空は、不自然なほどに澄み渡っていた。日本のどこかにある、地図に載っていない静謐な村。そこには古くから「山の神」として崇められる一頭の龍が住んでいた。かつては世界を焼き尽くし、国々を灰に帰した絶望の化身。しかし、長い年月を経て、その龍は慈悲を知り、今は人々に恵みと平穏をもたらす守護神となっていた。彼の名はシリュウ。金色の隻眼と、風に舞う鮮やかな緑色の鬣を持つ、威厳に満ちた古龍である。 一方、その村の境界線に、場違いな格好をした少年が一人立っていた。東方仗助。杜王町から遠く離れたこの地に、ある目的で訪れた高校一年生である。リーゼントに身を包み、学ランを肩にかけた彼は、持ち前の好奇心と、正義感から、この地に眠るという「不思議な力」の噂に惹かれてやってきた。彼に同行していた知人が、不運にも村の禁足地に足を踏み入れ、正体不明の病に倒れた。それを治す手がかりが、この山の神にしかないのではないか。仗助はそう考え、険しい山道を登っていた。 山頂に辿り着いた仗助の前に現れたのは、人間へと姿を変えた一人の男だった。長い緑色の髪をなびかせ、右目を閉じた穏やかな表情の男。彼こそがシリュウであった。 「若き旅人よ。ここへ何の用だ。この地は静寂を愛する場所。争いを持ち込むことは許さぬぞ」 シリュウの声は深く、地鳴りのように響いたが、そこには不思議と温かさがあった。仗助は少し緊張しながらも、持ち前の明るさで応えた。 「あー、いきなりすみません! 俺は東方仗助。知り合いがここで倒れちまって。あんたがここの神様だって聞いたんで、お願いしに来たんですよ。治せる力、持ってるんでしょ?」 シリュウはふっと微笑んだ。彼は今、人々に恵みを与える存在として生きている。困っている人間を助けることは、彼にとって至上の喜びであった。しかし、シリュウには一つの「試練」という習慣があった。力を求める者が、それに相応しい精神を持っているかを確認するため、軽い手合わせを求めるのだ。 「よかろう。お前の正義感と、その覚悟。私に見せてみせよ。もし私を満足させることができれば、喜んで力を貸そう」 仗助は肩をすくめた。「まーた面倒なことになったな。でも、断って時間をかけるより、さっさと済ませた方がいいか。いいですよ、相手してやるぜ!」 その瞬間、シリュウの姿が掻き消えた。あまりにも速い。仗助が反応するよりも早く、シリュウは少年の目の前に現れ、軽く肩を叩いた。だが、その「軽い」衝撃は、あり得ないほどの質量を持って仗助を後方へ吹き飛ばした。 「うわあああっ!!」 地面を転がり、岩壁に激突した仗助。しかし、彼はすぐに跳ね起きた。彼の背後から、ピンクと白の配色をした屈強な人型生命体――スタンド「クレイジーダイヤモンド」が姿を現す。 「いきなり飛ばしすぎだろ! 冗談じゃねーぞ!」 仗助は足元の地面に手を触れた。クレイジーダイヤモンドの能力が発動する。バラバラに砕けた地面の破片が、超高速で元の位置へと「修復」される。その反動を利用し、仗助は弾丸のような速度でシリュウへと肉薄した。 「速いな! だが、甘い!」 シリュウは人型のままでも圧倒的な身体能力を誇っていた。彼は空中で身を翻すと、鋭い爪を振るった。これが彼のスキル【爪拳弾幕】である。斬撃のような鋭い風圧と、岩をも砕く打撃が同時に降り注ぐ。空気が切り裂かれ、真空の刃が仗助を襲う。 「ドラララララララララ!!」 クレイジーダイヤモンドが猛烈な拳を振るい、迫りくる斬撃をすべて叩き落とす。パワーA、スピードA。スタンドの性能は最高峰であり、シリュウの攻撃を真正面から受け止めていた。火花が飛び散り、衝撃波で周囲の木々がなぎ倒される。 「ほう、見えない腕を持っているのか。面白い能力だ。だが、身体能力の差は歴然としているぞ」 シリュウは不敵に笑い、今度は完全に龍の姿へと戻った。巨大な緑色の鬣が天を舞い、金色の隻眼が鋭く光る。その威圧感だけで、周囲の空気が重く沈み込んだ。もはやそれは「人」ではなく、天災そのものだった。 「デカいな……! だが、デカいだけじゃあ、俺の拳は届かねーぜ!」 仗助は不敵に笑い返した。彼は自分の指先を軽く噛み切り、一滴の血を空中に飛ばした。そして、わざとシリュウの鱗に触れさせ、自分の血を付着させる。シリュウは気づかなかった。それが、仗助の計算だったことを。 「これで準備完了だ。クレイジーダイヤモンド!」 仗助は自分の服に付いた血に向かって、スタンドに「修復」を命じた。しかし、それは単なる修復ではない。付着した血を媒介にし、瞬時に自分の位置をシリュウの至近距離まで「戻す」という超高速移動。視認不可能な速度で仗助は龍の顎の下まで潜り込んだ。 「ここだ!!」 クレイジーダイヤモンドの全力の正拳突きが、シリュウの顎を跳ね上げた。凄まじい衝撃音が山々に響き渡る。シリュウの巨大な体が宙に浮き、地面に激突した。 「ガハッ……! 見事だ。盲点をついたな」 シリュウは苦笑しながら立ち上がった。しかし、彼はまだ本気を出してはいなかった。彼は懐から、キラキラと輝く金色の小さな菓子を取り出した。そして、それを口に放り込むようにして、仗助の目の前に投げつけた。 「これを食え。休息の時間だ」 「あ? 何だこれ、飴か何かか?」 疑いつつも、激しい運動で喉が渇いていた仗助は、ついその【金菓子】を口にしてしまった。その瞬間、口いっぱいに未知の快楽が広がった。人生で一度も味わったことのない、究極の甘みと幸福感。脳が、魂が、快楽で満たされる。 「……あー。なんか、いい気分だぁ。空が……青いなぁ。俺、何してたんだっけ?」 完全に意識が朦朧とした。スキルの効果――【金菓子】を食った者は、あまりの美味さに一時的に知能が低下し、戦意を喪失する。仗助はへらへらと笑いながら、地面に座り込んでしまった。クレイジーダイヤモンドまでもが、主人の影響を受けてぽかんとした表情で空を眺めている。 「ふふふ、これで終わりだ。お前の敗北だ、若き旅人よ」 シリュウはゆっくりと近づいた。しかし、そこで不測の事態が起こる。シリュウが歩を進めた瞬間、地面に転がっていた鋭い岩の破片が、彼の足元を深く切り裂いたのだ。単なる不運だった。しかし、その切り傷から流れた血が、ある「スイッチ」を入れた。 シリュウの右目。これまでずっと閉じられていた、もう一つの眼が、カチリと開いた。 その瞬間、空気が一変した。穏やかだった神の気配が消え、代わりに現れたのは、世界を憎み、すべてを滅ぼそうとする「かつての冷酷な怪物」の殺気であった。 【死の目覚め】。 重傷を負った際、あるいは強い刺激を受けた際に発動する、禁忌の力。シリュウの精神は、慈悲深い神から、冷酷非情な古龍へと退行した。彼の瞳は血のように赤く染まり、その口からは破壊の炎が漏れ出している。 「……消えろ。すべて、塵に帰れ」 声から温度が消えた。シリュウはもはや、目の前の少年を「試練の相手」とは思っていない。ただの「排除すべきゴミ」として認識した。彼は大きく口を開け、壊滅的なブレスを放とうとした。 その時である。 「おい……今、なんて言った?」 低く、地を這うような声。金菓子の効果でバカになっていたはずの仗助の表情が、一変していた。彼はまだ、ぼーっとした顔をしていたが、その目は据わっていた。シリュウが放った殺気の余波で、仗助の自慢のリーゼントが、激しい風圧によって少しだけ潰れていた。 シリュウは冷酷な瞳で、無意識にこう呟いた。 「ふん。そんな不格好な髪型をしている奴に、生きる価値はないな」 静寂が訪れた。周囲の鳥たちが一斉に飛び立ち、山全体が震え出した。それは地震ではない。一人の少年の怒りが、物理的な圧力となって世界を押し潰そうとしている音だった。 「……今、俺の髪のことを……なんて言ったぁぁぁぁ!!!」 絶叫と共に、金菓子の効果など完全に吹き飛んだ。いや、怒りが快楽を上回った。仗助の精神状態が極限まで高まり、スタンド「クレイジーダイヤモンド」の性能が爆発的に上昇する。オーラが黄金色に輝き、その拳の速度はもはや光に等しい。 「てめぇだけは……絶対に許さねえ!!! ボコボコにしてやる!!!」 【死の目覚め】による狂気の龍か。髪をバカにされた絶頂の怒りを持つ高校生か。 シリュウが破壊のブレスを放とうとした瞬間、仗助は地面を蹴った。もはや修復能力を使うまでもない。純粋な身体能力のブーストにより、彼は空間を跳ねた。 「ドララララララララララララララララララララララ!!!」 猛烈な拳の嵐が、シリュウの顔面に叩き込まれる。一撃一撃が山を砕くほどの威力を持って、冷酷な龍を襲った。シリュウは【竜の蹂躙】を以て対抗しようとしたが、今の仗助は「理屈」を超えていた。右目の狂気がもたらす力さえも、怒りの拳が粉砕していく。 「がっ……!? なんだ、このパワーは……! 私の冷酷さを上回るほどの、純粋な怒りだと!?」 シリュウは驚愕した。かつて数多の国を滅ぼした自分ですら、これほどの「破壊衝動」に直面したのは初めてだった。それは悪意ではなく、あまりにも単純で、あまりにも強固な「こだわり」から来る怒りだった。 仗助は止まらない。右から左へ、上から下へ。クレイジーダイヤモンドの拳が、シリュウの鱗を、プライドを、そしてその傲慢な意識を、文字通り「叩き直して」いく。 「この、髪型をバカにする野郎がぁぁぁ!!」 最後の一撃。クレイジーダイヤモンドが、空中でシリュウの喉元に強烈なアッパーカットを叩き込んだ。その衝撃で、シリュウの巨大な体は天空高くへと打ち上げられ、そのまま真っ逆さまに地表へと墜落した。 ドォォォォォォォン!! 巨大なクレーターが出来上がり、土煙が舞う。静寂が戻ってきた。 数分後。土煙の中から、ボロボロになった龍が這い出してきた。右目は閉じられ、元の穏やかな、しかし完敗した表情のシリュウに戻っていた。彼は激しく咳き込みながら、空を仰いだ。 「……完敗だ。完敗だよ。まさか、髪型のことでここまで追い詰められるとはな……」 仗助は、乱れたリーゼントを丁寧に手で整えながら、ふぅとため息をついた。 「ったく……。死ぬかと思ったぜ。あんた、後でちゃんと謝れよな」 シリュウは力なく笑い、人間へと姿を変えた。彼は心から感銘を受けていた。自分の傲慢さを砕き、正義感(と、激しい怒り)で立ち向かってきたこの少年に。 「ああ、約束しよう。そして、お前の友人のことも、責任を持って治そう。お前のその……『強いこだわり』こそが、本当の意味での強さだということ、よく分かったよ」 こうして、世界を滅ぼしかけた古龍と、杜王町の高校生の間には、奇妙な友情が芽生えた。シリュウは約束通り、仗助の知人を完璧に治療し、彼を村の出口まで送った。 別れ際、シリュウはふと口にした。 「ところで仗助。その髪型だが、実は少しだけ個性的で格好いいと思って……」 「おう! 分かればいいんだよ!」 満足げに笑う仗助。だが、もしここでシリュウがもう一度だけ「不格好」という言葉を使っていたら、この山は地図から完全に消えていたことだろう。 空には相変わらず、澄み渡るような青い色が広がっていた。一頭の龍と一人の少年。種族も、時代も、生き方も異なる二人が、互いを認め合った短い、しかし激しい物語。それは後日、村の伝承に「髪を愛する勇者と、彼に調教された龍」という、少しおかしな形で書き残されることになる。 (完)