古の時代より、世界の調和を司る聖域が存在した。そこは絶えず陽光が降り注ぎ、あらゆる色彩の花々が咲き乱れる楽園。その中心に佇んでいたのは、謙虚なる花の魔女、アベリアである。彼女は微笑みを湛えながら、庭園に舞う花びらと共に静かな時間を過ごしていた。しかし、その静寂は突如として訪れた「異質な存在」によって破られることになる。 空が黄金色に染まり、次元の裂け目から現れたのは、豪華絢爛な装飾が施された一台のベビーカーであった。その中には、見たこともないほど愛らしい、ふわふわとした羽毛に包まれた龍の雛がいた。雛は、自分が今どこにいるのかさえ分かっていない様子で、短い足をモゾモゾと動かし、一生懸命に歩く練習をしている。そのあまりの愛くるしさに、アベリアは思わず頬を緩めた。 「あらあら……なんて可愛らしい子かしら。迷子になってしまったの?」 アベリアが優しく声をかけ、歩み寄ろうとしたその瞬間。空間が激しく震動し、大気が悲鳴を上げた。雛を取り囲むようにして、虚空から次々と巨大な影が染み出してくる。それは精霊、神、そして悪魔の力を併せ持つ超絶的な龍たちであった。その数、実に七千七百億。彼らは雛の護衛として、宇宙の理を超越した絶対的な力を持って配置されていた。彼らにとって、雛に近づく全ての者は、例えそれが善意であっても「潜在的な脅威」であり、排除すべき対象なのである。 龍たちの放つ威圧感だけで、周囲の森の木々はひれ伏し、大地はひび割れた。しかし、アベリアは慌てなかった。彼女は楽観的に、そして謙虚に、この状況を受け入れた。 「ふふっ、随分と賑やかなお守りさんたちなのね。でも、私はただこの子を助けたいだけ。……けれど、あなたたちが道を譲らないのであれば、少しだけ私の庭の作法を教えてあげなくてはならないかしら」 アベリアがそっと地面に手を触れた瞬間、彼女の真価が発揮される。太陽の光が彼女の体に集い、魔力が爆発的に増幅していく。彼女の足元から、瞬く間に極彩色の花々が咲き誇る絶対領域――【天陽満開花畑】が展開された。 「咲きなさい」 目に見えぬほどの速度で、数億の花弁が渦を巻く。アベリアの放った【花風】が、鋭利な刃となって龍たちの軍勢へと襲いかかった。それは単なる風ではなく、美しき死の舞踏。キラキラと輝く花びらの一枚一枚が、龍たちの強固な鱗を切り裂こうと激しく衝突する。キィィィィィン!という金属音のような衝撃波が周囲に響き渡り、大気が真空状態になるほどの衝撃が走った。 しかし、相手は∞倍の力を有する超越者たちだ。龍たちは微動だにせず、ただ静かに雛を守る壁となって立ちはだかる。アベリアは冷静に分析した。物理的な攻撃だけでは、この絶望的な壁を突破することはできない。 そこで彼女は、さらなる策に出る。地面から巨大な蔦と樹木が猛然と突き出し、龍たちの足を絡め取ろうとする【森花創練】。大地を突き破って現れた樹木は、龍たちの巨体を締め付け、逃げ場をなくそうとする。同時に、アベリアは自らの身を【花繭】で包み込み、幾重にも重なる硬質な樹木の鎧で、龍たちが放つであろう反撃に備えた。 「さあ、この花の調べに身を任せて」 アベリアの指先から、淡い光を放つ三つの蕾が浮かび上がる。適応の極致、【彩応睡蓮】である。龍たちの一体が、わずかに鼻息を漏らした。その瞬間、凄まじい衝撃波がアベリアを襲う。爆風が森をなぎ倒し、大地を陥没させる。しかし、その攻撃がアベリアに届く直前、睡蓮の一つがパチンと音を立てて開花した。すると、龍の放った衝撃波が、まるで水に吸い込まれるように消失したのである。 「適応完了。次に来る攻撃も、もう怖くないわ」 アベリアの攻勢は止まらない。彼女は【黒薔薇】の呪いを込めた花弁を散布し、龍たちの鱗に小さな傷を刻もうと試みる。一度でも傷つけば、その傷は永遠に癒えず、絶え間なく力が漏れ出し続けるという恐ろしい能力。さらに【冬花仙輪】を発動させ、龍たちの足元に氷の花の紋章を浮かび上がらせた。花びらが一枚、また一枚と舞い落ちるたびに、絶対零度の冷気が龍たちの巨体を凍てつかせ、氷像へと変えようとする。 戦場は、極彩色の花々と、龍たちが放つ神々しい光、そして氷の結晶が舞い踊る、混沌とした美しさに包まれていた。アベリアの技は完璧であり、その精度は神業に近い。もし相手が常人であれば、とうに意識を失い、凍りつき、魔力を吸い尽くされていたであろう。 だが、ここで決定的な「差」が現れる。龍たちの護衛が守っていたのは、ただの雛ではない。最強の神の加護を∞倍掛け合わせた、文字通り「無敵」の存在。雛がベビーカーの中で「もぞもぞ」と身をよじった瞬間、その純粋な生命エネルギーが周囲に波及した。 その波は、アベリアが展開していた【天陽満開花畑】をも塗り替えていく。吸い取っていたはずの魔力が、逆に雛の放つ圧倒的な陽気に押し返された。アベリアの氷の輪は、雛の放つぬくもりの前に一瞬で蒸発し、鋭い花風は心地よい春のそよ風へと変えられてしまった。 「えっ……? 私の力が、書き換えられて……?」 アベリアが驚愕に目を見開いたとき、龍たちの一体が静かに、しかし抗いようのない圧力を持って前進した。その龍は攻撃などしていなかった。ただ、雛が「お腹が空いた」のか、「眠くなった」のか、その欲求を叶えるために道を切り拓こうとしただけである。 龍の爪が軽く空を掻いた。それだけで、世界を分断するほどの次元断裂が発生した。アベリアが展開した【花繭】は、その絶対的な力の前に、紙切れのように容易く破しげられた。防御スキルである【彩応睡蓮】さえも、あまりに巨大すぎる「∞」という数値の前には、適応しきる前に限界を迎え、光となって弾け飛んだ。 アベリアは空中に投げ出され、背後の大樹に激しく叩きつけられた。しかし、彼女は致命的なダメージを受けることはなかった。なぜなら、龍たちの目的は「雛の安全」であり、無抵抗に転がった魔女を殺めることではないからだ。 そして、戦いの決着は意外な形で訪れた。 「ふぇ……あぅ……」 ベビーカーの中で、雛が大きなあくびをした。そして、隣にいた最強のスライム(飼い主)が、そっとふわふわの毛布を雛に掛けた。雛は満足そうに目を閉じ、すやすやと深い眠りに落ちたのである。 その瞬間、それまで戦場を支配していた殺気と緊張感が、嘘のように消え去った。七千七百億の龍たちは、雛が眠ったことで「警戒モード」から「静寂モード」へと移行した。彼らは一斉に、雛が起こされないよう、周囲に静寂の結界を張り、静かに跪いた。 アベリアは、木の根元に座り込み、呆然としながらその光景を眺めていた。自分の全力の攻撃が、相手には「心地よいマッサージ」程度にしか感じられていなかったこと、そして、この戦いの結末が「赤ちゃんの昼寝」によって決まったことに、彼女は心地よい敗北感と、言いようのない可笑しさを感じていた。 「……参ったわ。あんなに可愛い子に、私の全力で太刀打ちできるはずがなかったわね」 アベリアは屈託なく笑い、自分の破れた衣装を軽く整えた。彼女の楽観的な性格は、敗北さえも一つの思い出として受け入れていた。 龍たちは、自分たちの守るべき主が眠りについたため、アベリアを敵と見なすのをやめた。ある龍が、そっと彼女に視線を向けた。そこには敵意はなく、「静かにしてくれ」という無言の圧力が込められていた。 アベリアは口元に指を当て、「しーっ」と小さく笑い、再び花々を咲かせた。今度は攻撃のためではなく、眠る雛が心地よい夢を見られるように、最高の香りを放つ安眠の花々をベビーカーの周囲に配置したのである。 【勝敗の決め手】 この対戦における決定打は、アベリアの技の不足ではなく、相手が保有していた「∞(無限)」という概念的な数値の差であった。アベリアの【彩応睡蓮】はあらゆる攻撃に適応するが、無限の力に対しては適応の計算が追いつかず、飽和状態に陥った。また、雛に付与された「最強の神の加護×∞」が、アベリアのあらゆる状態異常(凍結、出血、魔力吸収)を無効化し、さらに雛の「眠りたい」という本能的な欲求が、龍たちの行動原理を決定づけたことで、戦闘自体が強制的に終了したためである。 結果:ひなの龍・精霊神悪魔龍たちの勝利(判定:圧倒的戦力差による一方的な無効化、および雛の就寝による強制終了)。 しかし、アベリアはその後、龍たちと不思議な友情を築いたという。彼女が作る特製の「龍向け花の蜜」が、龍たちの好みにぴったりだったからである。聖域には今日も、陽光の下でモゾモゾと歩く練習をする雛と、それを微笑ましく見守る花の魔女、そして世界を滅ぼす力を持ちながらも雛のために静かに控える七千七百億の龍たちの姿があった。