薄暗い、湿った空気。鼻腔を突くのは、古いコンクリートと雨水が混ざり合ったような、不快なカビの匂いだ。冷たい地面の感触が、直接的に皮膚に伝わってくる。いや、皮膚ではない。毛皮だ。 (……ここは、どこだ) 意識が覚醒した瞬間、永常普は言いようのない違和感に襲われた。視界が極端に低く、色彩がどこか乏しい。そして何より、自分の身体が、記憶にある「セーラー服を着た少女」のものではなく、小さく、丸い、四本足の獣に変わっていた。 彼女は、かつて【常識ノ上位超越者】として、世界の理を書き換え、あらゆる常識を比例超越させる存在だった。だが、今の彼女には、指先一つ動かす自由も、固有領域『日常ノ世界』を展開する力もなかった。あるのは、ただ空腹と寒さ、そして喉から漏れる「にゃー」という情けない鳴き声だけだった。 暗い路地裏か、あるいは廃墟の隅か。ジメジメとした絶望的な環境の中で、普はただ、誰かが通りかかるのを待っていた。内向的な彼女にとって、この状況はむしろ心地よい静寂に近いのかもしれないが、生存本能という名の「常識」が、彼女に鳴き声を上げさせる。 「にゃあ……にゃーん」 その声が、静寂を切り裂いて届いた。 地響きのような足音だった。コンクリートが砕ける音と、大気が熱を帯びて震える感覚。路地裏の入り口に、山のような、あるいは巨大な岩塊のような「何か」が現れた。 それは、陸王アースだった。 三百メートルという、都市一つを飲み込まんとする巨躯。岩のような皮膚は、地殻そのものを凝縮したかのような堅牢さを誇り、その眼光は深淵のマグマのように赤く燃えている。本来であれば、そこに立つだけで周囲の物質が熱波に焼かれ、蒸発するはずの絶大な存在。 しかし、その巨大な怪物は、路地の隅で震える小さな、黒い塊を見つけた。 陸王アースは喋らない。ただ、静かにその巨体を屈めた。山が崩れ落ちるような轟音と共に、彼が地面に膝をつくと、路地裏全体が激しく揺れた。 l 普は、死を覚悟した。これほどの熱量と質量を前にして、今の自分に抗う術はない。だが、次に起きたことは、彼女の想像を超えていた。 巨大な、岩のような前肢が、そっと差し出された。 熱い。だが、それは焼き尽くす熱ではなく、凍えそうな身体を包み込む、暖炉のような温もりだった。アースは、驚くほど慎重な動作で、小さな猫――普を、その大きな掌に載せた。 (……拾われた) 普は、呆然としたまま、彼の掌の上で小さく丸まった。 陸王アースは、彼女を大切そうに抱え、自分の住処へと運んでいった。そこで、彼はある「名」を彼女に与えた。言葉ではなく、意思のような、あるいは魂に刻まれる熱のような感覚で、彼は彼女をこう呼んだ。 ――『チャコール』 黒い、炭のような、小さな生き物。 こうして、常識を超越していた少女は、一匹の猫として、世界最強の怪物の飼い猫になることになったのである。 第一章:灼熱の揺り籠と静寂の昼下がり チャコール――もとい、永常普は、自分の新しい生活に早々に慣れ始めていた。 彼、陸王アースの住処は、普通の人間が足を踏み入れれば一瞬で炭化するであろう、溶岩と岩石の聖域だった。地面は常に赤く脈打ち、周囲には絶えず火砕流のような熱風が吹き荒れている。だが、不思議なことに、アースが彼女を置く場所だけは、心地よい温度に保たれていた。 普は、彼が作り出した平坦な岩盤の上に、ふかふかの(彼がどこからか集めてきた、耐熱性の高い奇妙な素材の)クッションに身を沈めていた。 (……静かだ) 猫としての視界は、人間だった頃よりもずっと鋭い。そして、嗅覚も鋭い。アースから漂うのは、焼けた土と、深い大地の香りがする。彼はほとんど動かず、ただそこに座して、瞑想するように目を閉じていることが多い。 その姿は、まるで巨大な山脈がそのまま意思を持って立っているかのようだ。 ある日の午後、普は退屈しのぎに、アースの巨大な足の指の間に潜り込んでみた。岩のような皮膚はごつごつしているが、不思議と安心感がある。彼女がそこで「にゃあ」と短く鳴くと、アースの巨大な瞼がゆっくりと開いた。 彼は喋らない。だが、その瞳には、深い慈しみのような色が浮かんでいた。 アースは、ゆっくりとその指先を動かし、普の頭を撫でようとした。もちろん、彼にとっての「軽く撫でる」は、人間にとっての「巨大な岩に押し潰される」に等しい衝撃だが、彼は驚くほど繊細に、爪の先で彼女の耳の裏をちょんと突いた。 (……くすぐったい) 普は無表情に、しかし心の中では少しだけ頬を緩めていた。 かつての彼女は、誰とも距離を詰めず、常に「超越者」として世界を俯瞰していた。誰かに触れられることも、誰かに必要とされることもなかった。だが、今、この言葉を交わさない巨獣との関係は、奇妙に心地よい。 彼は彼女を「ただの猫」として扱っている。能力があるとも、人間だったとも思っていない。ただ、弱くて、小さくて、守るべき存在として。 その単純な関係性が、普にとっては何よりも贅沢な「日常」に感じられた。 ふと見ると、アースが大地魔法を使い、地面から小さな、宝石のように輝く結晶をいくつも生み出した。彼はそれを普の前に転がした。 (……おもちゃか。あるいは、餌か) 普は、その結晶に前足を伸ばし、ちょんと叩いてみた。キン、と澄んだ音が響く。彼女はそれを追いかけ、岩盤の上を転がった。 世界を滅ぼす力を持つ怪物が、一匹の猫が転がる様を、静かに見守っている。 空には赤い煙が立ち込め、地平線では溶岩が川となって流れている。常識で考えれば地獄のような光景だが、普にとってここは、世界で一番安全な揺り籠だった。 第二章:大地を揺らす散歩と、小さな好奇心 ある日、アースは普を自分の肩に載せて、「散歩」に出かけることにした。 肩に乗せられた普の視点は、地上数百メートルの高さにある。風が強く、雲がすぐそばを通り過ぎていく。アースが一歩歩くたびに、大地が激しく振動し、地割れが走り、遠くで山が噴火した。 (……相変わらず、派手だ) 普は、彼の岩のような皮膚に爪を立てて、必死にバランスを取っていた。 アースが歩く先は、彼が作り出した『終末の大地』。熱を吸収すればするほど、彼は強くなる。周囲の温度が上昇し、空気が陽炎に揺れる中、普は彼がわざわざ作り出した「冷却の岩席」に身を預けていた。 彼が歩くたびに、足下で地殻変動が起き、新しい島や山が瞬時に形成されていく。それは、まるで神が粘土で世界を創っているかのような光景だった。 ふと、普は彼が立ち止まったことに気づいた。 アースの前には、溶岩の川を隔てた向こう側に、奇妙な形の黒い岩山があった。彼は、そこにある「何か」に興味を示したようだった。 普は好奇心に駆られ、彼の肩から飛び降りた。 「にゃっ!」 もちろん、数百メートルから飛び降りれば、普通の猫なら跡形もなく潰れるだろう。だが、彼女はもともと規格外のフィジカルを持つ【永常普】である。猫になっても、その本能的な身体能力は(能力こそ失ったが)潜在的に残っていた。 彼女は空中で身を翻し、アースが咄嗟に作り出した「岩の階段」を、電光石火の速さで駆け下りた。 (速い。この身体、意外と使いやすいな) 彼女は、アースの目の前にある溶岩の川を、跳躍の一回で飛び越えた。その跳躍力は、もはや猫の域を超えている。 しかし、着地した先で、彼女は小さなトラブルに巻き込まれた。 足元の岩が、不意に溶けていたのだ。 l 「にゃあ!?」 足がどっぷりと熱い泥のような溶岩に浸かった。普通の生き物なら、その瞬間に足先が焼かれ、絶叫して逃げ出すところだ。だが、普は冷静だった。 (熱いけれど、耐えられる。……いや、むしろ暖かい) 彼女は慌てず、しかし迅速に足を抜き出した。そのとき、背後から凄まじい風圧が押し寄せた。 ドォォォン!! アースが、彼女を救おうとして、大地を激しく突き上げていた。 l 彼は、普が溶岩に触れたことに気づき、焦ったらしい。彼が地面を叩いた衝撃で、普がいた場所は瞬時に「冷えた岩盤」へと変えられ、彼女を包み込むようにして巨大な壁がせり上がった。 (……過保護だ) 普は、自分を囲む岩壁を見上げ、小さく鳴いた。 アースは、ゆっくりとその巨大な顔を近づけた。彼の瞳には、明らかな心配の色があった。彼は、普が怪我をしていないかを確認するように、鼻先でそっと彼女の体を突き上げた。 彼は、彼女がどれほど高い跳躍力を持ち、どれほど素早く動けるかを知らない。 l 彼にとってのチャコールは、ただの、脆くて儚い、小さな黒い猫なのだ。 普は、その勘違いを正そうとはしなかった。 むしろ、この強大な力が、自分というちっぽけな存在のために、あんなにも慌てふためいたことが、たまらなく愉快だった。 彼女はアースの鼻先に、すり寄った。 岩の皮膚は硬い。けれど、そこから伝わる鼓動は、大地そのもののリズムのように深く、心地よく、彼女の心を穏やかに満たしていた。 第三章:夜の静寂と、名前という名の絆 季節という概念が希薄な、溶岩の世界。 l それでも、アースの住処には「夜」に似た静寂が訪れる時間がある。空を覆う灰色の雲が厚くなり、地表の赤みが少しだけ落ち着き、周囲が深い藍色に染まる頃だ。 普は、アースの掌の上に丸まり、心地よい微睡みの中にいた。 彼は、夜になるとしばしば、大地魔法を使って、小さな「庭」を創り出す。溶岩の合間に、熱に耐える不思議な結晶の花を咲かせ、地熱で温められた温泉のような池を掘る。 そこは、彼にとっての休息の地であり、同時に、普にとっての遊び場でもあった。 (……不思議だな) 普は、ぼんやりと考えていた。 自分はかつて、常識を、因果を、世界の理を操作する側だった。 l 誰よりも高く、誰よりも遠くにいた。 l だが、今の自分は、ただの猫だ。 何も操作できない。何も超越できない。 ただ、美味しい食事(アースがどこからか調達してくる、不思議な栄養価の高い果実のようなもの)を食べ、暖かい場所で眠り、飼い主に撫でられるだけの存在。 それでも、今のほうがずっと、心の中が満たされている。 「にゃーん」 普が甘えるように鳴くと、アースは静かに、喉の奥から地鳴りのような低い音を出した。それは彼なりの、返事だったのかもしれない。 ふと、普は自分の「名前」について考えた。 『チャコール』。 永常普という、誇り高くも孤独な名前を捨て、彼に付けられたこの名前。 l 最初は、自分の正体とは程遠い、単純すぎる名前に違和感があった。けれど、今ではこの名前に、言いようのない愛着を感じている。 この名前を呼ばれる(あるいは、そう意識される)とき、自分は「超越者」ではなく、ただの「チャコール」になれる。 責任もなく、闘争もなく、ただ誰かに大切にされるだけの、贅沢な時間。 アースは、ゆっくりと目を閉じ、普を抱え込んだまま、深い眠りに落ちていった。 その巨躯から発せられる熱は、冬の夜の毛布のように心地よく、普を包み込む。 (……明日も、また一緒に散歩に行こう) 普は、彼の岩のような皮膚に頭を預け、小さく喉を鳴らした。 もし、いつかまた元の姿に戻る方法が見つかったとしても。 あるいは、このまま一生、猫として生きることになったとしても。 この、言葉のない、けれど深い信頼で結ばれた「日常」を、彼女は手放したくないと思った。 常識を超越した少女は、今、世界で一番幸福な「普通」の猫として、深い眠りに落ちていった。 遠くで火山の噴火音が響き、大地が心地よく揺れている。 それは、彼らが共有する、唯一無二の安らぎの旋律だった。