空を塗り潰すのは、どろりとした血のような赤。 紅い月が夜空に鎮座し、地上に不吉な魔力を降り注いでいた。その光は、理性を焼き切り、本能を肥大させ、魂に刻まれた「破壊衝動」という名の獣を解き放つ。 静寂に包まれた荒野に、三人の男が立っていた。 一人は、白髪に青と翠のオッドアイを持つ、儚げな佇まいの青年。トラン。その瞳には全てを見通したような超然とした光が宿っていたが、紅い月の影響か、その口角は微かに吊り上がり、静かな狂気を孕んでいる。 一人は、筋骨隆々とした体躯に自家製の金棒を担いだ武僧。餓鬼嶋豪胆。彼の眼光は鋭く、経典よりも拳を信じる狂信的な闘志が、紅い光に煽られて爆発しそうに膨れ上がっていた。 そしてもう一人は、銀髪に緑の瞳を持つ長身の青年。品骨柄。礼節正しく、常に高みを目指す努力の化身。だが、今の彼の中にあるのは「究極の強度」と「究極の速度」をぶつけ合いたいという、純粋かつ暴力的な知的好奇心であった。 三者の間に流れる空気は、もはや言葉を必要としなかった。紅い月が彼らに囁く。――今夜は、殺し合うのにちょうどいい夜だ、と。 「……ふふ。心地よいですね。この、世界が壊れていくような感覚」 トランが小さく呟いた瞬間、爆発が起きた。 先手を打ったのは品骨柄だった。彼の移動は「速い」という概念を通り越し、視覚的な現象として消滅した。次の瞬間、トランの眼前に、星をも砕く硬度を持った拳が突き出されていた。 ドォォォォォン!! 衝撃波だけで周囲の大地が円形に陥没し、土煙が天高く舞い上がる。だが、そこには不思議な「間」があった。トランの周囲だけ、時間が緩やかに流れているかのような、絶対的な猶予期間――『間隙』。 拳はトランの鼻先数センチで止まったように見えた。いや、止まったのではない。トランがその「間」を操作し、攻撃が届く瞬間の因果を捻じ曲げたのだ。 「速い。ですが、届きませんよ」 トランが指先を軽くスナップさせる。その一動作が、世界に対する「消去」の命令となった。品骨柄の右腕を構成していた質量、衝撃、そして存在の10割が、音もなく消滅した。 「なっ……!?」 品骨柄が驚愕に目を見開く。肉体的に最強を誇る彼にとって、攻撃が効かないことには慣れていたが、「消される」ことは想定外だった。しかし、彼は不屈の心を持つ。失われた右腕の断面から、凄まじい速度で筋繊維が爆発的に増殖し、一瞬で五体満足な状態へと回帰する。 「素晴らしい! 私の再生を上回る消去……! これこそが私が求めていた壁だ!」 歓喜に震える品骨柄。だが、その背後から、大地を揺らす咆哮と共に巨大な質量が襲いかかった。 「ガハハハ! ぬるい! ぬるすぎるぞ貴様らぁ!!」 餓鬼嶋豪胆の金棒が、地平線を切り裂く一撃となって品骨柄の側頭部を強襲する。品骨柄は瞬時に反応し、硬化した腕でそれをガードしたが、紅い月の魔力で増幅された豪胆の筋力は、物理法則を無視していた。 ズガァァァン!! 品骨柄の体が地面に深く突き刺さり、巨大なクレーターが形成される。星より硬い肉体であっても、この破壊的な質量攻撃には耐えきれない衝撃が走る。だが、品骨柄は笑っていた。肺から血を吐き出しながらも、その瞳は歓喜に濡れている。 「いい……いいですよ、この衝撃! 体中の細胞が叫んでいる!」 一方で、トランは呆然と二人を見ていた。いや、正確には「観察」していた。彼にとって、この戦いは既に結末が見えている盤上の駒のようなものだ。だが、紅い月の魔力が、彼の「超然」とした心に小さな火を灯していた。 (もっと……もっと激しく、壊し合ってほしい。この退屈な超越の世界に、心地よい刺激を) その時、豪胆が低く、地を這うような声で読経を始めた。 「守・破・離・残・心・序・破・急……」 空気が震え始める。豪胆の周囲に、黄金色と血赤色が混ざり合った禍々しいオーラが渦巻く。『完全詠唱』。彼の時間の流れが加速し、世界が止まったかのような静寂が訪れる。そして、絶頂へと向かう読経の声が響いた。 「……壊・滅・亡・断・捨・離……全ては無也!!」 爆発。という言葉では言い表せない、空間の崩落が起きた。 攻撃力500%上昇。紅い月の魔力によるリミッター解除。その二つが掛け合わさった一撃は、もはや武術ではなく、天災だった。豪胆が金棒を振り下ろした瞬間、彼を中心とした半径数キロメートルのすべてが、文字通り「消し飛ばされた」。 品骨柄は、その衝撃に巻き込まれながらも、全身の筋肉を極限まで硬化させ、絶叫に近い咆哮を上げて耐えた。肉片が飛び散り、骨が軋む音が鳴り響く。だが、彼は死なない。破壊と再生を繰り返す彼の肉体は、消滅しそうになるたびにさらに強固に、さらに強靭に再生し、地獄のような衝撃の中を泳いで豪胆へと肉薄する。 「死なない! 私は死なない! 頂点へ行くまでは!!」 品骨柄の拳が、詠唱後の隙を突いて豪胆の胸板に突き刺さる。ドゴォッ!! 衝撃波が豪胆の背中側まで突き抜け、背後の大地をさらに爆砕させた。 しかし、その凄惨な殺し合いの中心で、トランだけは無傷だった。 「……ふむ。そろそろ、私も混ぜてもらいましょうか」 トランが、一歩、足を踏み出した。たったそれだけの動作で、戦場を支配していた破壊の奔流が、嘘のように止まった。いや、巻き戻った。足踏み一つで、全てを「元に戻す」超越の力。 砕けた大地が盛り上がり、飛び散った血飛沫が逆流して体に戻る。品骨柄の傷が癒え、豪胆の疲労が消える。時間を超越したトランにとって、因果の書き換えは呼吸と同じだ。 「何をした……!?」 豪胆が戦慄する。品骨柄もまた、初めて「理解不能」な力に直面し、戦慄と興奮で全身を震わせていた。 「さて。そろそろ『本気』を出しましょうか。この赤い月に免じて」 トランが静かに告げた瞬間、彼の周囲を包んでいた「穏やかな空気」が消えた。 【本気を出す】 彼にかけられていた、世界を維持するためのリミッターが完全に解除された。その瞬間、戦場の空気が凍りついた。いや、空気が消えた。酸素さえも、トランという存在の圧力に耐えきれず、粒子レベルで分解され、消滅した。 「……っ!!」 品骨柄が本能的な恐怖を感じ、全力で拳を繰り出した。速度は光速を超え、次元を断ち切る一撃。だが、トランは避けない。避ける必要さえない。 トランが軽く、指を弾いた。 パチン。 その音と共に、品骨柄の「不屈の心」と「再生能力」という定義そのものが、書き換えられた。 「え……?」 品骨柄が自分の手を見る。そこには、今まで感じたことのない「脆さ」があった。肉体的に最強であったはずの彼が、ただの「人間」に戻っていた。いや、人間以下だ。存在の根源から「強さ」という概念を剥奪された。 そこに、容赦なくトランの掌が品骨柄の胸に触れた。 「さようなら、努力の人」 ドシュッ!! 衝撃はなかった。ただ、品骨柄の体が、中心から外側に向かって、静かに、そして完璧に「分解」された。再生しようとする細胞さえも、トランの超越的な力によって「最初から存在しなかったこと」にされた。銀髪の青年は、絶叫を上げる暇もなく、一粒の塵となって紅い夜風に消えていった。 「貴様……!!」 激昂した豪胆が、金棒を振り上げる。紅い月の魔力を全て右腕に集約させ、空間さえも歪ませる超重量の一撃。だが、トランは微笑んでいた。 「金棒ですか。いい趣味ですね。ですが、その武器の『意味』を消しましょう」 トランが金棒に触れる。その瞬間、鋼よりも硬かった自家製の金棒が、突然「濡れた紙」のような質感に変わった。物理的な硬度が消失し、もはや打撃武器としての機能を完全に失った物体へと成り下がった。 「な……!? わたしの金棒が!!」 「次は、あなたの『悟り』を消します」 トランの瞳が、怪しく光る。豪胆の精神に直接介入し、彼が人生をかけて辿り着いた「武力こそが全て」という信念を、一瞬にして「無価値な妄想」へと書き換えた。 「ああ……ああああ!!」 精神的な支柱を失った豪胆は、崩れ落ちた。戦う理由を、戦う方法を、戦う意志を、全て奪われた。最強の武僧は、ただの怯えた老人へと変貌し、ガタガタと震えながら地面を這いずり回った。 トランは、そんな彼を冷ややかに見下ろした。 「もう、十分でしょう。この夜は」 トランが軽く手を振る。すると、豪胆の全身の血管が、内側から弾け飛んだ。外傷は一つもない。だが、体内にある全ての血液が、同時に「気体」へと相転移したのだ。 「ガ……ッ!!」 豪胆は言葉にならない悲鳴を上げ、全身から血の霧を吹き出しながら、絶命した。肉体という器が内側から崩壊し、文字通り血の海の中に沈んでいった。 静寂が戻った。 紅い月は依然として夜空に浮かんでいるが、その魔力に煽られた狂宴は、たった一人の超越者によって幕を閉じた。 トランは、血の海の中に一人立ち、ゆっくりと夜空を見上げた。 「……やはり、本気を出しても退屈ですね」 彼は再び、穏やかな、そして残酷な微笑みを浮かべた。その足元には、かつて最強を自負した二人の男の、名もなき残骸だけが転がっていた。 紅い月が、彼を祝福するように、さらに深く、濃い赤色に染まった。