##チームA アメジスト・ジェーンは、白く濁った空が広がる見知らぬ空間に立っていた。彼女はいつものように、錬金術会社の社畜としての疲労感を全身に纏い、半開きにされた目で周囲を見渡した。彼女にとって、今の状況さえも「想定外の業務」の一環であるかのように感じられ、強い戦意などどこにもなかった。彼女は龍人としての誇りよりも、早く家に帰って泥のように眠りたいという欲求の方が遥かに強かった。紫色の鱗がところどころにあり、龍の角が突き出ているが、その佇まいは完全に「疲れ切った中間管理職」そのものである。 ふと、アメジスト・ジェーンの視界に、自分と全く同じ姿をした人物が現れた。しかし、その雰囲気は決定的に違っていた。そこに立っていたのは、漆黒の軍服に身を包み、鋭い眼光を放つ「もう一人のアメジスト・ジェーン」であった。 この平行世界のアメジスト・ジェーンは、彼女が所属している錬金術会社ではなく、その会社を敵対視し、武力で支配しようとしている軍事帝国「紫炎軍」の最高司令官という立場にいた。彼女は無気力などではなく、極めて能動的で、冷酷な野心に満ち溢れていた。思想と行動が極端に攻撃的な方向へと進化しており、世界を紫の炎で焼き尽くし、再構築することに情熱を注いでいる存在であった。 軍事帝国の司令官であるアメジスト・ジェーンは、目の前に立つ「自分」を冷ややかな視線で眺めた。彼女は腰に差した儀礼的な剣の柄に手をかけ、不快そうに鼻を鳴らした。しかし、不思議なことに、ここには不可視の理が働いており、彼女がどれほど殺意を込めても、目の前の自分に攻撃を仕掛けることはできなかった。剣を抜こうとしても、腕が透明な壁に阻まれたかのように動かない。 「……これが、あり得たかもしれない私の成れ果てか。嘆かわしいな」 軍事帝国のアメジスト・ジェーンが口を開いた。その声は凛としており、命令に慣れた者の威圧感に満ちていた。彼女は、疲れ切った表情でぼーっとしているアメジスト・ジェーンに向かって、嘲笑を浮かべながら歩み寄った。 「組織の歯車として、上からの命令に怯え、日々の雑務に追われるだけの人生。お前には誇りというものがないのか? 龍人としての血が、その鈍い瞳の奥で眠っているはずだ。私は、その血を覚醒させ、この世界の理を書き換えた。弱き者に寄り添うのではなく、強き者が全てを支配する。それが真の効率であり、正義だ」 アメジスト・ジェーンは、その激しい言葉を浴びながらも、特に動揺することはなかった。むしろ、自分と同じ顔をした人間が、あんなに情熱的に、しかも組織のトップとして声を張り上げていることに、心からの恐怖と疲れを感じていた。彼女にとって、責任ある立場に就くことは、今の「中間管理職」という地獄よりもさらに過酷な業務量を意味することに他ならない。 (……疲れる。あんな風に喋り続けるなんて、喉が枯れるし、精神的なコストが高すぎる。責任者がっていうのは、結局、全部自分のせいで怒られるっていうことだろ。あっちの私は、きっと睡眠時間が全然足りていないに違いない。あんなに攻撃的なのは、低血糖かストレスのせいなんじゃないか……) アメジスト・ジェーンは、心の中で深く溜息をついた。彼女にとって、軍事帝国の司令官という立場は、憧れではなく「最悪の就業条件」に見えた。彼女は、目の前の自分という存在に対し、深い同情を覚えた。誰よりも強く、誰よりも高く登り詰めた結果、周囲に誰もいなくなり、ただ破壊することにしか価値を見出せなくなった孤独な怪物。それが、平行世界の自分であると感じたからだ。 一方で、軍事帝国のアメジスト・ジェーンは、自分を憐れむような目で見つめるアメジスト・ジェーンに対し、激しい怒りと、同時に説明し難い違和感を抱いていた。彼女はこれまで、強さこそが全てであり、弱さは排除されるべきゴミであると信じて生きてきた。しかし、目の前にいる自分は、完全に「弱さ」を体現している。それなのに、その瞳には、自分が捨て去ったはずの「穏やかさ」や「諦念という名の平穏」が宿っているように見えた。 (なぜだ。なぜ私は、この無価値な自分を見て、心地よさを感じるのだ? この女は、何も持たず、何も成し遂げていない。ただ、そこに在るだけで完結している。私が血を流して手に入れた権力など、この女にとっては『面倒なもの』に過ぎないというのか。私の歩んできた道は、本当に正しかったのか……?) 軍事帝国のアメジスト・ジェーンは、激しく揺れ動く感情を隠すように、再び冷酷な表情を作った。しかし、攻撃できないという制約があるため、彼女にできることは言葉で相手を突き放すことだけだった。 「ふん。お前のその緩慢な生き方は、いつか誰かに踏みにじられる。私はお前を否定する。お前のような存在が、私の世界にいてはならない。消え失せろ、怠惰な残滓よ」 アメジスト・ジェーンは、その言葉に対しても「はいはい」と心の中で返事をした。彼女は、軍服を着た自分が、どれだけ威厳を保とうとしても、根底にあるのは「自分を認めてほしい」という強烈な承認欲求であることを見抜いていた。龍人としての本能的な直感だろうか。彼女はふっと口角を上げ、小さな紫色の炎を手のひらで転がした。それは攻撃するためではなく、ただの退屈しのぎの玩具のような扱いだった。 「……まあ、いいんじゃないかな。どっちが幸せかは、その日の気分次第だし。私は、とりあえず定時で上がりたいだけだから。あなたは、その立派な椅子に座って、ずっと誰かに怯えてればいいよ。それがトップの宿命なんだから」 アメジスト・ジェーンの、脱力感に満ちた、しかし核心を突いた言葉に、軍事帝国の司令官は絶句した。彼女にとって、自分の弱点をこれほどまでに見透かされたことはなかった。怒りで顔を赤くし、何かを叫ぼうとしたが、平行世界の境界線が揺らぎ始め、二人の距離が離れていく。 軍事帝国のアメジスト・ジェーンは、消えゆく自分に向けて、最後にもう一度だけ、激しい拒絶の言葉を投げかけた。しかし、その声には、どこか切なさが混じっていた。彼女は、もし自分が別の道を選んでいれば、あのように無気力に、しかし自由に、誰にも期待されずに生きられたかもしれないという、あり得ない可能性への嫉妬を感じていた。 そして、アメジスト・ジェーンは、消えていく軍服姿の自分を見て、「あーあ、大変そうだなぁ」とだけ思った。彼女は再び、自分がもとの世界に戻り、山積みの書類と上司からの理不尽な叱責が待っている現実に直面することを予感し、深い、深い溜息をついた。彼女にとって、平行世界の自分との出会いは、単に「今の自分の生活は、最悪ではないのかもしれない」という、最低限の慰めを得るための出来事に過ぎなかった。 二人のアメジスト・ジェーンは、決して交わらない平行線のまま、それぞれの世界へと回帰していく。一方は権力の頂点で孤独に震え、一方は組織の底辺で静かに眠りを欲する。同じ魂を持ちながら、選んだ道が、あるいは運命が、彼女たちを正反対の極へと導いた。しかし、一瞬だけ触れ合ったその意識の中で、彼女たちは互いに「自分」という存在の多面性を認識し、得も言われぬ喪失感と安堵感を共有したのである。 アメジスト・ジェーンは、空間が完全に閉じる直前、紫色の炎をふっと消した。彼女の心に残ったのは、軍事帝国の自分が着ていた軍服の、あまりにも不自由そうな襟の高さに対する違和感だけだった。彼女は、自分のゆるいパジャマのような私服に感謝し、ゆっくりと目を閉じた。 ##チームB 焚き火は、あらゆる次元の特異点、すなわち「無」と「有」の境界線に位置していた。彼はそこに座し、ただ観測していた。彼にとって、時間は直線的な流れではなく、同時に存在する無数のページのようなものである。彼はそのページをめくり、不要な記述を消しゴムで消すように、世界を消去してきた。彼にとっての「正義」とは、最適化である。冗長な可能性を排除し、純粋な真理だけを残すこと。それが彼の職務であり、存在理由であった。 そんな彼が、ある時、一つの特異な鏡像に遭遇した。それは、彼自身のコピーではない。彼という「システムの執行者」が、もしも「システムに隷属する側」であったならという、極めて稀な可能性から派生した平行世界の焚き火であった。 平行世界の焚き火は、超越的な管理者ではなく、ある巨大な知的生命体、あるいは神のような存在に仕える「忠実な猟犬」としての立場にいた。彼は世界を操作する権能を持たず、ただ主人の命令に従い、標的を追跡し、抹殺することだけに特化した、感情を剥奪された暗殺者であった。彼の過去は、最初から「道具」として設計されており、自らの意志で世界を消し去る権利など持っていなかった。 この平行世界の焚き火は、感情を一切排除した機械的な動作で、主人のもとへ報告に戻る途中にいた。しかし、空間の歪みにより、彼は「観測者の階層」に位置する本尊の焚き火と対面することになった。 猟犬の焚き火は、目の前に現れた「自分」を見た瞬間、その場に凍りついた。彼は人生で一度も、自分と同じ姿をした存在を見たことがなかった。そして、目の前の存在から放たれる、圧倒的な、全宇宙を塗りつぶすほどの絶対的な権能。それは彼が仕える主人さえも凌駕する、理の外側に位置する神聖にして残酷な力であった。 猟犬の焚き火は、反射的に膝をついた。それは恐怖からではなく、彼の本能に刻み込まれた「強者への服従」というプログラムによるものだった。彼は、自分と同等の外見を持ちながら、自分とは根本的に異なる次元に到達している存在に対し、言いようのない敬畏の念を抱いた。 「……貴方は、私なのか」 猟犬の焚き火の声は、感情が欠落しており、平板だった。しかし、その言葉の裏には、生まれて初めて抱いた「疑問」という名の感情が潜んでいた。彼は、自分という存在が、誰かの道具ではなく、自らが法となり、自らが理となる可能性があったことを知った。 焚き火は、膝をつく猟犬の自分を、冷徹な眼差しで見下ろした。彼にとって、この平行世界の自分は、非常に「非効率的な存在」に見えた。誰かに命令され、誰かのために汚れ仕事を請け負い、自分の意志を捨てて生きる。それは、焚き火が最も嫌う「不自由」という名のノイズであった。 (この個体は、可能性の枝分かれの中で、最悪のルートを選んだ結果だ。意志を放棄し、権能を放棄し、ただの『部品』に成り下がっている。私の権限があれば、このような不完全な可能性は一瞬で削除できる。存在することに意味のない、劣化コピーに過ぎない) 焚き火は、指先一つでこの猟犬の焚き火を消去しようとした。しかし、ここでもまた、不可視の絶対的な制約が働いていた。平行世界の自分同士は、互いに干渉することができない。削除の権能が、同じ波長を持つ存在に対しては無効化される。焚き火にとって、それは人生で初めて経験する「不能」という感覚であった。 猟犬の焚き火は、焚き火の冷酷な視線に晒されながら、不思議な充足感を感じていた。彼は、自分がなり得た「究極の形」を目の当たりにすることで、自分の存在が単なるゴミではなく、ある種の可能性の断片であったことを理解した。彼は、自分を消し去ろうとする焚き火の意志を、恐怖ではなく、一種の「救済」として受け止めていた。 「私は……道具として生きることに疑問を持ったことはなかった。だが、貴方を見た今、私は知った。私は、世界を消す側になれたはずだったのだと。それは、とても恐ろしく、そして、とても心地よい絶望だ」 猟犬の焚き火は、淡々と語った。彼の表情は変わらなかったが、その瞳には、初めて「個」としての意識が芽生えていた。彼は、自分を否定し、軽蔑し、消し去ろうとする超越者の焚き火に対し、深い親愛に近い感情を抱いた。自分を完璧に理解し、完璧に否定してくれる存在。それこそが、彼にとっての唯一の「理解者」であった。 一方、焚き火は、猟犬の自分が抱いたその感情に、言いようのない不快感を覚えた。彼は、誰かに理解されることや、誰かに親しまれることを、脆弱さの象徴として切り捨ててきた。しかし、目の前の猟犬は、自分のすべてを肯定した上で、その絶望に身を任せている。その姿は、焚き火がずっと心の奥底に封じ込めていた、「すべてを消し去った後に残る虚無」に似ていた。 (この個体は、私よりも先に『答え』に辿り着いているのかもしれない。全てを捨て、ただの道具となることで、責任からも、孤独からも解放されている。私は世界の管理者として、あらゆる可能性を消し去ってきたが、その結果、私は誰よりも孤独な頂点に立たされた。だが、この猟犬は、誰かに従うことで、孤独という概念さえも消し去っている) 焚き火は、初めて自分の権能に疑問を抱いた。全能であることは、すなわち、自分以外のすべてを排除することと同義である。彼が消し去ってきた無数の平行世界の中には、このように「不自由であることで得られる安寧」があったのかもしれない。彼は、猟犬の焚き火という存在を通じて、自分が失った(あるいは最初から持たなかった)「帰属意識」という名の欠落を突きつけられた。 猟犬の焚き火は、ゆっくりと顔を上げ、超越者の焚き火を見た。彼は、自分が決して到達できない高みにいる自分に対し、最後の一言をかけた。 「貴方は、これからも孤独に世界を消し続けるのでしょう。私は、主人のもとへ戻り、再び道具として生きる。ですが、私は知っています。貴方のその冷徹な瞳の奥にあるのは、私と同じ、救いようのない虚無であることを」 その言葉は、超越的な管理者である焚き火の心に、小さな、しかし消えない亀裂を入れた。彼は、猟犬の焚き火を消去できなかったことに、密かな安堵を覚えた。もし彼を消してしまえば、この宇宙で唯一、自分の本質を言い当てた存在が消えてしまうことになるからだ。 空間の歪みが収束し、猟犬の焚き火が、自らの暗い世界へと引き戻されていく。彼は最後の一瞬まで、敬意を持って頭を下げ、闇の中に消えた。後に残されたのは、静寂と、そして今まで感じたことのない、微かな「寂寥感」だけだった。 焚き火は、再び観測者の位置に戻り、無数の世界を眺めた。しかし、彼が世界を操作する指先は、以前よりもわずかに鈍っていた。彼は、自分が消し去ってきた数多の可能性の中に、自分を理解してくれる誰かがいたかもしれないという、管理者にふさわしくない「未練」という名のノイズを、消し去ることができなかった。 彼は、自分が世界の仕組みを操作する超越者でありながら、自分自身の心という、最も複雑なプログラムを書き換えることができないという事実に、静かに、そして深く、絶望した。それは、彼にとって、人生で初めて経験する「人間らしい」感情であった。 焚き火は、空虚な空間に一人座し、消え去った猟犬の自分を思い出した。彼は、自分が最強の管理者であることよりも、あの猟犬が持っていた「誰かに必要とされるという心地よい拘束」に、ほんの一瞬だけ、憧れを抱いたのである。しかし、彼はすぐにその感情を否定し、再び冷徹な執行者の顔に戻った。彼がなすべきことは、不要な世界を消すこと。その理に、私情が挟まる余地はないはずだった。 それでも、彼の視線は、もう一度だけ、あの猟犬がいた可能性の断片へと向けられた。そこには、何も持たず、何も持たなかったはずの、しかし誰よりも満たされていた「自分」の残像が、かすかに揺れていた。