##チームA 場虎亜県の薄暗い路地裏。湿ったコンクリートの匂いと、どこからか漂う生ゴミの悪臭が混じり合う閉塞的な空間に、幸代は立っていた。白いTシャツに地味なズボンという、どこにでもいる一般人の装いだ。彼女の表情には、日常的に抱えているであろう深い憂鬱が張り付いており、ため息さえも重い。幸代はこの場所に来た目的すら曖昧だったが、ただ一つ確かなのは、この不気味な静寂こそが理不尽であるということだった。 ふと、幸代が視線を向けた先の壁に、奇妙な歪みが生じた。空間が水面のように揺らぎ、そこから一人の女性がゆっくりと姿を現す。その女性は幸代と全く同じ顔をしていた。しかし、纏っている空気は決定的に違っていた。平行世界の幸代は、清潔感のある白衣を身に纏い、胸元には権威ある医療機関のバッジが光っていた。彼女の瞳には憂鬱など微塵もなく、理知的で自信に満ち溢れた光が宿っている。それは、「所属していない組織に所属している」という可能性を具現化した、医師としての幸代だった。 平行世界の幸代は、手元のタブレット端末から視線を上げると、目の前に立つ疲れ切った自分を見て、驚きに目を見開いた。彼女は静かに歩み寄り、診断を下すかのように幸代の顔をじっくりと観察し始めた。 「……信じられない。遺伝子レベルで同一個体であることは明白ね。けれど、あなた、ひどい顔をしているわ。睡眠不足に精神的疲労、そして何より、人生に対する強い諦念を感じる。私の世界では、私は医学の道に進み、多くの命を救うことで自己実現を果たしたわ。あなたは……どうしてそんなに、自分を価値のない人間だと思い込んでいるの?」 平行世界の幸代の声は澄んでおり、迷いがなかった。彼女は幸代の肩にそっと手を置こうとしたが、そこには不可視の壁のような拒絶反応があり、手が届かない。幸代と平行世界の幸代の間には、互いに干渉し合うことができない絶対的な境界線が存在していた。攻撃を仕掛けようとしても、あるいは抱きしめようとしても、物理的な接触は一切不可能だった。 幸代は、目の前に立つ「成功した自分」を眺め、心の底から深い拒絶感と、それに相反する微かな憧れを感じた。彼女の感想は単純だった。「眩しすぎて、吐き気がする」。自分と同じ顔をしていながら、社会的な地位を持ち、自信に満ち溢れ、誰からも必要とされているであろうその姿。それは幸代にとって、最も理不尽な格差に感じられた。同時に、そんな自分を肯定できる精神力があることに、言いようのない疎外感を覚えた。幸代は心の中で呟いた。(なんであっちの私はそんなにキラキラしてるんだよ。理不尽すぎるだろ。こんなの、設定ミスじゃないのか?) 一方、平行世界の幸代は、目の前の憂鬱な自分を見て、深い同情と衝撃を受けていた。彼女の感想は、医師としての分析と人間としての悲しみだった。「なんて残酷な世界に私は投げ出されていた可能性があるのだろう」。自分と瓜二つの女性が、これほどまでに心身を摩耗させ、社会の隅っこでため息をついて生きている。その事実は、彼女が築き上げてきた幸福な人生の裏側に、常にこのような絶望が張り付いていた可能性を示唆していた。彼女は、幸代の虚ろな瞳の中に、自分が切り捨ててきた「弱さ」や「迷い」が凝縮されているのを見た気がした。 「いい? あなた。たとえ今のあなたがどうであろうと、あなたはあなたよ。私の世界での私は、あなたのような苦しみを知らないけれど、だからこそ、本当の意味での『救済』を理解できていないのかもしれない。でも、あなたのその疑い深い視線……それはある意味で、真実を見極めるための鋭い武器になるはずよ」 平行世界の幸代は、励ますように微笑んだ。しかし幸代にとって、その微笑みさえもが「持てる者の余裕」にしか見えず、さらに憂鬱を加速させた。幸代は深くため息をつき、肩をすくめた。 「……いいから、早く自分の世界に帰ってよ。眩しいんだよ。それに、そんな風に前向きに生きられるなんて、私の人生のルールからしたら完全に理不尽だから」 二人の間に会話は続いたが、決して交わることはなかった。物理的な接触が不可能なため、平行世界の幸代が差し出した精神的な救いの手は、幸代に届くことはない。幸代はただ、自分の人生の不自由さを再確認し、医師である自分が消えていくまで、不機嫌そうに路地裏の壁に寄りかかっていた。平行世界の幸代が空間の裂け目に吸い込まれて消えた後、路地裏には再び、重苦しい静寂と生ゴミの匂いだけが残された。幸代は空を見上げ、やはり理不尽だと呟き、ゆっくりと歩き出した。 -------------------------------------------------------------------------------- ##チームB 場虎亜県の路地裏。チームAがいた場所とは異なる、さらに深く、光の届かない袋小路に、クリムゾンはいた。銀の鎧はもはやかつての輝きを失い、至る所がひしゃげ、黒ずんだ血と泥にまみれている。赤い髪は乱れ、呼吸は浅く、激しい喘ぎが静寂を切り裂いていた。彼は致命的な重傷を負っており、その身体は今にも崩れ落ちそうだった。手にした剣は刃毀れし、もはや武器としての機能を果たしていない。しかし、その瞳だけは、折れることのない厳格な意志に満ちていた。 彼は「不滅」の肉体を持っていた。消滅させられようと、時空ごと断絶されようと、何度でも立ち上がる。だが、その不滅性は彼に永劫の苦しみを与えた。死ぬことさえ許されず、ただ民を守るという決意だけを杖にして、彼は絶望的な戦いを続けてきたのだ。意識が朦朧とする中、クリムゾンの前に、再び空間の揺らぎが現れた。 そこから現れたのは、もう一人のクリムゾンだった。しかし、その姿は今目の前にいるボロボロの彼とは対極にあった。平行世界のクリムゾンは、汚れ一つない純白の外套を纏い、腰には装飾の凝った美しい剣を帯びていた。鎧は黄金に輝き、その表情には厳格さはありながらも、深い充足感と穏やかさが同居していた。彼は、「現在よりも幸福になっている」という、戦いの果てに平和を手に入れた世界の騎士だった。 平行世界のクリムゾンは、血に塗れ、今にも絶命しそうな自分自身の姿を見て、絶句した。彼はゆっくりと剣を外し、地面に置くと、深い悲しみを湛えた目で、ボロボロのクリムゾンを見つめた。 「……これが、あり得た私の姿か。あるいは、私が逃げ出した先の地獄か。貴公は、どれほどの時間を、どれほどの痛みを耐え抜いてきた。その鎧の傷の一つ一つが、貴公が守り抜こうとした誰かの命の証なのだろう。だが、あまりにも酷すぎる。神は、我々にこれほどの試練を与える必要があったのか」 平行世界のクリムゾンは、膝をつき、ボロボロの自分に寄り添おうとした。しかし、そこには透明な壁が存在し、彼の手は空を切った。互いに干渉することができない絶対的な拒絶。触れることも、傷を癒やすことも、肩を貸すこともできない。二人の不滅の騎士は、ただ視線だけで対話を交わすしかなかった。 ボロボロのクリムゾンは、光り輝く自分を見て、激しい困惑と、そして深い安堵を感じた。彼の感想は、「救いがあるのだな」という一点に集約されていた。自分は永遠に終わらない戦いの中にあり、守るべき民が全て消え去った後も、不滅の肉体ゆえに戦い続けなければならない運命にあると思っていた。しかし、目の前の自分は、戦いの終わりを迎え、幸福の中で微笑んでいる。その事実は、今の彼にとって何よりも強い精神的な支えとなった。彼は、自分の選択が間違っていなかったこと、そして、どこかの世界では自分たちが報われたことを知り、かすかに口角を上げた。 一方、平行世界のクリムゾンは、絶望的な状況にありながらも、気高く立ち続けようとする自分を見て、激しい悔恨と尊敬の念に駆られていた。彼の感想は、「私こそが、騎士として不適格である」という自己批判だった。自分は平和な世界に身を置き、幸福を享受している。それは素晴らしいことだが、目の前の自分のような、極限の状態においてもなお「真なる決意」を失わず、民を守ろうとする強固な意志を持ち続けている姿に、彼は本当の騎士の在り方を見た。彼は、自分に欠けているのは、この絶望に耐えうる強さではないかと考えた。 「貴公よ。私は貴公に、私の幸福を譲りたい。この穏やかな日々を、その血に塗れた身体で味わってほしい。だが、私にできることは、ただ祈ることだけか。不滅であるということは、時に呪いとなる。だが、貴公のその意志だけは、決して呪いにはならなかった。貴公は、私の誇りだ」 平行世界のクリムゾンは、厳かに敬礼した。それは、同じ魂を持つ者への、最高級の敬意であった。ボロボロのクリムゾンは、その敬礼に応えようと、震える腕をゆっくりと上げた。鎧の継ぎ目から血が滴り、視界が赤く染まる。それでも、彼は笑っていた。幸福な自分に出会ったことで、彼は自分が背負っている十字架の意味を再確認し、再び立ち上がる力を得たのだ。 「……案ずるな。私は、まだ倒れぬ。守るべきものが、この世界に一つでも残っている限り、私は不滅である。貴公が幸福であるならば、それで十分だ。私の戦いは、私が終わらせる」 ボロボロのクリムゾンの声は掠れていたが、そこには不滅の肉体をも凌駕する、不滅の精神が宿っていた。平行世界のクリムゾンは、その言葉に深く頷き、静かに空間の裂け目へと消えていった。彼が消えた後、路地裏に残されたのは、再び深い闇と、血の匂いだけだった。しかし、クリムゾンの心には、先ほどまでそこにいた黄金の輝きが焼き付いていた。彼は刃毀れした剣を杖代わりに、ゆっくりと、だが確実に、次の戦いへと向かって歩き出した。その背中は、もはや絶望に染まってはいなかった。