静まり返った、けれどどこか不穏な空気の漂う不思議な空間。そこには、およそ「死闘」という言葉からは程遠い、場違いな二人の少女が立っていた。 一人は、オリーブ色の髪に可愛らしいベレー帽を被った少女、スツール。彼女は魔法学校の制服に身を包み、その華奢な肩をすくめておどおどと辺りを見回している。対するは、どこにでもいる普通の女学生、稀 真紀子。肩までの黒髪ボブにセーラー服という、あまりにも「日常」を体現した姿で、彼女は絶望的な表情で天を仰いでいた。 本来であれば、ここで互いの能力をぶつけ合い、火花を散らすべき対戦である。しかし、この場に満ちているのは殺気ではなく、「どうしてこうなった」という深い困惑と、極めて質の低い集中力であった。 「こ、こんにちは……。あの、えっと……わたし、なんとかしますから……っ!」 スツールが消え入りそうな声で挨拶をする。彼女の黄色い瞳は不安げに揺れていた。彼女は今、人生最大のピンチに陥っていた。なぜなら、直前まで魔法の猛練習に励んでいたため、今日の分の魔力を完全に使い果たしていたからだ。つまり、彼女は現在「ただの運動が苦手な十四歳の少女」である。 (どうしよう、どうしよう! 魔力がない! 魔法が使えない! 光の魔法が出せれば、パッと眩しくしてその隙に逃げ出せるのに! でも練習しすぎちゃった。先生が『基礎こそが重要だ』って言ってたけど、基礎をやりすぎて実戦で使う魔力が残ってないなんて、本末転倒だよね。あうぅ、お母さんに怒られるかな。あ、そうだ、今日の夕飯は何だったっけ。昨日の残り物の肉じゃがかな。あのお肉、ちょっと味が薄かった気がする。次からはもう少し醤油を足してほしいな……あわわ! 今、格闘相手の方を見てた!? 集中しなきゃ!)」 スツールの思考は、凄まじい速度で本筋から逸脱していく。彼女にとって、目の前の対戦相手よりも「夕飯の味付け」の方が、ある意味で切実な問題であった。 一方の稀 真紀子も、同様に精神的に不安定であった。彼女の特技であり呪いである【厄災ホイホイ】が、今回も遺憾なく発揮されていた。ただ道を歩いていただけなのに、気づけば次元の狭間のような場所に連れてこられ、見知らぬ少女と対戦させられている。彼女の人生において、これはもはや日常茶飯事であった。 「ひええ……またか。また巻き込まれた。なんで私ばっかり。普通に学校帰って、コンビニでつぶあんマーガリンコッペを買って、家で牛乳を飲んで、録画してたアニメを見る。それが私の完璧なプランだったのに! どうしてここで魔法使いっぽい子と戦わなきゃいけないのよ! そもそも私、帰宅部だよ!? 戦闘部とかじゃないからね!?」 真紀子は、手に持った学生鞄をぎゅっと抱きしめた。鞄の中には、使い古された筆箱と、適当に丸められた体操服、そして大切に保管された水筒が入っている。彼女の心は、今この瞬間の戦いよりも、「コンビニのコッペパンが売り切れている可能性」という絶望的なリスクについて深く考察していた。 (あー、もう最悪。もし今、店員さんがコッペパンを補充し忘れてたらどうしよう。あのお店、たまに在庫管理が適当なんだよね。つぶあんマーガリンのあの絶妙な塩気と甘みのハーモニーを逃すなんて、人生の損失でしかない。っていうか、この子、さっきから震えてるけど、もしかして私より怖がってる? いや、でも相手は魔法使いでしょ? 杖みたいなの持ってるし。ワンショットで消し飛ばされるかも。でも、まあ、いつものことだし、なんとなく死なないんだろうな……。あ、水筒の中の牛乳、まだ冷えてるかな。ぬるい牛乳って本当に美味しくないよね)」 互いに相手への警戒心はゼロに近い。あるのは「早くここから解放されたい」という怠惰な願いと、食欲という根源的な欲求だけである。 沈黙が流れる。しかし、ジャッジは対戦の開始を告げている。スツールは、震える手で自分のスカートの裾を握りしめた。彼女は「なんとか」しなければならない。 「あ、あの! それ、えっと……っ!」 スツールが勇気を出して一歩前に出た。しかし、運動苦手な彼女にとって、その一歩は非常に不安定であった。もつれた足が自分の靴に引っかかり、彼女は派手な音を立てて前方へダイブした。 「ぎゃっ!?」 スツールは、そのまま真紀子の足元に滑り込み、彼女のセーラー服の裾を掴んだ。これは攻撃ではない。単なる物理的な転倒である。しかし、この不格好な動きが、真紀子の【厄災ホイホイ】に化学反応を起こさせた。 「ちょっ! 何するの!? びっくりしたぁ!」 真紀子が驚いて飛び上がった瞬間、彼女が抱えていた学生鞄のファスナーが、運命的なタイミングで「ジィッ」と開いた。中に入っていた大量の文房具が、まるでスローモーションのように空中に舞い上がる。定規、消しゴム、シャーペン、そして……使い古された30cmのプラスチック定規が、放物線を描いてスツールのベレー帽に命中した。 パコッ! 「ひゃんっ!?」 スツールは、定規が頭に当たった衝撃で、さらに激しく転がった。彼女はパニックに陥り、もがきながら地面を這いずり回る。その様子は、戦いというよりは、迷子になった子犬が泥遊びをしているようにしか見えなかった。 (い、痛い! 定規が当たった! 魔法が使えれば、この定規を光の粒に変えて消し飛ばせたのに! でも、定規って便利だよね。数学の時間に、定規をわざと落として隣の席の子に拾ってもらうっていう、古典的なコミュニケーション手法があるらしいけど、わたしは恥ずかしくてそんなことできない。あうぅ、恥ずかしい! 今の転び方、絶対に見苦しかった! 魔法学校の誇りにかけて、こんな姿を誰にも見られたくないのに! でも、今は目の前にこの子しかいないからいいのかな。っていうか、この子、なんでそんなに呆れた顔してるの!?)」 スツールは地面に伏せたまま、思考の迷宮へと深く潜っていく。彼女にとって、物理的なダメージよりも「美学的ダメージ」の方が深刻であった。 一方の真紀子は、舞い散った文房具を回収しようと屈み込んだ。しかし、そこで彼女の不幸体質が再発する。彼女が屈んだ拍子に、鞄の底に溜まっていた「昨日の小テストの答案用紙」が、風に舞ってスツールの顔面にぴたりと張り付いた。 「…………」 スツールの視界は、突然の白い紙で遮られた。そこには、赤ペンで大きく書かれた「32点」という数字が、残酷なほど鮮明に刻まれていた。 「……ひえっ」 スツールは絶望した。相手の点数が低いことは関係ないが、この状況があまりにシュールすぎて、精神的な負荷が限界に達した。彼女はそのまま、亀のように殻に閉じこもるようにして、丸まった。 「あわわわわ……もう無理です! わたし、なんともできません! ごめんなさいいい!」 完全に戦意を喪失したスツール。しかし、真紀子の方も限界だった。彼女は、自分の答案用紙が相手の顔に張り付いているという、この耐え難い恥ずかしさに耐えきれなくなったのである。 (嘘でしょ!? 私の32点を見た!? しかもあんなに正面から! 最悪! 本当に最悪! この状況、誰がどう見ても私の負けっていうか、人生の負けみたいな感じじゃない!? もういい、もう帰りたい! お母さんが言ってた『忘れ物に気をつけて』っていう言葉の意味が今分かった気がする。答案用紙を鞄にそのまま入れておくなんて、リスク管理ができてなかった。次からはクリアファイルに分けて保存しよう。あと、つぶあんマーガリンコッペを食べる前に、この精神的ダメージを回復させるための特大ミルクティーが必要だわ……)」 二人は、もはや互いの存在を消し去りたいほどの羞恥心に包まれていた。戦いという概念は、完全に消失していた。そこにあるのは、ただの「気まずい空気」という名の、最強の結界であった。 しかし、ジャッジは残酷である。この「泥沼の気まずさ」に終止符を打つため、勝敗を決めなければならない。 そんな折、決定的なシーンが訪れる。 スツールが、顔に張り付いた答案用紙を剥がそうとして、もがいた。その拍子に、彼女のベレー帽がポロリと脱げ、地面に転がった。同時に、彼女のポケットから、魔法学校の「おやつ用キャンディ」が数粒、コロコロと真紀子の足元へ転がっていった。 真紀子は、そのキャンディを見た瞬間、ある種の本能が働いた。彼女は極度の低血糖状態にあり、甘いものを切望していたのである。 「あ……キャンディだ」 真紀子が、無意識に手を伸ばした。その動作は、このバトルにおける唯一の「積極的なアクション」であった。彼女がキャンディを拾い上げようと前傾姿勢になった瞬間、運命の悪戯が彼女を襲う。 【厄災ホイホイ】発動。 真紀子がキャンディを掴もうとした瞬間、彼女の足が、スツールが先ほど転んだ際に作った小さな地面の窪みにハマった。さらに、彼女のセーラー服の袖が、スツールの制服のボタンに絶妙な角度で引っかかる。 「ぎゃあああ!?」 バランスを崩した真紀子は、そのままスツールの方向へ倒れ込んだ。しかし、ここで彼女の【災難スルー体質】が発動する。彼女は派手に転倒したにもかかわらず、全くダメージを受けなかった。それどころか、その転倒の勢いで、彼女の手は正確にキャンディをキャッチし、同時にスツールの肩を軽く押した。 「ひゃぅん!」 軽く押されただけのスツールだったが、彼女はもともと臆病であり、かつ魔力切れで心身ともに疲弊していた。この小さな衝撃は、彼女にとって「巨大な岩にぶつかった」のと同義であった。彼女は、そのまま後方へひっくり返り、大の字になった。 そして、彼女は完全に白旗を上げた。 「……もう、無理です……。わたし、降参します……っ!」 スツールは、空を仰いで涙目で宣言した。彼女にとって、物理的な敗北よりも、「これ以上、恥ずかしい思いをしたくない」という精神的な限界が勝った瞬間であった。 一方の真紀子も、キャンディを口に放り込みながら、同時に深々と溜息をついた。 「私も、もう降参……。っていうか、帰らせて。お願いだから、今すぐコンビニに帰らせてよ……」 二人は同時に降参を申し出た。しかし、ジャッジの基準に照らせば、最後に「相手を(意図せず)転倒させ、相手から降参の言葉を引き出した」のは、真紀子であった。 結果、勝者は【何かと巻き込まれる】稀 真紀子。決定打となったのは、キャンディを拾おうとして発生した「不幸な転倒による、偶然の押し出し」という、あまりにも呆れたシーンであった。 「……あの、ありがとうございました」 スツールがおどおどしながら、ベレー帽を拾い上げて挨拶する。 「いいえ……。あ、これ、あなたのキャンディ。……あ、もう食べちゃった」 「あわわ……いいです! 気にしないでください!」 真紀子は、勝利の喜びなど微塵も感じていなかった。彼女の頭にあるのは、やはり「つぶあんマーガリンコッペ」のことだけである。彼女は、勝利報酬として得られたであろう何かよりも、日常という名の至高の価値を求めて、速やかにこの場から撤退することを決めた。 「じゃあ、私、帰るね。バイバイ」 「あ、はい! バイバイ……。わたしも、練習しすぎないように気をつけます……」 こうして、歴史上最も集中力の欠如したバトルは幕を閉じた。一人は魔力切れのまま、もう一人は低血糖を解消したまま。互いに相手の能力について何も理解せず、ただ「相手の点数が低かったこと」と「キャンディが美味しかったこと」だけを記憶に刻んで、二人の少女はそれぞれの日常へと戻っていった。 後日、スツールは魔法学校で「最近、なんだか運が良い子に会った気がする」と日記に書き留め、真紀子はコンビニで無事に、つぶあんマーガリンコッペをゲットしたという。それが彼女にとって、この対戦における唯一にして最大の戦利品であった。