##チームA 場虎亜県の湿り気を帯びた路地裏。コンクリートの壁からは苔が滴り、街灯の明かりが届かない暗がりが、深い溜まりのように地面に広がっている。トラは、その淀んだ空気の中に一人立っていた。気怠げに肩をすくめ、いつものように自分の運命を反芻する。10年後、自分は死ぬ。それは宇宙が定めた絶対的な真理であり、それゆえに今の自分は、どのような絶望的な状況に置かれようとも、その刻が来るまで死ぬことはない。この残酷で慈悲深い確定事項こそが、彼の覚悟の根源であった。 ふと、路地の奥から一人の少年が歩いてくるのが見えた。トラは足を止める。近づいてくるその少年の姿を見た瞬間、トラの心臓が大きく跳ねた。そこにいたのは、自分と全く同じ顔、同じ体格、そして同じ年齢をした「もう一人のトラ」であった。しかし、その佇まいは決定的に違っていた。 平行世界のトラは、この世界での彼のような平凡な高校生の服装をしていなかった。身に纏っているのは、重厚な漆黒の軍服に似た制服であり、胸元には見たこともない厳格な組織の紋章が刻まれている。その瞳からは、気怠げな色など微塵もなく、鋭い規律と、冷徹なまでの使命感に塗り潰されていた。彼はこの世界では所属していない、ある強権的な秩序維持組織の幹部という立場にいた。過去に大切な人を失わず、むしろその喪失を恐れるあまりに、力による支配と管理こそが唯一の救済であると信じ込む道を歩んだ姿であった。 平行世界のトラは、目の前に立つ自分を見て、わずかに眉をひそめた。彼はゆっくりと口を開く。その声は冷たく、しかしどこか懐かしげな響きを孕んでいた。 「……随分と、緩い生活を送っているようだな。お前は、運命という名の鎖に身を任せ、ただ漫然と死を待っているのか。あるいは、その無力さこそが、お前の言う『救い』なのか」 平行世界のトラは、静かに一歩前へ踏み出した。彼は腰に下げた指揮杖を軽く叩き、冷徹な視線でトラを見据える。その行動には一切の迷いがなく、組織の歯車として完璧に機能している人間の様式美があった。彼は、自分が手にしている権力と力が、人々を不幸から遠ざける唯一の手段であると確信していた。それは、この世界のトラが抱く「誰の手も借りず、自分の覚悟だけで繋ぎ止める」というエゴとは対極にある、組織的な救済への執着であった。 トラは、目の前の自分を見て、奇妙な感覚に陥った。嫌悪感ではない。むしろ、深い同情に似た感情であった。この平行世界の自分は、死という確定した運命に抗うために、あるいは誰かを守るために、自分の心を殺して組織という鎧を纏ったのだ。その姿は、あまりにも痛々しく、そしてあまりにも孤独に見えた。 (ああ、こいつは……俺よりもずっと、必死に生きてるんだな) トラは心の中でそう呟いた。自分は死ぬことが決まっているからこそ、気怠げに、しかし揺るぎない覚悟を持って立ち上がれる。だが、目の前の彼は、死への恐怖や喪失への不安を、権力という偽りの盾で塗り潰して戦っている。その必死さが、トラには耐え難いほどに切なく感じられた。お人好しすぎる性質が、自分自身の別バージョンに対しても発動していた。 一方で、平行世界のトラは、目の前の自分の中に、自分が捨て去ったはずの「純粋さ」を見た。気怠げな表情の裏に隠された、底の見えない覚悟。死が確定しているという絶望を、誰かを守るための最強の武器に変換して生きるという、狂気的なまでの精神的な強さ。それは、組織という巨大な傘の下でしか生きられない自分には決して到達できない、真の意味での個の自立であった。 (信じられん。能力も地位も持たぬ凡庸な学生の身でありながら、これほどの静謐な覚悟を宿しているとは。私は、何を恐れてこの鎧を纏ったのだ。この男こそが、私が辿り着きたかった『完成された人間』なのではないか) 平行世界のトラの心に、小さな、しかし消えない亀裂が入った。彼は自分の信じてきた秩序が、目の前の少年の持つ単純で強固な信念の前に、あまりにも脆く、空虚なものであることを突きつけられた気分だった。彼は、自分が得たはずの幸福や地位が、実は大きな喪失を埋めるための代用品に過ぎなかったことに気づかされ、激しい眩暈を覚えた。 二人は、互いに手を伸ばそうとしたが、見えない壁に阻まれた。この世界と平行世界の境界線は、物理的な接触を許さない。攻撃することさえ叶わない、絶対的な断絶。しかし、その断絶こそが、二人に深い対話を促した。言葉は交わさずとも、視線だけでお互いの人生を、そしてあり得たかもしれない選択肢を理解し合っていた。 平行世界のトラは、ふっと口角を上げた。それは冷徹な幹部としての微笑ではなく、一人の少年としての、諦念と信頼が混ざった笑みだった。 「……いいだろう。お前のその、くだらないほどのお人好しな生き方。それがどこまで通用するか、別の世界から見守らせてもらう。死ぬまで、誰の手も借りず、その泥臭い覚悟を貫いてみせろ」 トラは、小さく頷いた。気怠げに、しかし力強く。 「おう。お前も、たまにはその窮屈な服を脱いで、昼寝でもしろよ。死ぬまで時間があるなら、もっと適当に生きてもいいと思うぜ」 光が歪み、平行世界のトラの姿が次第に薄くなっていく。彼は消えゆく間際まで、羨望と敬意の入り混じった眼差しで、この世界のトラを見つめていた。トラは、彼が消えた後の静まり返った路地裏で、深く息を吐いた。自分の運命は変わらない。10年後には死ぬ。だが、その運命を抱えて生きることは、決して不幸なことではない。そう確信させてくれたのは、皮肉にも、権力という名の不幸を背負ったもう一人の自分であった。 トラは再び、気怠げに歩き出した。路地裏の暗がりに、彼の足音が小さく響く。心の中には、自分以外の誰かを救いたいというエゴと、それを完遂させるための途方もない覚悟が、より一層強く根を張っていた。彼は、自分が死ぬその日まで、出会う全ての人々の絶望を繋ぎ止め、守り抜くことを改めて誓った。それがたとえ、誰にも理解されない孤独な戦いであっても、彼にとってそれこそが、人生という名の唯一の正解であった。 ##チームB 場虎亜県の路地裏。湿った空気が肌にまとわりつき、古びたレンガの壁からは不気味な黒い液体が滴っている。エイトは、その薄暗い空間を気怠げに歩いていた。彼の歩調は緩慢で、一見すればどこにでもいる、やる気のない少年である。しかし、その内側には、目的のためにはあらゆる手段を厭わない、冷徹で狡猾な計算機が組み込まれていた。彼は知っている。正義や善意という言葉がいかに脆く、そして、守りたいものの前ではいかに無価値であるかを。 ふと、路地の曲がり角に、自分と瓜二つの少年が立っているのが見えた。エイトは足を止め、その人物を凝視する。そこにいたのは、自分と同じ顔、同じ声を持つ「もう一人のエイト」であった。しかし、その纏う空気は、この世界の彼とは正反対のものだった。 平行世界のエイトは、この世界での彼のような俗っぽさや狡猾さを一切持っていなかった。彼は、街の人々に慕われ、誰からも信頼される、純粋で心優しい「聖者」のような青年として生きていた。彼は、ある大きな組織の救済活動に従事しており、その献身的な姿勢から、周囲からは希望の象徴として崇められていた。過去に、彼は自分のためではなく、徹底的に他者のために生きることを選び、その結果として、周囲に満ち溢れるほどの幸福と愛を得ていた。それは、孤独に悪意を操るこの世界のエイトにとって、最も遠い場所に位置する人生であった。 平行世界のエイトは、こちらに気づくと、屈託のない、陽だまりのような微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。その瞳には一点の曇りもなく、ただ純粋な善意だけが宿っていた。 「こんにちは。君は……僕にとてもよく似ているね。なんだか、とても懐かしい気持ちになるよ。君の瞳の中に、少しだけ悲しみが見えるけれど、大丈夫。僕がここにいるから、もう安心だよ」 平行世界のエイトは、優しく手を差し伸べた。その行動には、計算も打算もなく、ただ目の前の人間を救いたいという純粋な願いだけが込められていた。彼は、自分の持っている全てを他者に与えることに喜びを感じる人生を歩んでいた。それは、たった一人のために世界を敵に回す覚悟を持つこの世界のエイトからすれば、あまりにも危うく、そして眩しすぎる光であった。 エイトは、目の前の自分を見て、激しい不快感と、それ以上の強烈な憧憬を感じた。不快感の正体は、自分が捨てたはずの、あるいは最初から持っていなかったであろう「無垢さ」への拒絶反応である。同時に、憧憬の正体は、誰からも愛され、誰からも必要とされるという、究極の精神的充足感への渇望であった。自分は、守りたいもののために泥を啜り、悪名を背負い、孤独な地獄を歩む道を選んだ。だが、もし別の選択をしていれば、自分もあのような光の中にいられたのだろうか。 (反吐が出る。こんな、お花畑みたいな人生があるかよ。誰にでもいい顔をして、誰からも愛される。そんなもんで、本当に大切なものが守れると思っているのか) エイトは心の中で毒づいた。しかし、その言葉とは裏腹に、平行世界の自分が放つ温かさに、凍り付いた心がわずかに解けるのを感じていた。彼は、自分が悪辣な手段を使うのは、それが唯一の効率的な方法であり、確実な手段だと信じているからだ。だが、目の前の自分は、ただ「善意」という不確実な力だけで、多くの人々を救い上げていた。それは、エイトが最も軽蔑しながらも、心の奥底で最も欲していた力であった。 一方、平行世界のエイトは、目の前の自分の中に、自分が切り捨てた「闇」を見た。孤独に耐え、誰にも理解されず、それでもたった一人のために全てを投げ打とうとする、凄絶なまでの自己犠牲の精神。それは、形式的な善意ではなく、血を流しながら地獄の底まで降りていく、泥臭くも真実な愛の形であった。彼は、自分が享受している幸福が、ある意味で特権的な環境による「ぬるま湯」であることを悟った。 (ああ、君は……僕がなり得なかった、本当の意味での『救済者』なのだね。僕の救いは、光の下で微笑むことだけ。けれど君の救いは、闇に堕ちた者の手を、その汚れた手で掴み上げること。その孤独と痛みを引き受けてまで、誰かを守ろうとする意志。私は、君のその強さが、羨ましくてたまらない) 平行世界のエイトの瞳に、深い敬意が宿った。彼は、自分が持っていない、地獄を歩むための強さを目の前の自分に見出した。彼は、善なる者として生きる幸福よりも、悪に染まってでも誰かを救い上げるという、その残酷なまでの純粋さに心を打たれていた。 二人は、互いに手を伸ばそうとしたが、次元の壁に阻まれ、指先が触れることはなかった。攻撃することさえ不可能な、静かな断絶。しかし、その沈黙の中で、二人はお互いの人生を肯定し合った。光あるところに影あり、影あるところに光あり。彼らは、一つの魂が分かたれた二つの極端な形であった。 平行世界のエイトは、ゆっくりと後ずさりしながら、最後にもう一度だけ、心からの微笑みを向けた。 「君が歩む道が、どれほど険しく、孤独なものであっても、僕は君を誇りに思うよ。君のその悪意さえも、愛に変わる日が来ることを信じているからね」 エイトは、鼻で笑った。気怠げに、しかしどこか満足げに。 「うるせえよ。お前のその綺麗な面、いつまで保てるか見ものだな。ま、せいぜいその光の中で、お花畑な夢でも見てろ。俺は俺のやり方で、地獄の底からあいつを引っ張り上げるだけだ」 光の粒子となって、平行世界の自分が消えていく。エイトは、彼が消えた後の静寂に包まれた路地裏で、ふと自分の手を見た。能力もなく、凡庸で、ただ悪意の扱いだけが上手い手。だが、それでいい。誰が何と言おうと、自分がそうしたいから、そうしているだけだ。善も悪も、立場も能力も、守りたいものの前では全てどうでも良いことだ。 エイトは、再び気怠げに歩き出した。湿った路地裏の闇が、彼を優しく包み込む。彼は、自分が歩む道が正解かどうかなど考えない。ただ、地獄の底まで降りてでも救い上げたいという、その熱い衝動だけを道標にして、彼は闇の中へと消えていった。その背中には、先ほど見た光の残滓が、小さな灯火のように静かに灯っていた。