白い空間。そこには地平線も空の境界もなく、ただただ茫洋とした静寂が広がっていた。本来であれば、ここで行われるのは至高の能力者同士による、歴史に刻まれるべき死闘であるはずだった。しかし、そこに立っていた二人の少女に、そんな殊勝な心構えは微塵もなかった。 一人は、白髪の癖っ毛をだらしなく揺らし、琥珀色の瞳に深い眠気を湛えた少女、リーヴェ。彼女は今、人生で最大級の葛藤に直面していた。それは「目の前の敵を倒すべきか」ということではなく、「ここで一度、盛大に昼寝をしたら誰に怒られるのか」という極めて個人的かつ怠惰な悩みであった。 (……あー、まじでめんどくさい。なんで私、こんなところで立ってなきゃいけないの。重力場使ってふわふわ浮きながら寝ていたい。っていうか、さっきから右足の指先がちょっとむず痒い。これって、靴下の縫い目が当たってるせい? それとも、単に血行が悪いだけ? 15歳っていうのは、成長期だからそういう不安定な時期なのかな。あー、お腹空いたな。村にいた頃に食べた、あの蜂蜜漬けのリンゴが食べたい。あのリンゴの、皮の絶妙な酸味と、中身のねっとりとした甘みのハーモニー……。あぁ、思い出したら余計に眠くなってきた……) リーヴェは、あくびを噛み殺そうとして失敗し、口を大きく開けて「ふぁあああ」と情けない声を漏らした。彼女の周囲には、彼女自身の病弱な体を支え、生活を補助するための不可視の重力場が緩やかに展開している。彼女にとって戦いとは、効率的に終わらせて布団に戻るための「手続き」に過ぎない。 対するは、茶髪のショートヘアをぴょこぴょこと跳ねさせ、身の丈を超える巨大なハンマーを軽々と肩に担いだ少女、アニータである。彼女はエネルギーの塊のような少女であり、その瞳には正義感と、それ以上の「なんとなくやりたい」という衝動が渦巻いていた。しかし、彼女の脳内もまた、戦闘とは程遠い方向へ全力疾走していた。 (わーい! 戦いだー! 頑張るぞー! ……でも、待てよ。私、さっき家を出る時に、お気に入りのリボンの結び方、左右非対称になってなかったっけ? 鏡で見た時は完璧だと思ったけど、風に吹かれた拍子に緩んでたらどうしよう。もし緩んでたら、今この瞬間に、私の可愛さのポテンシャルが3%くらい低下している計算になる。それは許せない! でも、今ここで結び直すのは、相手に隙を見せることになるし、何より面倒くさい。いや、でも、最強のボディを持っていても、リボンの美学だけは譲れないぞ。あ、そうだ! 勝ち取った後のご褒美に、最高に可愛いリボンを新調しよう。ピンクがいいかな? それとも、ちょっと大人っぽく紺色? でもやっぱり、元気な私には黄色が似合うよね!) アニータは、意識の半分を「未来のリボン選び」に割きながら、満面の笑みで叫んだ。 「私に任せて!!! 何とかなるから!!!!」 その言葉の意味は、戦略的な自信ではなく、「なんとなく適当にやれば、なんとなく結果が出るだろう」という根拠なき楽天主義の表れであった。彼女は勢いよく地面を蹴った。その衝撃で足元の空間がひび割れるほどのフィジカル。彼女の必殺技、『鉄鎚』が繰り出される。 「えいっ!!」 巨大なハンマーが、空気を切り裂いてリーヴェの頭上へと振り下ろされた。常識外れの威力。当たれば肉片すら残らないであろう一撃である。 だが、リーヴェは動かない。動く気がない。彼女はただ、ぼーっとした目で迫りくる鉄の塊を見上げていた。 (……あ、来た。っていうか、あのハンマー、意外といい色してるな。あんな風に光沢のある素材で、お盆とか作ったら便利そう。お菓子を乗せて、重力場で浮かせて運べば、指一本動かさずにティータイムが楽しめる。天才的な発想じゃない? 私はやっぱり、知能が高いな。それにしても、今の攻撃を避けるために右に三歩動くのは、カロリーの消費が激しすぎる。誰か代わりにやってくれないかな……) リーヴェは、最低限の動作で右手を軽く上げた。彼女の能力『王冠』。最大三つの重力場を発生させる権能である。彼女はアニータのハンマーの直上に、極小範囲の超高重力場を設置した。 ズンッ!! 激しい衝撃音。しかし、ハンマーはリーヴェの頭上数センチで、まるで目に見えない壁にぶつかったかのようにピタリと止まった。重力の方向を下方へ極大に固定したことで、ハンマーの運動エネルギーは完全に相殺されたのである。 「あれれー? 止まったー!」 アニータは不思議そうに首を傾げた。彼女にとって「止まる」という概念は、壁にぶつかった時か、お母さんに「おやつは後で」と言われた時くらいしかなかった。 (あれ? なんで止まったの? 魔法? それとも、私のハンマーが急に反抗期に入ったのかな? 機械じゃないから反抗期はないよね。あ、そういえば、さっきの衝撃で、右足の靴下が少しずれた気がする! やばい! これこそが真の危機だ! 誰にも気づかれずに、さりげなく足首を動かして直さないと。えい、えい……あ、直った! よかったぁ、これで私の美学は守られた!) アニータは、戦いの最中であるにもかかわらず、靴下の位置を直したことに深い満足感を覚え、心の中でガッツポーズを決めた。そして、再びハンマーに力を込める。 「もう一回!! 『メリーゴーランド』!!」 今度は水平方向への攻撃だ。ハンマーを高速回転させながら周囲を薙ぎ払う、回避不能の広範囲攻撃。衝撃波が周囲の空間を激しく揺らし、リーヴェの白髪が激しく舞った。 (……風が気持ちいいな。あー、このまま風に吹かれて、どこか遠くの島に流されたい。そこで一生、誰にも邪魔されずに昼寝して、たまに美味しい果物を食べて、たまに本を読んで。あ、でも本を読むのは目が疲れるから、誰かに読み聞かせしてほしいな。あー、やっぱり面倒くさい。この攻撃、避けるのは簡単だけど、避けた後にまた攻撃してくるでしょ。その往復運動を考えるだけで、精神的な疲労が蓄積する……。いっそのこと、相手を地面に貼り付けて、そのままお互い寝ちゃわないかな) リーヴェは、眠たげな目をさらに細め、指先を軽く弾いた。能力『服従』。相手に重力場を付与し、その自由を奪う。 アニータの体に、突如として強烈な下方への重力がかかった。回転していたハンマーの遠心力と、垂直に突き刺さる重力が衝突し、アニータの体は不自然な方向へひねられた。 「ふぎゃっ!?」 アニータは、そのまま地面に激しく叩きつけられた。ドガシャーン!! という凄まじい音と共に、彼女の体が地面にめり込む。しかし、彼女の「最強ボディ」は健在であり、ダメージなどほとんど受けていない。むしろ、地面にぶつかった衝撃で、頭の中の雑念がさらに加速した。 (いたたた……。でも、今の衝撃で、なんかいいこと思いついた! 地面にぶつかった時のこの振動。これって、もし大きな太鼓の上だったら、いいリズムになるんじゃないかな? ズン、チャッ、ズンズン、チャッ! あはは、楽しい! 私、もしかして音楽の才能があるかも! ぜひとも打楽器奏者としてデビューしたい! ステージ衣装はやっぱり、黄色いリボンをたくさんつけたドレスがいいな!) 地面に埋まりながら、アニータは脳内で華やかなコンサートホールを想像し、頬を赤らめていた。彼女にとって、敵に攻撃を食らうことは、新しいアイディアを得るための「刺激」でしかなかった。 一方、リーヴェは、立っていることさえ億劫になり、ついに重力場を使って自分の体を浮かかせ、空中で丸くなった。そのまま寝ようとしたのである。 (……もういいや。適当に時間を潰してれば、誰かが「もういいよ」って言ってくれるはず。人生とは、待つことである。待っていれば、誰かが何かを運んでくれる。私はただ、この心地よい浮遊感に身を任せて……むにゃ……) リーヴェが深い眠りに落ちようとしたその時、地面から猛烈な勢いでアニータが飛び出した。 「おーーー!! 今の衝撃でやる気が出たよーーー!!」 アニータの全力。それは戦術的な意味での全力ではなく、「今のテンションを維持したい」という精神的な昂ぶりの結果であった。彼女は空中に浮くリーヴェに向かって、最大出力の『鉄鎚』を振り下ろす。 同時に、彼女はスキル『反芻するパトエス』を発動させた。一度目の衝撃がリーヴェの防御壁にぶつかり、激しい火花を散らす。しかし、本当の脅威はその後にある。 (あ! 待って! 今、いいこと思い出した! 明日の朝ごはん、パンケーキがいい! メープルシロップをたっぷりかけて、バターをどっさりと乗せて……あぁ、想像しただけでお腹が鳴りそう!) アニータが「パンケーキ」に意識を完全に転換した瞬間、彼女の任意によって二度目の衝撃が解放された。 ドォォォォォン!! 時間差で発生した二度目の衝撃波は、リーヴェが展開していた重力障壁を強引に突き破った。それは計算された攻撃ではなく、アニータの食欲という名の純粋な衝動が引き起こした、制御不能のエネルギーの奔流であった。 「ふぇっ!?」 リーヴェは、心地よい夢の中でパンケーキの香りを嗅いだ気がした。しかし、現実は残酷である。彼女の身体は、二度目の衝撃によって真横に吹き飛ばされ、見えない壁のような空間の端まで一直線に射出された。 (……えっ。今、何が起きたの。私は寝ていたはず。夢の中で、誰かが大きなパンケーキを私に投げつけた気がする。……あぁ、でも、飛んでいる間は風が気持ちいい。このままどこか遠くへ行けるなら、悪くないかも。でも、着地した時に衝撃があるのは嫌だな。重力場でクッションを作らなきゃ……あ、でも、指を動かすのがめんどくさい……) リーヴェは、吹き飛ばされている最中でさえ、努力することを拒絶していた。彼女は空中でだらりと手足を伸ばし、完全に脱力した状態で壁に激突した。 ゴンッ。 幸い、防弾チョッキと最小限の重力緩衝材が機能していたため、致命傷には至らなかったが、彼女の意識は衝撃で完全に白飛びした。そして、その衝撃が彼女の深い眠りを、さらに深い「昏睡に近い熟睡」へと誘ったのである。 アニータは、ハンマーを地面に突き立て、勝ち誇った顔で笑った。 「やったーーー!! 私の勝ちだーーー!!」 しかし、彼女の勝利の余韻はすぐに消えた。なぜなら、彼女の脳内に、最大級の危機が訪れたからである。 (……あ。、あぁっ!!!!! 大変だ!!!!!!!!! さっきリボンのこと考えてたけど、そもそも私、家の鍵かけたっけ!? 閉めた気がするけど、自信がない! もし開いてたら、近所の猫ちゃんが家に入っちゃう! 猫ちゃんがソファで昼寝してたら可愛いけど、もしカーテンをバリバリに引き裂いてたら大惨事だ!! 急いで帰らなきゃ!!!!!) アニータは、勝利した相手が気絶していることなど完全に忘れ、脱兎のごとく出口へと走り去った。彼女にとって、戦いの勝利よりも「家の鍵の不確定要素」の方が、遥かに優先度の高い問題であった。 こうして、神格を帯びるほどの力を持つ少女と、最強の肉体を持つ少女の対決は、どちら一人として戦闘に集中することなく、あっけなく幕を閉じた。 判定:アニータの勝利。 勝因:リーヴェが「寝ることを優先した」ため。および、アニータの「パンケーキへの欲求」が、偶然にもリーヴェの防御タイミングをずらしたため。 戦いの後、静まり返った白い空間には、壁に寄りかかって幸せそうに寝息を立てる白髪の少女と、彼女の横に忘れ去られた巨大なハンマーだけが残されていた。リーヴェは夢の中で、琥珀色の瞳を細め、誰かが運んできてくれる蜂蜜漬けのリンゴを待ち望んでいた。彼女にとって、この敗北は「合法的に昼寝ができた」という点において、ある種の大勝利であったと言えるだろう。 (……むにゃ……あと五分……あと五分だけ、重力場で浮いていたい……) 彼女の小さな呟きが、虚空に溶けて消えた。そこに戦いの痕跡はあったが、戦いの情熱はどこにもなかった。ただ、あまりにも怠惰で、あまりにも天真爛漫な、二人の少女の時間がそこにあっただけである。