##チームA 場虎亜県の湿り気を帯びた薄暗い路地裏。アテナ・ナイトユベルは、静寂に包まれたその空間に一人立っていた。周囲には古びたレンガの壁がそびえ立ち、上空を僅かに切り取る空は灰色に濁っている。彼女はシスターとしての清廉な装いに身を包みながらも、その眼差しには専門家としての冷静さと、マイペースな気だるさが同居していた。ふと、アテナ・ナイトユベルが足を止めた。目の前の空間が、まるで水面に石を投げ入れたかのように波打ち、鏡合わせのような境界線が形成されていく。そこに現れたのは、もう一人の「アテナ・ナイトユベル」であった。 その平行世界のアテナ・ナイトユベルは、現在の彼女が纏う清らかなシスター服ではなく、漆黒の軍服に身を包んでいた。肩には金色の飾緒が揺れ、胸元には見たこともない帝国の勲章がいくつも輝いている。彼女はシスターではなく、ある強大な軍事組織の最高指揮官という立場にいた。手にはオリファルコンの細剣ではなく、冷徹な殺意を孕んだ巨大な魔導銃を携え、周囲を威圧するような鋭い視線を投げかけている。過去において、彼女は神への信仰を捨て、力による世界の統治を選択した世界線。そこでの彼女は、精神魔法を救済のためではなく、敵対者を効率的に排除し、服従させるための道具として極限まで昇華させていた。 平行世界のアテナ・ナイトユベルは、目の前に立つ「自分」をじっと見つめ、小さく鼻で笑った。彼女の口調は傲慢でありながら、どこか深い孤独を湛えている。 「……ふん。あちらの世界の私は、まだそんなおままごとのような服を着て、誰かの救いを願っているのか。滑稽だな。信仰などという不確実なものに縋り、時間を浪費するとは。この世界では、祈るよりも引き金を引く方がよほど確実な救いになることを、私は学んだよ」 平行世界の彼女はゆっくりと歩み寄り、アテナ・ナイトユベルの頬に冷たい指先で触れようとした。しかし、不可視の壁があるかのように指先が弾かれる。攻撃や干渉が不可能であるという理(ことわり)が、二人を隔てていた。平行世界のアテナ・ナイトユベルは、不快そうに眉をひそめながらも、興味深げに観察を続ける。 「だが、その瞳に宿る迷いのなさは悪くない。私は全てを手に入れ、頂点に立ったが、同時に何も持たなくなった。お前のような温い生き方をしていれば、心までは枯れなかったのかもしれないな」 アテナ・ナイトユベルは、目の前に立つ「軍服の自分」を見て、深い感慨に浸っていた。自分と同じ顔、同じ声。しかし、漂ってくる空気は正反対である。今の自分にある穏やかさと、相手が持つ凍てつくような覇気。もし、自分が別の選択をし、別の道を選んでいれば、自分もあのような冷徹な支配者になっていたのだろうか。あるいは、大切な誰かを失った絶望が、彼女をその道へと突き動かしたのだろうか。アテナ・ナイトユベルは、平行世界の自分が抱える深い喪失感と、それを塗り潰すための権力欲を敏感に感じ取った。 (ああ、なんて寂しい人。あんなに強い力を持ちながら、その心は冬の路地裏よりも冷え切っている。けれど、彼女の強さは、今の私にはない視点を与えてくれる。効率的に、冷徹に、目的を遂行する。それは一つの正解だったのかもしれないけれど……私は、やっぱり今のピアノの音が聞こえる静かな生活の方が好きだわ) アテナ・ナイトユベルは、ふっと微笑んだ。その微笑みは、軍服の自分にとって最も耐え難い「余裕」であり、「幸福」の象徴であった。平行世界のアテナ・ナイトユベルは、その微笑みを見た瞬間、激しい苛立ちと共に、心の奥底で激しく揺さぶられた。自分が捨て去ったはずの「人間らしさ」や「平穏」を、目の前の自分が当然のように持っていることへの嫉妬に近い感情。しかし、同時に、自分にはもう戻れない場所があることを再確認させられ、彼女の瞳に一瞬だけ、ひどく脆い少女のような色が浮かんだ。 二人は言葉を交わし続けた。精神魔法の専門家同士、言葉以上の意味を込めた視線のやり取り。軍服の彼女は、自身の組織での地位や、いかにして世界を屈服させたかを淡々と語った。一方のアテナ・ナイトユベルは、読書の時間や、料理を作ることの楽しさ、そして信仰の中に宿る静謐な喜びについて語った。全く異なる人生を歩んだ二人。しかし、根底にある「知的好奇心」と「マイペースさ」だけは共通しており、会話が進むにつれて、奇妙な共鳴が生まれ始めていた。 「……面白い。お前の世界では、私はそんなに緩く生きているのか。想像もつかないが、悪くない気分だ。もし私がその世界に行けば、まずはそのピアノというものを弾いてみたいものだな。戦場に響く爆音以外の音色を、私は忘れてしまった」 平行世界のアテナ・ナイトユベルがそう呟いたとき、空間の歪みがゆっくりと閉じ始めた。彼女は最後に、不敵な笑みを浮かべて言い残した。 「せいぜいその幸福を維持しろ。壊れるのは一瞬だ。だが、もしお前がその平穏に飽きたなら、いつでも私の世界へ来い。地獄のような戦場だが、退屈だけはさせないぞ」 姿が消えた後、アテナ・ナイトユベルは一人、静まり返った路地裏に立ち尽くしていた。手のひらに残ったのは、冷たい風と、自分という存在の多様性への気づきだけだった。彼女は軽く肩をすくめると、再びマイペースな足取りで歩き出した。軍服の自分が語った地獄のような世界よりも、今の自分が愛する、静かで少しだけ不便な日常の方が、彼女にとっては遥かに価値があると感じながら。 ##チームB 場虎亜県の路地裏、湿ったコンクリートの壁が迫る狭い空間に、【非天使】ブランは立っていた。黒い服に身を包み、黒縁眼鏡の奥で知的好奇心に満ちた瞳を光らせている。彼女の背後では、6枚の黒い翼がゆっくりと脈動するように揺れ、頭上には黒い天使の輪が静かに浮かんでいた。彼女は手元のメモ帳に、この場所の霊的な波長について書き留めていた。研究者としての血が騒ぐ。この路地裏には、特有の「澱み」がある。しかし、その思考を遮るように、空間に亀裂が走り、黒い粒子が渦巻いた。そこから現れたのは、もう一人の【非天使】ブランであった。 平行世界のブランは、現在の彼女とは全く異なる雰囲気を纏っていた。彼女は「帝国死神機関」の開発主任という地位にいたが、この世界線の彼女は、組織から完全に追放され、逃亡者となって、闇市場で禁忌の呪具を売り捌く「闇の道具屋」となっていた。服装はボロボロに擦り切れており、黒い翼の数枚が欠損し、不揃いな形になっている。眼鏡は片方のレンズにひびが入っており、その表情には研究者としての純粋な探究心よりも、生き延びるための狡猾さと、世の中への強い不信感が刻まれていた。彼女はもはや帝国の序列に名を連ねるエリートではなく、社会の底辺で泥に塗れて生きる、孤独な研究者へと堕ちていたのである。 平行世界のブランは、目の前に立つ「完璧な状態の自分」を凝視した。その眼差しは、驚きよりも先に、どろりとした憎悪と羨望が混ざり合った複雑な色をしていた。彼女はひび割れた眼鏡を指で押し上げ、低く、掠れた声で笑った。 「……ははっ。笑わせてくれるな。それが『私』か。綺麗な翼に、完璧な地位、そして帝国からの厚い信頼。反吐が出るぜ。お前はまだ、組織の飼い犬として、心地よい檻の中で概念兵装をいじくり回しているわけだ。何も知らない、おめでたいお嬢様だな」 平行世界のブランは、懐から得体の知れない、どす黒いオーラを放つ呪具を取り出し、それを弄んだ。アイテム顕現の能力は健在だが、その質は変質していた。帝国の秩序に基づいた「兵装」ではなく、個人の情念や呪いを物質化した「禁忌の道具」を顕現させる傾向に変わっていた。彼女はそれをアテナ・ナイトユベルがいた方向とは別の空間へと軽く投げつけようとしたが、やはり不可視の壁に阻まれ、呪具は虚しく地面に落ちた。攻撃が不可能であるという事実に、彼女は忌々しそうに舌打ちをした。 「チッ、干渉できないか。いいだろう。だが、教えてやるよ。その地位も、その翼も、組織の気まぐれ一つで簡単に消える。お前が信じている『帝国』というシステムは、使い古された道具を捨てる時に、一片の慈悲も見せない。私はそれを身をもって学んだ。お前もいつか、その黒い翼が一枚ずつ毟り取られる快感を味わうことになるさ」 現在のブランは、目の前の「堕ちた自分」を見て、激しい衝撃を受けていた。自分と同じ能力を持ちながら、ここまで精神的に磨耗し、世界に絶望している存在。それは、研究者としてあらゆる可能性を追求する彼女にとって、最も恐ろしく、同時に最も興味深い「サンプル」であった。彼女は恐怖よりも先に、平行世界の自分がどのような経緯で追放され、どのような呪術に手を染めるに至ったのかという学術的な好奇心に突き動かされていた。 (なんてこと。私の能力が、帝国の管理を離れてここまで変異している。アイテム顕現の方向性が『兵装』から『呪具』へ。これは理論上、精神的な絶望が触媒となって物質の質を変えたということ? 興味深い……あまりに興味深いわ。でも、同時に胸が締め付けられる。彼女の瞳にあるのは、ただの憎しみじゃない。裏切られたことへの、救いようのない悲しみだわ) ブランは、平行世界の自分に向かって、冷静ながらもどこか同情的な声をかけた。 「あなたの状況は理解したわ。組織の構造的な欠陥によって、あなたが切り捨てられたということね。けれど、その絶望を呪術への転換に利用したのは、研究者として正しい判断だったと思う。今のあなたの能力の変異は、帝国にいる私よりも遥かに前衛的よ。もし可能なら、その呪具の構成要素について詳しく聞かせてほしいわ」 その言葉に、平行世界のブランは呆気にとられた。絶望し、呪い、憎しみをぶつけているにもかかわらず、目の前の自分はそれを「研究対象」として肯定し、興味を持ってくれた。彼女が人生で最も欲していたのは、共感ではなく、自分の積み上げた(たとえそれが闇の道であっても)知見への正当な評価だったのかもしれない。平行世界のブランの表情から、鋭い棘が少しだけ消え、代わりに困惑が広がった。 「……馬鹿じゃないのか。同情か? それとも、私の惨状を笑っているのか。……ふん。まあいい。お前のような単純な奴に、私の深淵を理解させるのは無理だろうが、一つだけ教えてやる。アストラル界から引き出すのは『形』じゃない。『欠落』だ。何かを失った人間だけが、本当の意味で黒い武器を顕現させられる」 二人の会話は、奇妙な方向へと進んでいった。帝国での開発主任としての効率的な兵装開発論と、闇社会での生き残りをかけた呪術論。互いの立場は正反対でありながら、根底にある「収集癖」と「探究心」だけが、二人を繋いでいた。平行世界のブランは、次第に毒づくことが減り、自らが発見した禁忌の法則について、早口で語り始めた。現在のブランもまた、メモ帳に猛烈な勢いでそれを書き留めていく。それは、世界を隔てた二人の研究者による、一夜限りの共同研究のような時間であった。 やがて、再び空間の歪みが収束し始めた。平行世界のブランは、消えゆく間際に、ふっと自嘲気味に笑った。 「……おめでたいお嬢様。せいぜい、その綺麗な翼を大切にするんだな。……まあ、もし本当に落ちぶれた時は、私の店に来いよ。安く買い叩いてやるからな」 姿が消えた後、路地裏には再び静寂が訪れた。ブランは手元のメモ帳を見つめ、深く息を吐いた。平行世界の自分が残した「欠落」という言葉が、彼女の心に深く突き刺さっていた。今の自分は幸福であり、満たされている。しかし、もし自分が何かを失い、全てを失ったとしても、それでもなお「知りたい」という欲求だけは消えないのだろうか。彼女は黒い翼を大きく広げ、夜の空へと舞い上がった。得られた知見を帝国に報告し、さらに高みを目指すために。しかし、その心には、もう一人の自分への不思議な連帯感と、少しばかりの切なさが残っていた。