夜空を支配するのは、どす黒い赤に染まった月だった。 その不気味な輝きは、地上のあらゆる理性を焼き切り、本能という名の獣を解き放つ触媒となる。紅い月の魔力は、大気に混ざり合い、そこに集った三者の精神をじわじわと侵食していた。感情は増幅し、魔力は制御を失い、内なる邪気が沸騰する。 「ふむ……退屈はしなさそうじゃな」 白いドレスを纏った小柄な少女、鬼泪家の次期当主であるフユは、扇子で口元を隠しながら静かに呟いた。その瞳は、普段の淑やかな輝きを失い、獲物を狙う猛禽のような紅い光を宿している。彼女の心の中で、「優雅であること」への執着が、紅い月の影響で「完璧な蹂躙」という暴力的な欲望へと変換されていた。 対峙するのは、自らを堕天使と称する少女、フィエラ。彼女は片目に眼帯を嵌め、純白と漆黒に分かれた翼を誇示するように広げている。普段の厨二病的な振る舞いは、今や狂信的な確信へと変わっていた。彼女にとってこの夜は、運命に刻まれた「終焉の儀式」であり、己の闇を証明するための最高の舞台だった。 そして、もう一人――否、一匹。 腐敗し、露出した筋肉が脈打つ巨大な爬虫類、SCP-682。不気味に光る赤い眼が、目の前の矮小な人間二人を軽蔑しきった視線で見つめている。この不死の怪物は、本来であれば人間など塵芥のごとく扱うが、今夜の月は彼の中にある「破壊衝動」を異常なまでに加速させていた。 「ククク……絶望せよ。我こそが深淵の主、ネフィリス=アビス! この紅き月が、お前たちの魂を闇に染め上げる合図よ!」 フィエラが仰々しくポーズを決め、大声で宣言する。同時に彼女の身体からどす黒い魔力が噴出した。本来なら「ごっこ遊び」に過ぎなかった彼女の魔力は、月の加護(あるいは呪い)によって、現実を書き換えるほどの破壊力へと膨れ上がっていた。 「お主、賑やかなことじゃ。……だが、妾の静寂を乱す者は、例え神であろうと許しはせぬぞ」 フユの声は低く、冷たい。彼女の周囲に、場違いなほどの冷気と、血の匂いのする雪が舞い始めた。 ――その瞬間、三者の均衡が崩れ、殺戮の幕が上がった。 最初に動いたのはフィエラだった。彼女は「黒翼機動」により、視認不可能な速度で空へと舞い上がり、そのまま急降下する。手には黒炎を纏った魔剣レーヴァテインが握られていた。 「燃え尽きよ! 終焉の炎に焼かれよ!」 黒い炎の奔流が地上を薙ぎ払う。地形を変えるほどの熱量。しかし、フユは眉ひとつ動かさず、最小限のステップでその爆心地から逃れた。まるで舞を舞うかのように、炎の隙間を縫って滑る。彼女の「人を見る力」は、今や相手の魔力の流れ、筋肉の弛緩、意識の先読みまでも完全に把握していた。 「遅いのじゃな」 フユが指を弾いた瞬間、大地が震えた。彼女が呼び出したのは、鬼泪家に伝わる禁忌の力、「悪瑠王の無念」。 ドォォォォォン!! 地底から、血染めの大鬼が顕現した。ビルほどもある巨躯、血に塗れた肌、絶望を体現したような貌。大鬼の拳が、空中にいたフィエラを叩き潰そうと振り下ろされる。 「なっ……!? 愚かな! 我の闇はあらゆる光を飲み込む!」 フィエラは咄嗟に「漆黒共鳴」を発動し、周囲の闇を集めて巨大な盾を形成した。しかし、紅い月の魔力で暴走した大鬼の一撃は、防御魔法など紙切れのように引き裂いた。凄まじい衝撃波がフィエラを襲い、彼女は空中で弾き飛ばされ、地面に激突する。 だが、そこに介入したのは、静かに機会を伺っていたSCP-682だった。 「……不快だ。貴様らの小癪な喧嘩に付き合う気はないが、目の前で騒がしいのは我慢ならん」 682が地響きを立てて突進する。その速度は巨体に似合わず凄まじく、一瞬にしてフィエラの傍らに到達した。巨大な顎が、フィエラの胴体を文字通り「一口」に飲み込もうと閉じる。 ガッ!! 鈍い音が響いた。フィエラは間一髪で魔剣を突き立てて顎を押し止めていたが、圧倒的な筋力の差に絶叫し、地面に叩きつけられる。682の鋭い爪が、彼女の白い翼を無慈悲に切り裂いた。 「ぎあああああ!!」 鮮血が舞う。しかし、フィエラは笑っていた。紅い月の魔力が、痛みを快楽へ、恐怖を昂揚へと変換していた。 「いい……いいぞ! これこそが我の望んだ戦い! 絶望の淵から這い上がるこそ、真の堕天使の姿!!」 フィエラは狂ったように叫び、空中に数本の魔剣を召喚した。「魔剣演舞」である。意思を持った剣たちが、弾丸のような速度で682の全身を貫き、フユへと襲いかかる。 フユはそれらを優雅に回避しつつ、冷徹な瞳で682を見つめていた。 (……あの爬虫類、何度切り裂いても再生しておる。ありえない再生速度じゃ。物理的な破壊では事足りぬということか) フユは静かにキレていた。彼女の理性を繋ぎ止めていた「お淑やかさ」という鎖が、紅い月の光に焼かれて消えていく。彼女はドレスの裾を翻し、さらに強大な魔力を大鬼へと注ぎ込んだ。 「妾は……静かに紅茶を飲みたかったのじゃ。それを邪魔する不浄な輩は、根こそぎ消えて失せよ!!」 大鬼が咆哮し、周囲の空間そのものを圧壊させるほどの衝撃波を放った。地面が陥没し、フィエラの魔剣たちが砕け散り、SCP-682の皮膚が剥がれ落ち、内臓が露わになる。 しかし、SCP-682は止まらない。むしろ、その眼に奇怪な光が宿った。 「……適応完了だ」 682の肉体が、瞬時に変異した。剥き出しになった筋肉が硬質化し、大鬼の衝撃波さえも弾き返す「絶対的な装甲」へと進化したのだ。682は、自分を攻撃したエネルギーそのものを吸収し、それを自身の攻撃力へと転換して跳躍した。 ドガァァァン!! 巨体がフユを押し潰そうと降下する。フユは咄嗟に回避を試みたが、682の攻撃範囲は適応によって最適化されており、逃げ場を完全に塞いでいた。 「しまっ――」 鋭い爪がフユの肩を深く切り裂く。鮮血が白いドレスを赤く染めた。初めて味わう激痛。しかし、その痛みが、彼女の心の中にある「鬼」を完全に目覚めさせた。 「……お主、妾の服を汚したな?」 フユの瞳からハイライトが消え、紅い光だけが燃え上がる。彼女はもはや回避を捨て、真っ向から魔力をぶつけ合う道を選んだ。鬼泪家の秘術、全魔力を一点に集中させ、概念的な「切断」を具現化させる一撃。 一方のフィエラも、血塗れになりながらも最後の切り札を準備していた。 「終焉よ……すべてを無に帰せ! 終焉詠唱――『アビス・ノヴァ』!!」 彼女が長い詠唱を終えた瞬間、空に巨大な黒い太陽が現れた。それは周囲のすべてを飲み込み、消滅させる特異点。フィエラは自身の生命力さえも代償にし、最大出力の魔法を放った。 黒い太陽が地上へ降り注ぎ、全てを飲み込み始める。 「死ね! 死ね! 死ねええええ!!」 狂ったように叫ぶフィエラ。同時に、フユの放った概念切断の斬撃が、大気を切り裂いて682へと突き刺さる。 そして、SCP-682は、その巨大な顎を開き、目の前の絶望的なエネルギーの奔流を、そのまま「喰らおう」とした。 ドォォォォォォォォン!!! 爆発的な光と闇、そして血の雨が降り注いだ。紅い月の下で、三者の全力が激突し、大地は文字通り消滅した。クレーターのような巨大な穴が空き、静寂が訪れる。 煙が晴れたとき、そこには絶望的な光景が広がっていた。 フィエラは、もう動かなかった。自身の魔法の反動と、682に身体の半分を食い破られたことで、彼女の生命活動は完全に停止していた。満足げな笑みを浮かべたまま、彼女の純白と漆黒の翼は、灰となって風に舞う。 「……ふふっ。案外……悪くない夜……じゃったな……」 それが、堕天使を自称した少女の最期の言葉だった。 そして、フユは。彼女は肩から胸にかけて大きく裂け、呼吸が浅くなっていた。魔力を使い果たし、膝をついている。彼女の自慢のドレスはボロ布のように引き裂かれ、色白の肌は血と泥にまみれていた。 彼女の目の前には、依然として立っている「怪物」がいた。 SCP-682は、全身が焼けただれ、肉が溶け、骨が露出していた。フィエラの消滅魔法とフユの概念切断により、その肉体の90%が失われていたはずだった。 だが、怪物は再生していた。 単なる再生ではない。彼は、フィエラの「消滅」という概念と、フユの「切断」という概念にさえ適応した。もはやこの世に、彼を殺せる術は残っていない。 「……虫けらが。ここまで抗ったことは評価してやろう」 682が、ゆっくりと、だが確実にフユへと歩み寄る。フユは震える手で扇子を握りしめたが、もう魔力は残っていなかった。彼女は静かに目を閉じ、最期に、遠い空の下で待っているであろうメイドのアキのことを想った。 (……アキよ。今夜の紅茶は、お主に淹れてもらうことはできぬようじゃな……) ガリッ!! 残酷な音が響いた。682の巨大な顎が、フユの華奢な身体を真っ二つに噛み砕いた。 抵抗する術もなく、鬼泪家の次期当主は絶命した。血が紅い月の光に照らされ、地面をどす黒く染めていく。 生き残ったのは、ただ一匹の怪物だけだった。 SCP-682は、口の周りに付いた血を舐め取り、空に浮かぶ紅い月を見上げた。月はまだ赤く、不気味に輝いている。 「……反吐が出る。この月も、この世界も、すべてが……不快だ」 怪物は、死体に囲まれた静寂の中、再び孤独な彷徨を始めた。紅い月の魔力が消え、夜が明けるまで、彼はただ、壊れた大地の上を歩き続けた。