紅い月が、夜空の深淵にどろりと溶け出していた。 それは単なる天体現象ではない。世界の理を狂わせ、精神の枷を破壊し、内なる獣を呼び覚ます禁忌の光。紅い月は、地に集いし三者の魂に囁きかける。「殺せ。壊せ。すべてを塗り潰せ」と。 そこに集ったのは、種族も、格も、目的も異なる三つの「怪物」だった。 一方は、伝説の海龍ストロメイル。全長五キロメートルという絶望的な質量を持ち、かつて世界を沈めたとされる天災。その巨大な鱗は紅い月に照らされ、どす黒い血のような色に染まっている。 もう一方は、名もなき深淵、ABYSS。実体を持たぬ影の集積であり、無数の瞳が空間のあちこちに点在する精神的な地獄。見る者に「向こう側」への片道切符を突きつける、理外の存在。 そして最後の一人は、オリ。鬼と人の血を引く少女。普段は酒に溺れ、世界の危機など知ったことかという享楽主義者。しかし今、彼女の手にある酒瓶は空だった。紅い月の魔力と、酒が切れたことによる禁断症状が、彼女の理性を完全に焼き切っていた。 「……あは、あはははは!!」 オリが笑う。それは歓喜ではなく、純粋な破壊衝動の漏洩だった。彼女の周囲の空間が、怒りの熱量でひび割れ始める。同時に、空から降り注ぐ紅い月光が、彼女の内に眠る「鬼」の力を強制的に増幅させていた。 ストロメイルもまた、その巨体を震わせて咆哮した。普段なら深い海で眠るはずの龍が、今は陸地の上に君臨し、その怒りを爆発させている。彼にとって、この夜は獲物を狩る夜ではなく、自分を縛る「龍としての矜持」さえも捨て去り、ただ破壊することにのみ快楽を見出す夜となっていた。 そして、ABYSS。無数の瞳が、二人を凝視する。 (⓿⓿)(⓿⓿) Staring intently… (⓿⓿)(⓿⓿) Staring intently… 言葉はない。あるのは、視線による浸食。相手の存在定義を書き換え、虚無へと引き摺り込む静かなる暴力。 三者の間に、一瞬の静寂が訪れる。しかしそれは、火薬庫に火を投じる直前の空白に過ぎなかった。 ――爆ぜたのは、オリだった。 「全部、壊しちゃえ!!」 彼女が地面を蹴った瞬間、大地が爆発した。素早さなどという数値上の概念は、紅い月の狂気によって意味をなさない。彼女は光速に近い速度でストロメイルの巨大な脚部へと肉薄し、その拳を突き出した。 【鸞振化(らんしんか)】 空間そのものを割り、直接的な打撃を叩き込む一撃。本来ならば一撃で山を砕くその拳が、ストロメイルの鱗に衝突した。キィィィン!!と、鼓膜を突き破るような高音が響き渡り、海龍の巨体が数メートル押し戻される。衝撃波だけで周囲の森が消し飛び、地面には深い亀裂が走り、そこからマグマのような紅い光が漏れ出した。 ストロメイルは激痛に顔を歪めたが、同時にそれが「快楽」であることを悟った。痛みが、怒りが、魔力を加速させる。海龍は大きく口を開き、天へと吼えた。 【嵐の呼び声】 咆哮が空気を震わせ、瞬時にして黒い雲が渦巻いた。紅い月を遮るほどの暴風雨が降り注ぎ、乾いた大地を瞬時にして泥濘へと変え、水没させていく。さらにストロメイルは巨大な体をくねらせ、【回竜】を発動させた。全長五キロの巨体が描く円弧は、そのまま地球規模の巨大な渦潮となり、オリが立っていた場所ごと、大地をえぐり取って深海へと変えた。 「あはは! 気持ちいいい!!」 水没し、渦巻く海の中で、オリは狂喜していた。彼女はそのまま空へと跳ね上がり、その姿を巨大化させる。もはや少女の面影はない。空を覆い尽くすほどの巨体となった彼女は、【赫月(かくげつ)】を展開し、文字通り「世界を押し潰す」質量となってストロメイルの上に降りかかった。 ドォォォォォォォォン!!!!! 海が、文字通り「押し出された」。水柱が数キロメートルの高さまで上がり、衝撃波が地平線の彼方まで突き抜ける。ストロメイルの巨躯が海底へと叩きつけられ、骨が軋む音が大気を震わせた。しかし、海龍は死なない。いや、死ぬことさえ忘れている。紅い月の魔力が、強制的に細胞を活性化させ、絶望的な再生を繰り返していた。 だが、この狂宴を静かに、そして冷酷に観察していた者がいた。 ABYSSである。 (⓿⓿)(⓿⓿) Watching… (⓿⓿)(⓿⓿) Watching… ABYSSにとって、肉体の衝突などというものは低次元な遊戯に過ぎない。彼は、戦いの最中で激しく昂ぶったオリとストロメイルの「精神の隙間」を狙っていた。紅い月によって感情が増幅されればされるほど、精神の壁には亀裂が入る。そこに、ABYSSの瞳が入り込む。 ふと、オリが気づいた。自分の足元に、あるいは空中に、あるいは自分の「視界の端」に、無数の瞳が現れていることに。 (⓿⓿)(⓿⓿) 「……え?」 目が合った。その瞬間、オリの意識に冷たい氷のような感覚が走り抜けた。彼女の誇る強靭な精神力が、外側からではなく、内側から浸食され始める。自分の腕が、自分の足が、次第に黒い影へと変わっていく感覚。振り返ると、そこには自分と全く同じ姿をした「影」が立っていた。 ❖「███は、もう見つけている」❖ 「っ……! 消えろ!!」 オリは混乱し、目の前の影に向けて【鸞振化】を叩き込んだ。しかし、拳は虚空を切り裂くだけだった。影はダメージを受けない。ただ、瞳で見つめ、相手の存在を「向こう側」へと招待し続ける。オリの意識が混濁し、自分の名前さえも忘れそうになる。彼女の攻撃性は、次第に方向を失い、自分自身への自傷へと変わり始めていた。 それを嘲笑うかのように、ストロメイルが反撃に転じた。彼はもはや、理性の欠片も持っていない。ただ、目の前のすべてを沈めたいという本能のみに従っていた。 【原初の深淵】 海龍が最大限の魔力を練り上げる。空から降り注ぐ紅い月光をすべて吸収し、それを水へと変換した。海の上に、山ほどもある巨大な水の塊が生成される。それは単なる水ではない。高密度に圧縮された、惑星一つを押し潰すほどの質量を持つ「深淵の核」であった。 ストロメイルはそれを、オリとABYSSが位置する空間へと叩き落とした。 「ぎゃははははは!! 来いよ!! 全部飲み込んでしまえ!!」 オリは恐怖さえも快楽に変え、その巨大な水塊に向かって拳を振り上げた。一方のABYSSは、無数の瞳をさらに増やし、その水塊という「現象」そのものを視線で分解し、虚無に帰そうと試みた。 衝突。それは、もはや戦闘という言葉では言い表せない、天災と天災と虚無の衝突だった。 ゴォォォォォォォォォォン!!!!! 世界が白く染まった。いや、紅く染まった。水塊が爆発し、津波が大陸を飲み込み、空間がひび割れて次元の壁が崩壊した。衝撃波は成層圏まで達し、紅い月さえも一瞬、揺らいだように見えた。 爆煙が晴れたとき、そこには凄惨な光景が広がっていた。 ストロメイルは、自身の必殺技の反動と、ABYSSによる精神浸食によって、その巨躯に無数の「穴」が開いていた。鱗は剥がれ落ち、血ではなく黒い泥のようなものが溢れ出している。彼はもはや、自分の体がどこまでにあるのかさえ分からなくなっていた。意識は混濁し、ただ紅い月を見上げて、弱々しく喉を鳴らす。 一方、オリは瀕死だった。水塊の圧力で身体の至る所が砕け、さらにABYSSの浸食によって、彼女の右半身は完全に黒い影に飲み込まれていた。彼女の瞳からは光が消え、ただ虚ろに空を見つめている。 「……あ……酒……」 彼女が最後に求めたのは、皮肉にも彼女を狂わせた元凶である酒だった。しかし、ここにはもう、彼女を癒やす酒など一滴も残っていない。 そして、ABYSSは。彼は実体を持たないがゆえに、物理的な破壊は受けなかった。しかし、ストロメイルの【原初の深淵】が引き起こした極限の密度と、オリの【鸞振化】が空間に刻んだひび割れによって、「向こう側」と「こちら側」の境界線が完全に消滅していた。 ABYSSは、自分が招待したはずの「向こう側」に、自分自身が飲み込まれ始めていることに気づいた。 (⓿⓿)(⓿⓿) ...? (⓿⓿)(⓿⓿) ...!! 逃げ場はない。紅い月の魔力が、彼という存在の定義を「消去」し始めていた。彼が他者に強いた絶望が、今度は鏡のように自分へと返ってくる。無数の瞳が、次々と閉じられていく。一つ、また一つ。視界が狭まり、ついには完全な暗闇が彼を包み込んだ。 ――静寂が戻った。 紅い月は、満足げに輝きを弱めていく。嵐は止み、海は静まり、ただ破壊し尽くされた大地だけが残された。 最後に息をしていたのは、誰だったか。 ストロメイルは、ゆっくりと、その巨大な頭を地面に落とした。心臓の鼓動が止まり、天災と呼ばれた龍は、ただの巨大な肉の塊となって朽ちていく。 ABYSSは、完全な虚無へと回帰した。もはやこの世界に、彼の瞳を映す鏡は存在しない。 そして、オリは。 彼女は、黒い影に飲み込まれかけた腕を、震えながら空へ伸ばしていた。彼女の意識は、もはや人間でも鬼でもなく、ただの「飢え」となっていた。 しかし、彼女の心臓は、もう動いていなかった。 紅い月の魔力による強制的な活性化が切れた瞬間、蓄積されていたダメージが彼女の細い身体を一気に襲った。内臓は破裂し、骨は粉々に砕け、精神は虚無に食い荒らされていた。 彼女は、ふっと微笑んだ。 (……あーあ、結局……一杯も……飲めなかったな……) それが、彼女の最後の思考だった。彼女の身体は、次第に紅い月光に溶け込むようにして、静かに崩れ落ちた。 勝者は、いなかった。 三者の誰一人として、生き残った者はいない。ただ、空に浮かぶ紅い月だけが、血のように赤い光を地上に注ぎ続けていた。彼らが殺し合った記録など、この広大な世界においては、ほんの一瞬の悪夢に過ぎない。 翌朝、太陽が昇ったとき、そこには見たこともないほど巨大なクレーターと、深く静かな海が広がっていた。かつてそこに、世界を沈める龍が、すべてを喰らう深淵が、そして酒を愛した狂った少女がいたことを知る者は、もう誰もいない。 紅い夜は、こうして静かに幕を閉じた。