空は、夜よりも暗かった。 星がないのではない。星だったものまで、黒い結晶の奔流に呑まれていた。 大地を覆う森は、根から枝先まで透明な鉱物へ変じ、山脈は巨大な蠍の脚に似た構造物へ組み替えられている。海は波打つたび、青い水ではなく、無数の光る粒子を吐き出した。 魔術地球。その名で呼ばれてきた世界は、すでに世界としての形を失いつつあった。 その中心に、フトゥールムは立っていた。 蠍、百足、巨人、蟷螂、獅子、馬、戦闘機。そのどれにも似ていて、どれにも属さない貌。全身を構成する未知の結晶は、内部で絶えず形を変え、ひとつの輪郭を保つことすら拒んでいる。 脳はない。核もない。心臓も、魂も、急所もない。 ただ、あらゆる部位が純粋なマナであり、マナが残る限り、壊れた場所は修復され、失われた部位は複製される。 それは、死を知らない。 そして、世界を終わらせるためだけに歩いていた。 「……こいつが、今回の遺跡の主かい」 崩れた塔の上で、鈍色さんは煙草をくわえたまま言った。 消炭色のロングコートが風にはためく。鈍色の長髪は、風向きとは逆にゆっくり揺れていた。藍色の右目が、遠くの怪物を静かに見据えている。 彼女の右手には、鈍色の刃を持つ日本刀――森羅一刀。 左手には、白い鞘――万象不関。 「遺跡というより、世界の墓場じゃな」 隣に立つ老人が答えた。 緑の隻眼。温和な顔つき。腰に赤い結晶で覆われた太刀を吊っている。 星墜の狩人、カンラン。 英雄と呼ばれるハンターだった。 「カンランさん、今回の依頼人は?」 「人類全てじゃ。報酬は、明日という時間」 「そりゃ高い。前払いは?」 「ない」 「じゃあ出世払いで」 鈍色さんが笑う。 カンランも微笑んだ。 だが、眼下では、フトゥールムの脚が一本、大地を踏み抜いていた。 地面が鳴る。 その音に合わせ、空間が裂けた。 「来るぞ」 カンランの声から温かさが消えた。 フトゥールムの姿が消えた。 予備動作はなかった。 ただ、そこにいたものが、別の場所に存在していた。 Ⅵ――跳躍。 次の瞬間、鈍色さんの背後に巨大な前脚が出現した。結晶の刃が、塔ごと彼女を叩き潰す。 鈍色さんは振り返らなかった。 森羅一刀を抜く。 低い笛のような音が鳴り、大気そのものが一文字に裂けた。 刃と脚が衝突する。 結晶の脚は、抵抗なく切断された。 切断面から血は出なかった。代わりに、眩いマナが噴き上がる。 「おっと」 鈍色さんは鞘を振り、噴出したマナを横から弾き飛ばした。 白鞘が触れた部分で、マナの奔流が砕け、霧散する。 フトゥールムは切断された脚を見た。 次の瞬間、同じ形の脚が三本、背から生えた。 「増えたぞい」 「サービス精神が旺盛だねえ」 「そういう相手ではない」 カンランが太刀を抜いた。 赤い結晶が砕けるほどの龍気を放ち、周囲の空気が熱を帯びる。 禍星墜滅。 かつて兇星と呼ばれた魔龍を裂いた太刀。その龍の骸で鍛え直された凶器が、赤い光を帯びた。 カンランは一歩踏み込む。 投げナイフが十本、ほとんど同時に放たれた。 ナイフはフトゥールムの各部へ突き刺さる。眼に似た器官、脚の関節、胸部の空洞、肩から伸びた翼状の構造。 急所を探るためではない。 動きの基準を測るためだ。 一本目が刺さる。 二本目が沈む。 三本目が弾かれる。 カンランの隻眼が細くなる。 「急所はない。だが、動作の節目はある」 フトゥールムが身を屈めた。 巨体がありえないほど滑らかに折り畳まれる。 その口とも砲塔ともつかない器官が開いた。 光が集束する。 Ⅲ――分解。 放たれた光線が塔を貫いた。 石が砕けたのではない。石という物質の情報そのものが剥がれ、物理的にも魔術的にも保護されていた塔は、光線に触れた部分からマナへ変換された。 鈍色さんは跳び下がった。 しかし、足場が消える。 落下しながら、彼女は森羅一刀を振り抜いた。 空気を斬る。斬られた空気が細い壁となり、分解光線をわずかに逸らした。 光線は地平線へ流れ、都市ひとつを消した。 鈍色さんは瓦礫の上に着地する。 「……今のは、ちょっと雑に撃ちすぎじゃないかい?」 返事はない。 フトゥールムはすでに彼女の前に立っていた。 カンランの太刀が横から走る。 禍星墜滅が結晶の腕を斬り飛ばした。 だが、腕が落ちる前に、その断面から新しい腕が生える。新生した腕は刀身を掴もうとした。 カンランは即座に身を引く。 攻撃を察知していた。 巨大な顎が、彼のいた場所を噛み砕く。 老人は地面を滑りながら、秘薬を一本取り出した。栓を抜き、一息で飲み干す。 龍気が濃くなる。 「面白い。殺せぬものを斬るほど、わしは若くないと思っていたが」 「十分若いよ」 「おぬしに言われると複雑じゃ」 鈍色さんが森羅一刀を両手で構えた。 鞘は左手に持ち替えられている。 刀と鞘。切断と不壊。 二本の武器が、左右から異なる軌道を描く。 鈍色さんはフトゥールムの四肢を次々に斬り飛ばした。切断された部位が複製されるたび、その複製された部位をさらに斬る。 数は増える。 しかし、増えた端から斬り落とされる。 鞘が腕を打ち、刀が胴を裂く。 万象不関は砕けない。 フトゥールムが分解光線を鞘に当てても、白鞘は何一つ変わらなかった。 「なるほどね」 鈍色さんが言った。 「こいつ、壊れた分だけ戻るんじゃない。世界に残ってるマナを使って、戻る以上に増えてる」 「ならば、マナを断つか」 「それができれば苦労はないねえ」 フトゥールムの背後に、無数の結晶翼が展開された。 翼ではない。砲身だった。 全ての砲口に光が灯る。 カンランが叫んだ。 「散れ!」 二人が左右へ跳ぶ。 光線の雨が大地を舐めた。 森が消え、川が消え、街道が消えた。 逃げ遅れた魔獣も兵士も、魔術結界も、古代遺跡も、触れた瞬間にマナへ変換される。 フトゥールムはその光を吸収した。 傷が癒える。 結晶が増える。 そして、世界の面積が減る。 「鈍色さん!」 カンランが投げナイフを放った。 ナイフは彼女の頭上を通過し、フトゥールムの上部器官に刺さった。 怪物が一瞬、動きを止める。 「そこじゃ!」 カンランが突進した。 禍星墜滅が赤い残光を引き、フトゥールムの胸部を深く裂いた。 内側に器官はなかった。 ただ、流動するマナが渦を巻いている。 その渦の奥で、何かが反応した。 赤い刀身がわずかに震えた。 カンランの隻眼が見開かれる。 「そこに……流れの中心がある」 「核?」 「核ではない。だが、全ての再生がそこを通っておる」 鈍色さんが笑った。 「じゃあ、そこを何度でも斬ろう」 フトゥールムが咆哮した。 音ではなかった。空間そのものが軋んだ。 胸部の裂け目から分解光線が拡散する。 カンランは身を捻って避けたが、左肩を掠めた。衣服と皮膚が薄くマナへ崩れる。 老人は顔色ひとつ変えず、秘薬を飲んだ。 「カンランさん、大丈夫?」 「老人を甘く見るな。まだ片腕ある」 カンランは刀を右手一本で握り直した。 フトゥールムの背中から、百足じみた脚が数十本伸びた。 全てが同時に襲いかかる。 鈍色さんは刀と鞘を交差させた。 森羅一刀が脚を断ち、万象不関が打撃を受け止める。 一本、二本、十本、二十本。 しかし、脚は切られるほど増えた。 斬撃の隙間から別の脚が侵入し、鈍色さんの脇腹を裂いた。 血が飛ぶ。 彼女は顔をしかめたが、退かなかった。 鞘を相手の関節へ突き込み、身体を支点にして跳ぶ。空中で刀を回転させ、フトゥールムの首とも胴ともつかない部位を水平に切断した。 巨体が崩れる。 だが、崩れた断片一つ一つから、別々の脚が生えた。 怪物が分裂する。 大地を埋め尽くすほどの結晶群が、一斉に二人を見た。 カンランは砥石を取り出した。 禍星墜滅の赤い結晶へ、ゆっくりと当てる。 砥石が触れるたび、結晶に亀裂が走った。 「おぬし、何をしている」 「脱皮じゃ」 彼は太刀を振った。 赤い結晶が砕け散る。 内部から現れたのは、赫く美しい刀身だった。 禍星墜滅――真。 微かに触れただけで肉体を裂くほどの鋭さ。刃は光を反射しない。光の方が刃を避けているように見えた。 カンランの視界が変わる。 フトゥールムの動きが、起こる前から見えた。 脚が伸びる。 跳躍する。 光線を撃つ。 再生する。 未来の断片が、連続した線として老人の眼に映った。 「鈍色さん、左へ三歩。次に伏せろ」 「了解」 鈍色さんが動いた。 直後、空間跳躍で現れた刃状の脚が、彼女のいた場所を通過する。 「右、跳べ」 跳ぶ。 「刀を下げろ」 下げた瞬間、上空から降った結晶槍が森羅一刀の背を掠めた。 「今じゃ!」 カンランの真・禍星墜滅が走った。 未来に見えた再生経路、その中心を斬る。 フトゥールムの一体が崩れ、マナの奔流になる。 だが、その奔流は別の個体へ流れ込んだ。 倒したはずの敵が、周囲の個体に吸収されたのだ。 「おいおい」 鈍色さんが煙草を落とした。 「倒すほど、まとめて大きくなるのかい」 「ならば、倒したものを残さぬことじゃ」 「どうやって?」 カンランは答えなかった。 彼の未来視に、新たな可能性が映った。 フトゥールムの全ての個体が一箇所へ集まる。 巨大な獅子の頭部、百足の胴、戦闘機の翼、蠍の尾、巨人の腕。複数の形態が一つに束ねられていく。 それは、これまでより遥かに巨大だった。 結晶の体は雲を突き抜け、尾は月のない空を裂いた。 地面が沈み、世界のあちこちで魔術炉が爆発する。 フトゥールムが吠える。 その咆哮に混じって、初めて意味のある現象が起こった。 空間に映像が浮かぶ。 未来の都市。灰色の空。人類のいない大地。 その都市を、フトゥールムが歩いている。 歩いた先から、建物も道路も空も、全てがマナへ変わる。 世界が消える。 そして、フトゥールムは光の渦へ飛び込む。 時間を跳躍する。 別の未来へ。 また世界を消す。 また時間を遡る。 それを永遠に繰り返していた。 カンランが映像を見上げた。 「……未来から来たのではない」 「違うのかい?」 「未来を食い潰し、そのマナで過去へ来ておる」 鈍色さんの顔から笑みが消えた。 映像はさらに遡った。 人間が都市を築く前。 火を使う前。 言葉を持つ前。 猿に似た生物が、夜の草原で空を見上げている。 そこへ結晶の影が落ちる。 映像の中で、フトゥールムが停止した。 初めて、停止した。 「人間の始まりまで戻るつもりか」 カンランが呟く。 「そこを壊せば、人類史そのものが消える」 鈍色さんは刀を握り直した。 「それじゃ、止めないとね」 「止まらぬぞ。人類の始まりを滅ぼすまで」 「なら、始まりに着く前に斬る」 巨大化したフトゥールムの胸部が開いた。 内部に、銀河のようなマナの渦がある。 全ての再生、全ての跳躍、全ての分解が、そこへ集まっている。 脳でも核でもない。 それは、存在を継続させるための構造そのものだった。 「急所が見えた」 カンランの真・禍星墜滅が震えた。 「斬れば、崩れるかい?」 「一度では無理じゃ。だが、流れを断ち続ければ、いずれ形を保てなくなる」 「いずれ、ねえ」 フトゥールムの胸部から無数の分解光線が放たれた。 二人は走った。 鈍色さんは鞘で光線を受け流し、刀で道を切り開く。カンランは未来を読み、最短の安全地帯を選び続ける。 しかし、敵の規模が違いすぎた。 地平線が光に変わる。 空そのものが分解される。 逃げ場が消えていく。 「鈍色さん!」 「わかってる!」 鈍色さんは地面に森羅一刀を突き立てた。 抜刀ではない。 刃を大地へ沈め、横一文字に引く。 大地が切れた。 地面だけではない。地下の魔術脈、地脈に刻まれた術式、空間を支える結界。その全てが同時に分断される。 世界の一部が、巨大な断崖として浮き上がった。 フトゥールムの光線が、地脈の切断面へ吸い込まれる。 鈍色さんの森羅一刀は、この世に存在する物なら全て断てる。 ならば、光線も、空間も、魔術も、断てる。 ただし、斬ったものが消えるわけではない。 彼女は世界を切り離し、光線の進路だけを別の場所へ逃がしていた。 「三十秒!」 「十分じゃ」 カンランが走った。 彼の未来視には、無数の死が映っていた。 右へ行けば脚に潰される。 左へ行けば光線に消される。 上へ跳べば空間跳躍の罠に落ちる。 生き残る道はひとつ。 しかも、二人分ではない。 カンランは足を止めた。 「鈍色さん、先へ行け」 「嫌だね」 「わしが囮になる」 「もっと嫌だね」 「おぬしは、あの胸を斬れ」 「二人で行くよ」 「二人では届かぬ」 カンランが太刀を構えた。 優しい老人の顔は消えていた。 そこにいるのは、獲物の急所を見つけた狩人だけだった。 「わしは英雄と呼ばれた。ならば、最後くらいは英雄らしく死ぬ」 「死ぬ前提で話す人、嫌いなんだよ」 「ならば、好きにならんでよい」 カンランは単身で走り出した。 巨大なフトゥールムが彼へ向く。 未来視が、数千の攻撃を示した。 彼は全てを避けた。 無慈悲に、冷酷に、最短の動きだけで。 禍星墜滅・真が振るわれる。 脚を斬る。 翼を斬る。 尾を斬る。 砲口を斬る。 斬ったそばから再生する。 だが、それでいい。 フトゥールムの意識が、カンランへ集中する。 分解光線が集まる。 カンランは避けない。 最後の秘薬を飲み干した。 龍気が爆発する。 光線が老人を包んだ。 肉体の一部がマナへ変じる。 それでも、カンランは前へ進んだ。 「鈍色さん!」 彼が叫ぶ。 「今じゃ!」 鈍色さんが走った。 フトゥールムの胸部が開く。 マナの流れが、カンランへ向けられている。 その瞬間、鈍色さんは森羅一刀を振った。 刀身が胸部へ届く前に、空間が跳躍した。 フトゥールムの胸が消え、刀の前に背中が現れる。 鈍色さんは即座に鞘を突き出した。 万象不関が結晶の背を打つ。 不壊の衝撃が、空間跳躍の直後に生じた身体の揺らぎを押し戻した。 フトゥールムの位置が固定される。 「逃げるなよ」 森羅一刀が、胸部のマナ流へ突き刺さった。 低い笛の音が鳴る。 刃が、マナの流れを断つ。 フトゥールムの全身が震えた。 再生が止まる。 初めて、傷が塞がらなかった。 だが、怪物は止まらない。 胸の流れが別の経路へ移る。 カンランがそれを見ていた。 「右下、三寸!」 鈍色さんが鞘を振る。 流れの壁を砕く。 カンランの刀がそこを斬った。 「左上、二尺!」 再び斬る。 「背部、翼の根!」 斬る。 フトゥールムの形が崩れていく。 だが、崩壊するたび、周囲の世界から新しいマナを吸い上げる。 空が消え、大地が消え、海が消える。 世界が燃料にされていく。 「このままじゃ、こいつを殺す前に地球がなくなる!」 「殺す必要はない!」 カンランが叫んだ。 「存在の連続を、完全に断つのじゃ!」 「どうやって!」 「全ての流れを、一つの刃で繋げ!」 鈍色さんは理解した。 森羅一刀は何でも断てる。 ならば、フトゥールムそのものを斬るのではない。 その存在を成立させる全ての接続を、一度に断つ。 再生と分解。 跳躍と帰還。 未来と過去。 マナと形。 彼女は鞘を地面へ突き立てた。 万象不関が、崩れかけた大地に杭のように刺さる。 壊れない鞘が、世界の最後の足場となった。 「カンランさん!」 「承知!」 カンランはフトゥールムへ斬り込んだ。 彼の刀が、巨大な身体を直接斬るのではなく、内部を流れる未来の予兆を断つ。 未来視で見えた再生先を、先回りして切断する。 再生する場所がなくなる。 跳躍する先がなくなる。 分解したマナが戻る経路がなくなる。 そして最後に、カンランはフトゥールムの頭部へ至った。 そこに脳はない。 ただ、全ての行動を選択する知性の痕跡だけがあった。 老人は太刀を振り上げる。 「おぬしに急所がないなら」 刃が振り下ろされた。 「急所になるものを作るまでじゃ」 頭部が縦に割れる。 内部から膨大なマナが溢れた。 それは空へ逃げようとした。 鈍色さんが地面を蹴った。 森羅一刀を両手で構え、鞘を支点にして跳躍する。 彼女の身体が、マナの奔流へ飛び込む。 冷たくも熱くもなかった。 そこには、無数の時間があった。 崩壊する未来。 燃える都市。 消える海。 生まれなかった人々。 存在しなかった文明。 フトゥールムは、未来を壊しているのではない。 未来が存在したという事実そのものを分解していた。 その果てに、人類の始まりへ到達しようとしている。 鈍色さんは刀を握った。 「悪いね」 彼女は、誰にともなく言った。 「その旅、ここで終わりだ」 森羅一刀が振り抜かれた。 刃はフトゥールムの身体を断たなかった。 その過去を断った。 未来を断った。 存在した時間と、存在する時間と、存在するはずだった時間の間を断った。 森羅一刀の刃が、世界に存在する全てを切断できるなら、時間もまた、この世に存在するものだった。 フトゥールムのマナが凍りつく。 修復が止まった。 複製が止まった。 跳躍が止まった。 分解が止まった。 巨大な結晶の身体が、無数の時代の断片へ分かれていく。 カンランが最後の一撃を放った。 真・禍星墜滅が、マナの流れの中心を切り裂く。 鈍色さんの一刀と、カンランの一刀が交差した。 その瞬間、フトゥールムは初めて、未来へも過去へも進めなくなった。 世界のどこにも、帰る場所がなくなった。 怪物の形が崩れる。 蠍の尾が消えた。 百足の脚が消えた。 巨人の腕が消えた。 蟷螂の刃が消えた。 獅子の頭が消えた。 馬の胴が消えた。 戦闘機の翼が消えた。 最後に残ったのは、透明な結晶の一片だった。 その一片に、遥かな未来の光景が映る。 そこには、誰もいない。 何もない。 完全に消費された時間。 フトゥールムは、そこから来た。 世界を壊し、過去へ逃げ、さらに世界を壊し、また過去へ逃げた。 終わりへ向かうために、始まりを目指した。 しかし、その道筋そのものを、二人の英雄は断った。 結晶片が砕けた。 音はしなかった。 ただ、空から星が戻ってきた。 ひとつ。 またひとつ。 黒く染まっていた夜空に、薄い光が戻る。 大地には、失われた森や都市の代わりに、灰色の荒野が広がっていた。 世界は救われたわけではない。 多くを失い、傷つき、魔術地球としての形を大きく損なっている。 それでも、時間は進んでいた。 未来が、まだ存在していた。 鈍色さんは地面へ落ちた。 森羅一刀を杖のようにして立ち上がる。 彼女の脇腹からは血が流れ、左腕は分解光線で大きく損なわれていた。 「……カンランさん?」 返事はない。 少し離れた場所に、老人が膝をついていた。 禍星墜滅・真を握ったまま、肩から先がほとんど消えている。 それでも、彼は生きていた。 「勝ったかの」 「たぶんね」 「たぶんでは困る」 「じゃあ、勝った」 カンランは笑った。 いつもの、温和な老人の顔だった。 「そうか」 彼は太刀を鞘へ戻そうとした。 しかし、結晶が砕けた刀身は、もはや形を保てなかった。 禍星墜滅・真が赤い粉となって風に散る。 カンランはそれを眺めた。 「長い付き合いじゃった」 「惜しいねえ」 「太刀も、わしも、十分に働いた」 鈍色さんは煙草を一本取り出した。 だが、火がない。 周囲の魔術炉は壊れ、火種も消えている。 カンランが、残った手で小さな火花を起こした。 「吸うのか」 「子供がいないからね」 「ここにはおらぬ」 「だから吸うのさ」 煙草に火が灯る。 鈍色さんは深く吸い、空へ煙を吐いた。 煙は星明かりの中へ薄く消えていった。 「動物たち、無事かな」 「おぬしは動物に嫌われておったではないか」 「嫌われてても、死んでほしくはないよ」 「難儀な性格じゃ」 「よく言われる」 二人は、しばらく荒野を見ていた。 遠くで、何かの鳴き声がした。 小さな獣が一匹、崩れた岩陰から顔を出している。 鈍色さんと目が合うと、獣はすぐに逃げた。 「やっぱり嫌われてるねえ」 「生きておる証拠じゃ」 カンランはそう言って、空を見上げた。 未来は戻った。 だが、フトゥールムが破壊した時間は戻らない。 消えた人々も、失われた都市も、奪われた記憶も、元には戻らない。 それでも世界は、残った者たちの手で続けられる。 英雄たちは、人類種の危機へ立ち向かった。 勝利とは、無傷で明日を迎えることではない。 明日という時間を、敵の手から奪い返すことだ。 鈍色さんは煙草を消し、森羅一刀を鞘へ納めた。 万象不関は、傷ひとつなく彼女の左手に残っている。 「さて、遺物を探しに行こうか」 「この状況でか?」 「遺跡がいっぱいできたじゃないか」 「おぬしは本当に雑じゃの」 「旅人なんて、だいたいそんなもんだよ」 鈍色さんは歩き出した。 カンランも立ち上がる。 片腕を失い、愛刀を失い、それでも歩いた。 二人の背後で、星が増えていく。 未来は、まだ遠い。 そして今度は、誰かに食い潰されるためではなく、人類自身が進むために存在していた。 ――死亡者―― ・フトゥールム:森羅一刀によって時間・存在の連続性を断たれ、禍星墜滅・真によりマナ流の中心を破壊されたため。