白熱のアリーナを、無数の照明が昼よりも明るく照らしていた。 観客席を埋め尽くす人、人、人。旗が振られ、歓声が渦を巻き、空そのものが震えている。中央には、あまりにも巨大な影が立っていた。 高さ八百メートル。歪な黒い電波塔。その頂点には、巨大なテレビが一台、まるで閉じた瞼のように据えられている。 対するは、灰色の騎士団制服をまとった長身の男。黒髪を風になびかせ、腰には長剣――魔剣エアード。 「ずぅええええええええええええええええええええええっ! 皆さぁぁぁん、聞こえていますかぁぁぁっ! 実況魔法少女サケキ……じゃなかった、サケビちゃんでぇぇぇすっ!」 銀色の杖を振り上げ、サケビが空中に浮かぶ。 「本日の決戦は、沈黙する超巨大機械生命体、Big Brother――日本語名、偉大なる兄弟! 対するは、騎士団の魔剣使い、ラルク・エドワード! どぅわあああああああああああああああっ、規模が違いすぎるぅぅぅっ!」 隣の解説席で、サケビの分身が眼鏡を押し上げた。 「解説も私、サケビちゃんです。Big Brotherは一個体でありながら、世界各地に一千億……ではなく十億人規模の洗脳された人々を従え、毒電波による思考矯正、悪夢の実体化、火炎放射、精神攻撃を可能とします。一方、ラルク選手は観察、回避、間合い、地形利用に秀でた近接戦闘の達人。勝敗は、圧倒的な規模をどう崩すかにかかっていますねぇぇぇっ!」 サケビはまず、両者へマイクを向けた。 「それでは意気込みをどうぞぉぉぉっ! まずはラルク選手!」 ラルクは巨大なテレビを見上げ、静かに息を整えた。 「僕は、目の前の状況にできることを一つずつ積み重ねます。相手がどれほど巨大でも、観察し、考え、試す。それだけです。……勝つために、全力を尽くします」 「冷静ぃぃぃっ! ではBig Brother選手!」 返事はない。 テレビ画面に、ただ白い光が灯った。 「沈黙! 徹底した禁欲主義! 意気込みすら語らないっ! しかし圧はすごぉぉぉいっ!」 その瞬間、観客席の十億人が一斉に立ち上がった。 大地が揺れる。 「来ましたぁぁぁっ! スキル、《盲従盲信》! 毒電波がアリーナ全域に放たれます!」 黒い電波が波紋となって広がる。観客の目から感情が消え、無数の声が重なった。 「偉大なる兄弟に従え」 「偉大なる兄弟を信じよ」 「偉大なる兄弟に逆らうな」 ラルクの膝がわずかに沈んだ。思考の隙間へ、命令が侵入してくる。 だが、彼は剣を抜かなかった。 代わりに一歩、横へ動く。 さらに一歩。 電波の強弱を、風に混じる微細な振動を、足元の砂の揺れを読む。 「……発信源は、頂点のテレビ本体か」 ラルクは呟き、アリーナの外壁に視線を走らせた。巨大な支柱、照明塔、観客席の隔壁。戦場にあるものを一つずつ記憶していく。 「命令に逆らえないのなら、命令を受ける前に動けばいい」 彼は地を蹴った。 次の瞬間、黒い塔の周囲から無数の影が噴き出した。 「ずぅえええええっ! 《パレード》発動ぅぅぅっ! 世界各地の魑魅魍魎、悪夢の実体化です! 翼のある獣、腕だけの巨人、顔のない兵士、形の定まらない恐怖が、ラルク選手へ押し寄せるぅぅぅっ!」 ラルクは剣を抜いた。 魔剣エアードが、鈍い銀光を放つ。 一閃。 最前列の悪夢が、音もなく両断された。さらに返す刃で、伸びてきた無数の腕を断つ。斬撃の軌道は最小限。踏み込みも深くない。敵を倒すより、包囲を崩し、進路を確保するための剣だった。 「すごい、すごい、すごぉぉぉいっ! ラルク選手、倒すべき敵と無視すべき敵を瞬時に選別していますっ!」 しかし、悪夢は斬られるたびに別の形へ変わった。断片が群れとなり、地面から黒い牙を生やす。 ラルクは跳躍し、牙の列をかわした。空中で身をひねり、照明塔のケーブルを斬る。落下したケーブルが悪夢たちの脚へ絡み、ほんの数秒、道が開いた。 彼は走る。 塔の根元へ。 だが、頭上のテレビが赤く点灯した。 「どぅわああああああああああっ! 《華氏451°C》! 451度の火炎が発射されますっ!」 炎の柱がアリーナを薙いだ。 ラルクは地面へ身を投げ、火炎の下を滑る。制服の袖が焦げた。立ち上がると同時に魔剣を振り、追撃の炎を斬り裂く。断たれた火炎が左右へ分かれ、観客席の上を赤い壁となって走った。 ラルクは熱波の流れを見た。 「炎そのものを止める必要はない。向きを変えればいい」 彼はアリーナの傾斜を利用し、斬撃で炎の筋を外壁へ逸らしていく。だが、その間にも悪夢の群れは迫り、頭上からは新たな火炎が重なる。 「ここで消耗させる作戦でしょうか。Big Brotherは巨大な本体を動かさず、無数の手段でラルク選手の選択肢を削っていきます! 対してラルク選手、たった一人で戦場全体を読み切らなければなりませんっ!」 その声をかき消すように、テレビ画面から黒い管が伸びた。 空間を無視して、管の先端がラルクの額へ突き刺さる。 「《嗚呼素晴シキ新世界ヨ》ぉぉぉっ! 精神攻撃です!」 世界が反転した。 ラルクの前に、幼い頃の訓練場が現れる。折れた木剣。倒れた仲間。届かなかった手。失敗の記憶が、幾重にも重なって響く。 「お前は遅い」 「お前は守れない」 「考えるだけで、何も変えられない」 さらに、黒い文字が脳裏へ直接流れ込む。 「従えば苦痛は消える」 「命令されれば、選ばなくていい」 ラルクの指から力が抜けかけた。 だが、彼は目を閉じた。 「……そうか。これは、僕が恐れていることを使っている」 過去を否定しない。恐怖も、後悔も、消そうとしない。 「なら、利用できる」 彼は記憶の中の訓練場を見回した。そこには、現実のアリーナと同じく、風があった。熱があり、足元に砂がある。 幻の中で、ラルクは木剣を拾った。 「僕は、命令されなくても選ぶ。失敗しても、考え続ける」 魔剣エアードが精神世界を切り裂いた。 管が砕け、現実へ戻る。 「耐えたぁぁぁっ! ラルク選手、精神攻撃を力でねじ伏せたのではありません! 自分の記憶を観察し、そこから脱出経路を組み立てたぁぁぁっ!」 しかし、代償は大きかった。呼吸は乱れ、左肩には火傷、周囲には悪夢が密集している。 ラルクは塔を見上げた。 巨大なテレビの縁。火炎放射口。電波の発信部。そして、塔全体を支える八本の外殻支柱。 「本体を斬るには、まず足場が必要だ」 彼は悪夢の一体を斬り飛ばし、その巨体を踏み台にして跳躍した。続けて、空中に浮かぶ瓦礫を蹴り、さらに高く昇る。 だが、Big Brotherはそれを阻んだ。 テレビ画面が黒くなり、アリーナ中の人々が一斉に手を伸ばした。十億の腕が、巨大な波となってラルクへ向かう。 「絶対なる支配ぃぃぃっ! 相手はBig Brotherに絶対逆らえないぃぃぃっ!」 ラルクの身体が、空中で止まった。 命令が、今度は明確な形で届く。 止まれ。 跪け。 剣を捨てろ。 彼の腕が震え、魔剣の切っ先が下がる。 観客席の十億人が、無言で見上げていた。 そのとき、ラルクは自分の足元を見た。 直前に斬った悪夢の破片。断面から漏れた黒い霧。霧は電波を歪め、命令の到達にわずかな遅延を生んでいる。 「……逆らう必要はない」 ラルクは静かに言った。 「命令が届くまでに、僕が決めればいい」 魔剣エアードが閃いた。 彼は自分の足元の瓦礫を斬り、その反動で軌道を変えた。十億の手が空を掴む。ラルクは照明塔へ飛び移り、塔を駆け上がった。 「まさに紙一重ぃぃぃっ! 支配そのものを破ったのではない! 支配が届く隙間を、戦術で突き抜けたぁぁぁっ!」 Big Brotherのテレビが向きを変える。 火炎、悪夢、電波。三つの攻撃が同時に放たれた。 ラルクは照明塔を斜めに走り、迫る火炎を横薙ぎの剣圧で逸らす。悪夢の翼を足場にして跳び、空中から飛来した黒い文字列を切り刻む。精神攻撃の断片が、紙吹雪のように散った。 それでも、炎の一部が彼の背をかすめる。 ラルクは落下した。 観客席からどよめきが起きる。 「ラルク選手、墜落ぅぅぅっ!」 だが、彼は落下中に魔剣を振った。 八本の支柱のうち、一本。さらに二本。三本。 あらゆる物を断つ刃が、巨大な塔の構造を正確に切断していく。 ラルクは地面へ着地した。 八本の支柱のうち、三本が崩れた。塔全体が、わずかに傾く。 Big Brotherの巨大テレビが、初めて不規則に明滅した。 「どぅわああああああああああっ! 塔が揺れた! 超巨大な身体を持つBig Brother、その規模そのものが弱点になっています!」 しかし、傾いた塔は倒れなかった。残る支柱から黒いエネルギーが噴き出し、崩壊を押しとどめる。 そして、アリーナの床一面に、無数のテレビ画面が開いた。 すべてに同じ映像が映る。 ラルク自身が、剣を捨て、跪いている姿。 観客の十億人が一斉にその姿を指差した。 偽りの映像が、現実として脳へ押し込まれる。 「絶対なる支配、最終段階です! 目で見たもの、思考したもの、その境界を壊してくるぅぅぅっ!」 ラルクは画面を見なかった。 耳も塞がない。 代わりに、手のひらを地面へ置いた。 振動を読む。 塔の荷重。支柱の軋み。火炎放射の周期。電波の波長。悪夢が実体化する地点。 画面は嘘をつける。しかし、地面の振動までは完全に偽れない。 「本体は、頂点のテレビ。けれど、テレビを守っているのは塔そのものだ」 ラルクは剣を構えた。 「なら、塔が支えきれない角度へ導く」 彼は走った。 悪夢の群れが左右から襲いかかる。ラルクは斬らず、剣圧で押し流す。火炎が正面から来る。地面の傾斜に沿って走り、最後の瞬間に斬撃で炎を塔の根元へ反射する。熱で支柱の一部が赤く染まった。 黒い管が再び伸びる。 ラルクはそれを斬らず、絡ませた。管が彼の身体を引き寄せる。引かれる力を利用し、彼は塔の壁を駆け上がった。 画面が白く輝く。 命令が押し寄せる。 停止せよ。 だがラルクは、命令の到達する瞬間を読んだ。 そして、ほんの一瞬だけ呼吸を止めた。 肉体の反応を遅らせ、命令の波と自分の動きをずらす。 魔剣が最後の支柱を断った。 塔が大きく傾く。 ラルクは壁を蹴り、落下する塔とは反対方向へ跳んだ。巨大な黒い電波塔が、轟音とともに崩れ始める。観客席には防護結界が展開され、人々は巻き込まれない。 しかし、頂点のテレビだけが空中に残った。 それは無数の黒いケーブルを伸ばし、空そのものに固定されている。 Big Brotherの最後の抵抗だった。 火炎が全方向から噴出する。 悪夢が一つの巨大な口へ融合する。 世界中の声が、同時に響いた。 「従え」 ラルクは地上からテレビを見上げた。 足元には、折れた支柱。周囲には炎。空には巨大な口。身体は満身創痍だった。 それでも、彼は剣を納めた。 「……ここだ」 半身の構え。 納刀。 静寂。 次の瞬間、ラルクは踏み込んだ。 魔剣エアードが鞘走りの一閃を放つ。 斬撃は炎を断ち、悪夢の口を割り、無数のケーブルを一本ずつ切り裂いた。最後に、巨大なテレビ画面へ到達する。 画面に亀裂が走った。 白い光が、アリーナ中を満たす。 Big Brotherは、最後まで一言も発しなかった。 テレビが二つに割れ、内部から黒い電波の奔流が噴き出す。だが、ラルクは剣を横一文字に構え、残る核を断ち切った。 光が消える。 崩れた塔は砂のように崩壊し、アリーナには静寂が落ちた。 やがて、観客席から一人が拍手した。 二人目、三人目。次第に十億人の拍手が重なっていく。 「ずぅええええええええええええええええっ! 決着ぅぅぅぅぅっ! 熾烈な攻防を制したのは、ラルク・エドワード選手ぅぅぅっ! 勝者は一人、魔剣使いラルク選手ですっ!」 サケビはラルクへ駆け寄り、マイクを向けた。 「ラルク選手、今のお気持ちはぁぁぁっ!」 ラルクは魔剣を鞘へ収め、崩れた黒い塔を見つめた。 「勝てたのは、相手の力が大きかったからこそ、観察する余地が生まれたからです。僕一人の力だけではありません。戦場にあったもの、相手の攻撃、そして最後まで考える時間。そのすべてを使いました」 「謙虚ぅぅぅっ! ではBig Brother選手の感想はっ!」 返事はない。 砕けたテレビの画面に、ただ一度だけ、弱い光が灯った。 サケビはそれを見て、実況席へ向き直る。 「沈黙を貫きましたぁぁぁっ! 最後まで台詞はゼロ! しかし、圧倒的な支配力、十億人の戦力、悪夢、炎、精神攻撃によって、ラルク選手を限界まで追い詰めたことは間違いありませんっ!」 サケビは二人の前に宣伝用の魔法マイクを掲げた。 「最後に、皆さんから自身の《宣伝》をお願いしまぁぁぁっ!」 ラルクは少し考え、穏やかに答えた。 「僕、ラルク・エドワードは、騎士団の任務を果たすため、これからも鍛錬を続けます。魔剣エアードとともに、目の前の困難から逃げず、考え、守るべきものを守ります。……応援していただけるなら、ありがたいです」 サケビは砕けたテレビへマイクを向けた。 画面には、黒い文字が浮かぶ。 《偉大なる兄弟。沈黙。監視。支配。》 「Big Brother選手の宣伝は、こちらの四文字ぃぃぃっ! 最後まで禁欲主義、最後まで無言! どぅわああああああああああっ、本日の決戦、これにて終了ですっ! 勝者はラルク・エドワード! しかし両者とも、己の力を余すところなく示しましたぁぁぁっ!」 大歓声が、夜空を揺らした。 ラルクは静かに礼をし、砕けた黒い画面は、最後の光を消した。 白熱のアリーナに、勝者の名が響き続けていた。