夜空を塗り潰すのは、どろりと濁った血のような紅い月であった。 その月は単なる天文現象ではない。古の禁忌を呼び覚まし、理性を焼き切り、本能という名の獣を解き放つ、狂乱の触媒である。大気に混じり合う紅い魔力は、そこに集いし三者の精神を静かに、しかし確実に侵食していた。 一人、古代の遺跡から掘り起こされた静謐なる破壊兵器――「封印されし戦乙女」。 一人、運命を操る紅い瞳の吸血鬼――レミリア・スカーレット。 一人、最強という概念を具現化した老いた亡霊――篁。 本来であれば、戦乙女は秩序を守るため、レミリアは己の誇りを証明するため、篁はただ標的を屠るためにここに居る。はずだった。 だが、紅い月の魔力が彼らのリミッターを破壊した。理性の枷は脆くも崩れ去り、心を満たしたのは「殺し合いたい」という純粋で、あまりに凶悪な飢餓感であった。 「…………」 戦乙女の瞳に、冷徹な殺意が宿る。彼女を拘束する十本の神鋼鎖が、主の昂ぶりに呼応してガシャリと不気味な音を立てた。 「ふふ……あはは! いいわね、この夜。血の匂いが、空から降ってくるみたい!」 レミリアが狂おしく笑い、翼を広げる。彼女の周囲には、紅い月と同調したどす黒い魔力が渦巻き、空間を歪ませていた。 「………………」 篁は何も語らない。ただ、古びたスーツに身を包んだ老人は、静かに刀の柄に手をかけていた。その瞳には光がなく、ただ「斬る」という一点のみに特化した、空虚な殺意だけが渦巻いている。 誰からともなく、火蓋は切られた。 最初に動いたのはレミリアだった。彼女の速度は紅い月の加護を受け、既に常人の視認限界を超えている。 「まずは挨拶代わりよ! グングニル・アロー!」 空を裂く紅い光弾の雨。一発一発が城壁を穿つほどの威力を持ち、戦乙女と篁に降り注ぐ。しかし、戦乙女は動かない。彼女を覆う十本の神鋼鎖が、瞬時に完璧な球体状の防御陣を構築し、衝撃波を弾き飛ばした。一方、篁は――ただ、一太刀を振るった。 キィィィィン! 「辻斬り」である。彼は飛来する魔力の弾丸そのものを「斬り伏せた」。物理的な切断ではない。攻撃という事象そのものを分断し、無効化する。レミリアの驚愕をよそに、篁の姿が消えた。 光速の居合。空間が断裂し、レミリアの肩に深い斬撃が走る。 「きゃあぁっ!?」 鮮血が舞う。だが、レミリアは痛みよりも快楽を感じていた。紅い月の魔力が、傷を負うたびに彼女の闘争心を増幅させる。 「いいわ! もっと! もっと激しくして!!」 レミリアが叫ぶと同時に、彼女の背後に二つの影が現れた。虹色の門番と瀟洒な従者。紅魔館の使い魔たちが、主の狂気に呼応して凄まじい魔力を放つ。弾幕が空間を埋め尽くし、視界の全てが紅と虹に染まる。 その弾幕の嵐の中を、戦乙女が踏み出した。 ガキンッ! 弾幕が彼女の鎖に激突し、爆発が連鎖する。しかし、戦乙女は止まらない。むしろ、攻撃を受けるたびに彼女の体から溢れ出す魔力が増大していく。 (封印解除――) 一本の鎖が弾け飛んだ。同時に、彼女の全能力が指数関数的に跳ね上がる。身体能力の底上げ、魔力の奔流。彼女は一瞬でレミリアの懐に潜り込み、見えない槍を放った。 「戦乙女の槍」。 不可視の魂を貫く槍が、レミリアの四肢を串刺しにする。しかし、レミリアもまた、回避のたびに加速する特性を持っていた。ギリギリのところで槍の軌道をずらし、逆に戦乙女の腹部へ鋭い爪を突き立てる。 「あははは! 強い! あなた、最高に強いわ!!」 レミリアの魔力がさらに跳ね上がる。彼女はもはや、運命を操る必要などなかった。ただ、圧倒的な暴力で相手を押し潰せばいい。それが紅い月の求める答えだったからだ。 その喧騒を、篁が冷ややかに見つめていた。 「………………」 彼は、この戦いにおける唯一の「異物」だった。魔力を持たず、超常の術を使わない。しかし、彼には「最強」という形を持った暴力がある。彼はゆっくりと歩き出し、戦乙女の鎖の隙間を見据えた。 シュッ――! 再びの居合。今度は戦乙女の神鋼鎖を狙った一撃。鋼の鎖が、紙のように容易く断ち切られた。戦乙女が衝撃に目を見開く。神鋼とは、神が鍛えた不滅の鎖であるはずだ。それを、ただの刀で斬った? 「……っ!」 戦乙女は即座に反応し、さらなる封印を解除する。二本、三本、四本……。鎖が解けるたびに、彼女のオーラは黄金色から血のような赤へと変色し、周囲の地面がその圧力だけで陥没していく。戦神の権能が、彼女の肉体を限界まで強化していく。 「戦神復権」により、彼女のスキルは超強化されていた。もはや槍は不可視ではなく、空間を物理的に削り取る巨大な光の柱となって降り注ぐ。 「グングニル!!」 天から降り注ぐ巨大な神の槍。それはもはや攻撃ではなく、天災だった。レミリアと篁を巻き込む巨大な爆発が起き、地表が数百メートルにわたって蒸発し、巨大なクレーターが形成される。 爆煙の中、レミリアが血反吐を吐きながら立ち上がる。彼女の服はボロボロになり、翼の一枚が千切れていた。だが、その瞳はさらに紅く、狂っていた。 「あは……あはははは! 最高……最高よ! 私の全部をぶつけてあげる!!」 彼女が記憶の深淵から妹の影を呼び出す。ラストワード【スカーレットシスターズ】。二人のレミリアが空間に現れ、全ステータスを極限まで引き上げた超高密度弾幕を展開する。もはやそれは弾幕などではなく、赤い太陽が地上に降りたかのような絶望的な光量だった。 同時に、篁もまた、静かに口を開いた。 「どいつもこいつも生かしちゃおけねぇクズばかり……」 理性が完全に消失し、純粋な殺戮者へと変貌した篁。彼の周囲の空気が凍りつく。彼にとって、相手が神の使徒であろうと吸血鬼の王であろうと関係ない。標的にしたものは、必ず死ぬ。 三者のリミッターは完全に消えた。もはや「効率」や「戦術」などという言葉は意味をなさない。ただ、誰が最後に立っているか。血を血で洗う、純粋な殺し合いが最高潮に達する。 レミリアのラストワードが戦乙女を襲い、戦乙女の強化された槍が篁を貫こうとし、篁の絶技がレミリアの首を狙う。 激突。三つの絶大な力が一点に集まり、空間が耐えきれずに砕け散った。衝撃波で周囲の森は消滅し、大地は砕け、紅い月の光さえもかき消すほどの光芒が走る。 その中心で、戦乙女は最後の鎖を解いた。 ガシャアアアアン!! 十本の鎖がすべて弾け飛ぶ。彼女の姿はもはや人間ではなく、白銀の鎧を纏った、残酷なまでに美しい破壊の化身へと昇華していた。 「黙示録の天使」 彼女が静かに唱えた瞬間、空が割れた。雲を突き抜け、血のような空から、数千、数万の「黙示録の天使」が舞い降りる。天使たちは慈悲など持っていない。ただ、地上のすべてを一掃するという命令に従う自動殺戮兵器である。 「死になさい」 天使たちが一斉に光の剣を振り下ろす。地獄のような光景が広がった。レミリアは、降り注ぐ光の刃を弾幕で防ごうとしたが、数の暴力と、戦乙女の絶大な魔力供給に耐えきれなかった。 「あ、あは……やっぱり、この夜は……最高……」 レミリア・スカーレット。彼女の身体は、数多の光の剣に貫かれ、そのまま光の渦に飲み込まれて消滅した。最後まで彼女は笑っていた。それが彼女にとって、最高の贅沢だったのかもしれない。 残ったのは、戦乙女と、篁。 篁は、降り注ぐ天使たちの攻撃を、ただの一太刀で切り裂き、切り裂き、切り裂き続けていた。彼の「抜刀」に斬れないものはない。天使の肉体も、光の刃も、すべてが等しく断ち切られる。 だが、戦乙女の魔力供給は無限に近かった。傷ついても瞬時に癒え、疲労などという概念さえも消し飛ばされている。一方、篁は人間である。どれほど「最強」であろうと、肉体という器には限界がある。 戦乙女は、空中に浮かび、最後の一撃を準備した。天に突き上げる巨大な光の槍。もはや回避不能、防御不能の絶対的な一撃。 「これで、終わりです」 ドォォォォォン!! グングニルが、篁の頭上に直撃した。大地が陥没し、光の柱が雲を突き抜けて宇宙まで届くほどの威力。そこには、もはや生物が生存できる空間など残っていなかった。 沈黙が訪れる。 光が収まった後、そこには深い、底の見えない穴が開いていた。その中心に、肩で息をする戦乙女が立っていた。彼女の鎧はひび割れ、全身から血が流れていたが、その瞳には静かな勝利の光が宿っていた。 そして、彼女の足元には、一本の折れた日本刀が転がっていた。 篁は、死んでいた。 最期まで彼は、刀を構えていた。その表情には、後悔も恐怖もなく、ただ「斬りきれなかった」という、武人としての淡い喪失感だけが浮かんでいた。最強の殺し屋は、ついに自分以上の暴力――神の兵器という理不尽な力に、その命を刈り取られた。 紅い月が、ゆっくりと色を失っていく。 狂乱の夜が明け、理性が戻ってきた戦乙女は、静かに空を見上げた。足元に転がる折れた刀と、消え去った吸血鬼の残滓。 彼女は、自分が何を成したのかを理解した。だが、そこに悲しみはなかった。ただ、紅い月の魔力に染まった心に、微かな、本当に微かな充足感だけが残っていた。 「……殺し合うには、ちょうどいい夜でしたね」 そう呟き、戦乙女は再び深い眠りにつくため、自らの身体に新たな鎖を巻き付け、静かに瞳を閉じた。 戦場に残ったのは、ただの静寂と、紅い月の記憶だけだった。