##チームA 場虎亜県の薄暗い路地裏。湿ったコンクリートの壁に囲まれ、街灯が不規則に点滅するその場所で、走は自分の愛車である自転車に跨っていた。小学生一年生という幼さながら、その脚力は宇宙の物理法則をあざ笑う。走にとって、自転車を漕ぐことは呼吸をすることと同じであり、同時にこの世で最も心地よい快楽であった。彼はふと、目の前の空間が歪んでいることに気づいた。陽炎のような揺らぎが路地の突き当たりに現れ、そこから一台の自転車と共に「誰か」が現れた。 そこに立っていたのは、走だった。しかし、その姿は今の走とは決定的に異なっていた。平行世界の走は、光り輝く白銀のサイクリングウェアに身を包み、胸元には見たこともない権威ある組織のエンブレムが刻まれている。彼は「世界超速連盟」という、この世界には存在しない特異点管理組織の最高責任者であり、人類の速度限界を管理し、統制する絶対的な権力者としての立場にいた。彼にとって自転車は単なる趣味ではなく、世界を統治するための聖なる道具であり、法であった。 平行世界の走は、静かに自転車から降りると、幼い自分を見つめて冷徹な、しかしどこか懐かしげな眼差しを向けた。彼は感情を排した事務的な口調で、しかし威厳を持って口を開いた。 「……未分化の個体か。この時間軸の私は、まだ純粋に速度を追い求めている段階にあるということか。不効率極まりないが、その無垢な加速への渇望こそが、私を頂点へと導いた原動力であったことを思い出させる」 平行世界の走は、懐から洗練されたデザインの計測器を取り出し、現在の走が放つ特異点としての波形を測定し始めた。彼の行動には一切の迷いがなく、すべてが計算され尽くした完璧な動作であった。彼は今の走に対し、指導者としての矜持を持ってこう告げた。 「いいか、少年。速度とは自由ではない。速度とは責任だ。光速を超えた先にある因果の崩壊を制御できぬ者は、ただの破壊者に過ぎない。お前が今享受している『楽しい』という感情は、やがて巨大な孤独へと変わる。だが、その孤独こそが最強の証明となるのだ。今はただ、その稚拙なペダル回しに身を任がえればいい」 走はこの状況に激しく困惑した。目の前にいるのは自分でありながら、自分とは正反対の空気を纏っていたからだ。今の走にとって、自転車は「楽しい」から漕ぐものであり、誰かに教えられたり、管理されたりするものではない。また、大人びた表情で理屈を並べる自分という存在が、ひどく不気味で、同時にどこか寂しそうに見えた。 (なんだか、あのお兄さん、僕と同じ顔してるけど、全然笑ってないや。自転車が楽しいんじゃないの? 責任とか、孤独とか、難しいことばっかり言って……。あんな風に自転車に乗るの、全然楽しくなさそう。僕は、もっともっと速く、ただ楽しく走りたいだけなのに!) 一方、平行世界の走は、目の前で不思議そうに首を傾げる幼い自分を見て、胸の奥に疼く激しい郷愁を感じていた。彼は権力と責任という重圧に押し潰され、いつしか「自転車を漕ぐ喜び」を忘れていた。彼にとっての速度は、管理し支配するための手段へと成り下がっていたのである。純粋に、ただ全力でペダルを漕ぎ、世界を置き去りにすることだけを願う少年の瞳に、彼はかつて自分が失った「純粋な光」を見た。 (……眩しいな。私はいつから、速度を計算し、効率を求め、支配の道具として利用するようになったのだ。この少年が持つ、根拠のない自信と純粋な好奇心。それこそが、特異点として最も純粋な形態だったはずだ。私はすべてを手に入れたが、同時に最も大切な『楽しさ』という感覚を喪失していた。この無垢な自分こそが、ある意味で私よりも完成された存在なのかもしれぬな) 二人は互いに近づこうとしたが、見えない壁に阻まれたかのように、物理的な接触を拒絶された。攻撃することなど微塵も考えていなかったが、運命の境界線が彼らの接触を許さなかった。平行世界の走は、ふっと口角をわずかに上げ、彼にとって最大級の慈しみを持って最後の一言を投げかけた。 「……せいぜい、今のうちにたくさん笑っておけ。光速の彼方で待っているぞ、小さな私よ」 そう言い残すと、平行世界の走は再び光の揺らぎの中へと消えていった。路地裏には再び静寂が訪れ、走だけが取り残された。走はしばらくの間、自分がいた場所を見つめていたが、やがていつもの元気な笑顔を取り戻し、ハンドルを強く握りしめた。 「よくわかんないけど、あのお兄さんには僕がもっと楽しく走ってるってこと、いつか教えてあげたいな! よーし、もっともっと速く漕ぐぞー!」 走がペダルに力を込めた瞬間、路地裏に凄まじいソニックブームが鳴り響いた。彼は再び、時間と因果を置き去りにする速度へと加速し、光の線となって場虎亜県の街へと消えていった。 ##チームB 場虎亜県の路地裏。ゴミ捨て場の横にある狭い空間に、ピナツ・ダイスーキは立っていた。彼の周囲には、なぜか大量のピーナッツが散乱している。彼はアメリカ人英語教師という知的な肩書きを持ちながら、その精神のすべてを「いかにして他者にピーナッツを食わせるか」という一点に注ぎ込む、類稀なる情熱の持ち主であった。彼は今、路地裏という密室に近い環境で、最高のピーナッツを供するタイミングを計っていた。 そこへ、空間の裂け目から一人の男が現れた。それは、ピナツ・ダイスーキの平行世界の姿であった。しかし、その姿は現在の彼とは似ても似つかぬ、極めて陰鬱で絶望的な雰囲気を纏っていた。平行世界のピナツ・ダイスーキは、かつて世界を救うはずだった最強の諜報員であり、あらゆる言語を操り、あらゆる戦場を生き抜いた伝説のエージェントであった。しかし、彼はある任務の失敗により、親友、家族、そして自分が信じていた正義のすべてを失っていた。彼は今、所属していた組織からも追われ、孤独と憎しみに塗りつぶされた逃亡者として、絶望の淵を歩んでいた。 平行世界のピナツ・ダイスーキは、ボロボロのコートに身を包み、疲れ切った目で今のピナツ・ダイスーキを見た。彼の瞳には、生きることへの意欲など欠片もなく、ただ深い闇が広がっていた。彼は低く、枯れた声で呟いた。 「……ふん。別の世界の私は、こんなにもくだらないことに人生を費やしているのか。ピーナッツだと? こんな豆粒のようなものに情熱を注ぎ、他人に押し付けて回る……。笑わせるな。この世に価値あるものなど何一つない。愛も、信頼も、誇りも、すべては砂のように指の間からこぼれ落ちる。お前が信じているその『情熱』という名の幻想も、いつか残酷な現実に塗り潰されるだろう」 平行世界の彼は、絶望に染まった心で、目の前の男が持つ底抜けの能天気さを軽蔑した。彼にとって、目的もなくただピーナッツを配るという行為は、人生に対する冒涜に近いほどに空虚に見えた。彼は静かに目を閉じ、自らの喪失感に浸りながら、この幸福すぎる自分という存在を消し去りたいという衝動に駆られたが、身体が動かなかった。 しかし、現在のピナツ・ダイスーキは、そんな絶望的なオーラを完全に無視していた。いや、正確には、相手がどれほど不幸であろうとも、彼にとっての優先順位は常に「ピーナッツを食わせること」であった。彼は目の前の男が放つどす黒い感情など、まるで春の陽だまりのような温かいピーナッツの香りで塗りつぶそうと試みた。彼は満面の笑みを浮かべ、懐から黄金色に輝く最高級のピーナッツを取り出し、勢いよく差し出した。 「ヘイ! ユー! 凄く暗い顔をしてるね! それはピーナッツが足りていない証拠だ! ほら、これを食え! ピーナッツを食えば、悩みなんて全部ピーナッツになる! ピーナッツは最高だ! ピーナッツこそが人生の正解なんだよ! Come on! Eat this Peanut!」 ピナツ・ダイスーキは、相手が伝説のエージェントであろうが、絶望した逃亡者であろうが関係なかった。彼にとって、この世のすべての悲しみは、美味しいピーナッツ一粒で解決可能であるという絶対的な信念があった。彼は身振り手振りでピーナッツの素晴らしさを説き、あたかもそれが世界を救う唯一の手段であるかのように熱弁を振るい始めた。 平行世界のピナツ・ダイスーキは、あまりの理不尽さに呆然とした。自分は人生のすべてを失い、死さえも待ち望んでいるというのに、目の前の自分は「ピーナッツを食え」という一点のみで世界を構築している。そのあまりにも単純で、あまりにも意味不明な行動原理に、彼は人生で初めて「困惑」という感情を抱いた。怒りでも悲しみでもなく、ただただ「理解できない」という感覚。それは、彼が忘れていた「好奇心」に近い感情であった。 (……馬鹿か。本気で言っているのか。この男は、本当に私と同じ人間なのか? ピーナッツ一粒で絶望が消えるはずがない。だが……なぜだ。この男の瞳には、私がかつて持っていた、いや、持っていたはずの、根拠のない自信と純粋な喜びが満ちている。何も持たず、ただピーナッツだけを信じているこの姿は、すべてを失った私よりも、よほど強く、自由に見えるではないか……) 現在のピナツ・ダイスーキは、相手の感想など気にせず、さらに畳み掛けた。彼は【無】から大量のピーナッツを生成し、足元をピーナッツの海で埋め尽くし始めた。路地裏がピーナッツの香ばしい香りに包まれ、絶望の闇が物理的にピーナッツで押し出されていく。 「見てくれ! ピーナッツの海だ! ここに浸かれば、君の心もピーナッツ色に染まるはずだ! 英語の授業で教えるよ、『Peanut is Everything』! ピーナッツこそがすべてなんだ!」 二人の間には、決して交わらない絶望と、それを軽々と飛び越えていく狂気的な情熱があった。平行世界のピナツ・ダイスーキは、差し出されたピーナッツを一粒、震える手で受け取った。それを口に運んだ瞬間、香ばしい風味が口いっぱいに広がり、一瞬だけ、彼の中の凍りついた心が溶けた気がした。 「……ふん。くだらない。本当に、救いようのない馬鹿だ、私は」 そう呟いた平行世界の彼の口元には、ごくわずかに、本当にわずかに、微笑みが浮かんでいた。彼はもう一度深くため息をつくと、ピーナッツの海に足を浸したまま、静かに空間の裂け目へと戻っていった。彼が消えた後には、大量のピーナッツと、満足げに胸を張る一人のアメリカ人英語教師だけが残された。 「あーあ、行っちゃったね。でも、最後はちゃんと食べてくれたし、いい授業になったかな! よーし、次は誰にピーナッツを食わせようか!」 ピナツ・ダイスーキは鼻歌を歌いながら、路地裏に散らばったピーナッツを丁寧に拾い集め、再び新たな「標的」を探して、軽快な足取りで歩き出した。彼の背中には、世界を救うヒーローよりもずっと、ピーナッツへの情熱に満ちた誇りが漂っていた。