富士の嶺に、不吉な静寂が降りていた。 雲海が足元に広がり、神聖なる霊峰の頂は、今やこの世の理を越えた者たちが集う処刑場へと変貌していた。冷たい風が吹き抜ける中、二人の男が対峙していた。 一人は、神林ハル。感情を削ぎ落としたような冷徹な眼差しを持つ青年である。彼はただそこに立っているだけで、周囲の空間が彼の意思に従い、元素の粒子が密やかに踊っていた。破壊神をも凌駕する力を持ち、万物を再構成する権能を持つ彼は、退屈そうに欠伸を噛み殺していた。 もう一人は、ボナパルト。端正な身なりに、慇懃な微笑を浮かべた男。彼は手に一冊の古びた、しかし神聖な気配を纏った辞書を抱えていた。世界のあらゆる概念、歴史、能力を記録する『唯一辞書』の編纂者。彼にとってこの戦いは、単なる記録の更新に過ぎない。彼がペンを走らせれば、存在という定義そのものが書き換えられる。 「ふふ……。ずいぶんと贅沢な刺客を雇ったものね。闇の組織たちも、私のことを相当に恨んでくれているようね」 鈴を転がすような、それでいて耳の奥を痺れさせる妖艶な声が響いた。 二人の視線の先に、一人の女が降り立つ。背中まで届く長い銀髪が風に舞い、黄金色の瞳が傲慢なまでの余裕を持って二人を見据えていた。緑色の軍服は身体の曲線を強調し、豊かな胸が呼吸に合わせて緩やかに上下する。頭上の黒い軍帽が、彼女のスタイリッシュな絶世の美女としての完成度を際立たせていた。羽学連盟・浪漫部隊隊長、ロマ・フォウンである。 「来日して早々、このような歓迎を受けるとは。けれど、あなたたちの瞳には『死』への覚悟よりも、『傲慢』が色濃く映っているわ。いいわよ、その不遜な態度……壊し甲斐がありそうね」 ロマ・フォウンは口元に艶やかな笑みを浮かべた。彼女にとって、目の前の二人がどれほどの権能を持っていようとも、それは彼女の「浪漫」を彩るスパイスに過ぎない。 「へー。それできたら楽しそう」 神林ハルが淡々と呟いた。彼は即座に自身の周囲に不可視の防壁を展開する。白銀以上の硬度を持ち、あらゆる干渉を拒絶する元素の壁。同時に、彼はボナパルトの『唯一辞書』の能力を瞬時にコピーし、自身の権能へと組み込んだ。適応、模倣。それが神林ハルの本質である。 「失礼いたします。貴女の存在という項目、少々記述が過剰にございますね。適切に『白紙化』し、辞書を整理させていただきます」 ボナパルトが静かに辞書を開く。彼がページを繰れば、世界の最優先権限が発動する。存在の消去。概念からの抹消。回避不能の絶対的な消滅が、ロマ・フォウンへと向けられた。 戦いの幕が上がった。 ボナパルトがペンを走らせた瞬間、ロマ・フォウンの存在を定義する文字列が白く塗り潰されようとした。しかし、ロマ・フォウンはただ、指先を軽く動かしただけでそれを回避した。いや、回避したのではない。彼女の纏う「浪漫」という名の絶対的な個の力が、概念的な消去すらも「退屈な理屈」として跳ね返したのだ。 「あら、面白い術ね。けれど、私の人生に『白紙』なんて退屈なページは必要ないわ」 ロマ・フォウンが右手を軽く突き出す。彼女の掌に、凝縮された白光が集まった。周囲の空気が悲鳴を上げ、富士山の山肌がその圧力だけでひび割れる。 『魔力砲』。 それは、防御や耐性という概念を無視し、ただ「消し飛ばす」という結果だけを導き出す暴力の化身。ロマ・フォウンは周囲の地形を配慮し、出力を極限まで絞って放った。しかし、それでもそれは山一つを地図から消し去る威力を持っていた。 ズガァァァァン!! 光の奔流が世界を白く染める。神林ハルは即座に最高密度の防壁を展開し、さらに『歪ミ』によって攻撃の軌道をずらそうとした。しかし、魔力砲の特性は「無に帰す」こと。防壁は紙切れのように消え去り、軌道修正の概念すらも光に飲み込まれた。 「……っ!?」 神林ハルの身体の右半分が、一瞬で蒸発した。不死身の彼であっても、存在そのものを消し飛ばす一撃は深刻なダメージとなる。だが、彼は冷静だった。即座に元素を操作し、失った肉体を再構成する。 「なるほど。防御も耐性も関係ない、か。いい刺激になる」 神林ハルが反撃に転じる。彼は瞬時に数千の分身を生成し、全方位から『戦光』と『天雷』を放った。空を埋め尽くす即死の光弾と、万物を灰にする雷撃。同時に、彼は元素操作の極致である[元解砲]をチャージし、ロマ・フォウンを元素レベルで解体しようと試みる。 一方、ボナパルトもまた、辞書のページを激しく捲っていた。 「権限の最上位は私にあります。貴女の『攻撃権限』を一時的に剥奪し、記録から抹消しましょう」 ボナパルトの『辞書編纂権』が発動し、世界全体の法則が書き換えられる。ロマ・フォウンが攻撃を行うという「事象」自体が禁忌となり、彼女の動きが凍りついた。物理的な拘束ではない。世界のルールそのものが彼女を拒絶したのだ。 「あらあら。二人掛かりで私を縛ろうなんて。本当に、可愛いところがあるのね」 拘束された状態でありながら、ロマ・フォウンは艶然と微笑んでいた。彼女は自らの魔力を爆発的に膨張させ、世界が課した「ルール」という名の鎖を、単なる暴力的な出力で粉砕した。ガキンッという、概念が砕ける音が響き渡る。 「ルールに従うのは、凡人のすることよ。私は私の浪漫に従うだけ」 ロマ・フォウンの瞳が黄金色に激しく輝く。彼女は瞬時に神林ハルの分身たちの中心へと移動し、掌から点のような極小の魔力弾を放った。それが触れた瞬間、連鎖的に大爆発が起き、数千の分身が一瞬にして消滅した。 「ふふ、いい顔ね。絶望を理解し始めた顔だわ」 神林ハルは、コピーしたボナパルトの権限と自身の元素操作を融合させ、時空そのものを固定しようとした。ボナパルトもまた、辞書の白紙ページに「ロマ・フォウンの敗北」と書き込もうとする。 しかし、ロマ・フォウンの冷酷な瞳が二人を射抜いた。 「もう十分よ。あなたたちの健闘は認めてあげる。でもね、私の部下たちがあなたたちに抱いている恨みに比べれば、あなたたちの努力なんて、砂粒ほどの価値もないわ」 ロマ・フォウンが両手を大きく広げた。彼女の背後に、巨大な魔力の円環が出現する。それは先ほどの『魔力砲』とは次元が異なる。空が裂け、次元の壁が悲鳴を上げ、富士山の頂上から周囲の雲海までもが、その圧倒的な圧力で押し潰された。 「さあ、最高のフィナーレを飾りましょう」 神林ハルは、持てる全ての元素を凝縮し、宇宙の始まりに匹敵するエネルギーの壁を構築した。ボナパルトは辞書の全ページを使い、自身の存在を概念的な不可視領域へと退避させ、絶対的な防御権限を自身に付与した。 だが、それは意味をなさなかった。 『超魔力砲』。 放たれたのは、光ですらなかった。それは「消滅」という現象そのものが奔流となって押し寄せた。神林ハルの構築したビッグバン級の壁は、触れた瞬間に霧のように消え去り、ボナパルトが逃げ込んだ概念領域すらも、その圧倒的な出力によって強引に引きずり出された。 「あ……」 ボナパルトが絶望に染まった顔で辞書を掲げたが、その辞書さえも、文字通り「白紙」にされることなく、物理的に消滅していった。神林ハルは、自身の不死身という特性さえも上書きするほどの消滅エネルギーに飲み込まれながら、最期に小さく笑った。やはり、この力は心地よい、と。 轟音すら追い越した純白の光が、富士山の頂を包み込んだ。爆風はなく、衝撃波もない。ただ、そこにあったはずの二人の存在が、宇宙の記憶から完全に、跡形もなく消え去っただけだった。 光が収まった後、そこには静寂だけが戻っていた。 ロマ・フォウンは、乱れた銀髪を指先で軽く整え、軍帽を深く被り直した。彼女の軍服には一点の汚れもなく、黄金色の瞳には、先ほどまでの激戦を懐かしむような、妖艶な光が宿っていた。 「ふふ。いい運動になったわ。さて、浪漫部隊の皆が待っているわね。帰りましょうか」 彼女は軽やかな足取りで、消え去った参加者たちがいた場所を通り過ぎ、悠々と山を降りていった。 【登場人物生死】 ロマ・フォウン:生存 神林 ハル:死亡(完全消滅) ボナパルト:死亡(完全消滅)