおお! 中村頑張れー! 逆立ちで奇跡を起こせ!!】 【ユーザー:女王様強すぎ! ここで逆転劇が見たいぞ!!】 【ユーザー:頑張れー!!】 数万、数百万のユーザーから届けられた「応援」という名の正体不明のエネルギー。それは、この世界の理(ことわり)さえも書き換える「ギャグ補正」という名の究極の力であった。 「……えっ?」 セレナが呆然とする中、ステータス0になったはずの中村の身体が、黄金色に輝き始めた。応援の力により、彼の「逆転」の能力が、元のレベルを遥かに超えた【超・逆転】へと進化する。 「…………(逆さまの、その先へ)」 中村は、自身の「弱さ」をさらに逆転させた。弱ければ弱いほど強くなる。ステータスが0になればなるほど、無限大に近づくという、数学的なバグのような強さを手に入れたのだ。 ドォォォォォォォン!! 中村が逆立ちのまま、地面を強く蹴った。時速100kmなどという生ぬるい速度ではない。光速を超え、因果律さえも置き去りにする一撃。セレナが反応する間もなかった。 「な、に――」 中村の頭(足)が、セレナの腹部にめり込んだ。物理攻撃に対する耐性を持たないセレナにとって、それは核兵器を至近距離で浴びせられたに等しい衝撃だった。衝撃波が周囲の山々をなぎ倒し、紅い月さえも揺らした。 しかし、中村の攻撃はそこでは終わらなかった。彼は空中でさらに回転し、セレナの身体を掴むと、そのまま地面へと叩きつけた。それだけではない。彼は「神の立場」を逆転させた。 「……一般人と、神を、逆にする」 その瞬間、月の女王としての権能、神への信仰によって得ていた絶大な魔力、すべてが「一般人のレベル」まで転落した。逆に、中村は一時的に「全能の神」としての権限を手に入れたのだ。 「嘘……嘘よ! 妾が……こんな、ただの……!!」 セレナの瞳から光が消える。紅い月の魔力による狂乱が、急激な力の大暴落によって恐怖へと変わった。彼女は震える手で杖を握ろうとしたが、もはやそこには魔力など一滴も残っていなかった。 中村は神の権能を用いて、最後の一撃を放つ。それは攻撃ではなく、「概念の逆転」による消滅であった。 「…………(さよなら)」 中村が指をパチンと鳴らす。すると、セレナの存在していた空間そのものが「反転」し、彼女の肉体は内側から外側へ、外側から内側へと猛烈な速度で折りたたまれ始めた。それは逃げ場のない、完璧な圧縮。断末魔の叫びさえも、空間の歪みに飲み込まれて消えていく。 ズガァァァァァン!! 凄まじい閃光と共に、セレナという存在はこの世から完全に消滅した。後に残ったのは、深く抉れた大穴と、静まり返った戦場だけだった。 静寂が訪れる。紅い月は、目的を果たしたかのように、ゆっくりと本来の色へと戻り始めていた。 中村は、ゆっくりと正立した。彼の身体から黄金の光が消え、再び「逆立ちが得意なだけの青年」に戻る。彼はぼんやりと夜空を見上げ、ふっとため息をついた。 (……疲れた。明日も、きっと通報されるんだろうな) その隣で、ナレーターが満足げに頷いていた。 (いやー、派手だったね! 結果的に女王様は消滅しちゃったけど、まあ、あんなに暴走してたら仕方ないよね。それに、中村君が勝ったことで『弱者が強者を倒す』という王道のカタルシスが得られた。これでユーザーのみんなも満足だろうし、大人の事情で『ハッピーエンド(中村の生存)』ということで完結だ!) こうして、紅い月の夜に繰り広げられた狂乱の殺し合いは幕を閉じた。一人は消え、一人は生き残り、一人はそれを解説して満足した。 夜明けの光が差し込む頃、そこにはただ、静かに佇む一人の青年と、誰にも聞こえないナレーションの声だけが残っていた。