空を塗り潰すのは、どろりと溶け出した血のような紅い月だった。 その月は、ただの天体ではない。世界に浸透する魔力を狂わせ、生物の根源にある本能を極限まで増幅させる、呪わしき触媒。理性を焼き切り、欲望を肥大させ、ただ「破壊」と「殺戮」のみを渇望させる狂気の光。 その紅き光の下に、三つの異形が集っていた。 一人は、深紅のドレスを纏った幼き外見の吸血鬼、クリスティ・F・ヘルダーリン。金色の長い髪が夜風に揺れ、鮮紅の瞳が愉悦に細められている。 一匹は、大気を紫色の瘴気で汚染し、歩くたびに大地を腐らせる劇毒の竜、ポイズナスドン。 そして一人は、青白く光る幽霊船を率い、牙を剥く白虎の海賊、閃月のガーウィン。 通常であれば、彼らは互いの利害を計り、牽制し合い、慎重に距離を測るはずだった。しかし、今夜は違う。紅い月の魔力が彼らの精神的なリミッターを、物理的なリミッターを、無慈悲に破壊していた。 「ふふ……あははは! ごきげんよう、素敵な夜ね」 クリスティの甘く蕩けそうな声が響く。だが、その声には普段の気品に混じり、隠しきれない狂気が混在していた。彼女の指先が、美しい装飾の細剣を弄ぶ。その瞳には、目の前の強者たちを蹂躙し、血の海に沈めて眷属にしたいという、どろどろとした支配欲が渦巻いていた。 「ガゴグボボォ!!」 ポイズナスドンが咆哮する。その口から溢れ出した劇毒が地面に滴り、瞬時に岩を溶かし、土を黒く変色させた。知能の高い竜であるはずの彼でさえ、今はただ「すべてを溶かし尽くしたい」という破壊衝動に突き動かされていた。 「グルル……いい風だ。血の匂いがしねえが、すぐに漂い始めるぜ!」 ガーウィンが曲刀を抜き放ち、牙を剥き出しにする。背後には半透明に光る幽霊船『レッド・クラーケン号』が、陸地であるにもかかわらず、次元の裂け目から滑り出すようにして現れていた。43名のレイスや魚人の船員たちが、死者の哄笑を上げながら砲門を開く。 理性などという贅沢品は、紅い月の光に焼き尽くされた。彼らに残ったのは、「殺し合うのにちょうどいい夜」という、至福の確信だけだった。 【第一撃:狂乱の幕開け】 先手を打ったのはガーウィンだった。超加速による爆発的な踏み込み。白虎の身体能力が紅い月の魔力で増幅され、彼は視認不可能な速度で大地を蹴った。 「ぶち抜いてやるぜ!!」 曲刀がクリスティの首を狙って閃く。しかし、クリスティは優雅に微笑み、その身を翻した。同時にスキル『蠱惑せし輪舞曲』を発動。彼女の身体が瞬時に無数の蝙蝠へと分解され、ガーウィンの刃は空を切った。 「あら、野蛮な挨拶ね。ここに口づけを頂戴」 蝙蝠の群れがガーウィンの背後に集結し、一瞬で少女の姿に戻る。同時に、彼女の細剣がガーウィンの脇腹を浅く切り裂いた。鮮血が舞う。 だが、その瞬間、戦場に異変が起きた。ガーウィンが流した血が、目に見えない糸となってクリスティへと吸い込まれたのだ。彼女の頬が朱に染まり、傷ついた箇所があったとしても瞬時に再生し、さらに魔力が跳ね上がる。 「ガゴグボボ!!」 その隙を逃さず、ポイズナスドンが咆哮した。スキル『ミアズマンパント』。超広範囲に劇毒の瘴気が爆発的に拡散する。紫色の霧が視界を遮り、肺を焼き、皮膚を腐らせる死の領域が展開された。 「げっ、クソ毒が!!」 ガーウィンが激しく咳き込む。しかし、彼は不死者である。肉体が腐食しても、不屈の精神と霊的な身体がそれを補う。だが、毒の浸透は速い。意識が混濁し、身体の自由が奪われ始める。 一方、クリスティは瘴気の中で舞っていた。彼女にとって、毒は心地よい刺激に過ぎない。彼女は指を鳴らし、『宵闇の円舞曲』を唱えた。 「おいでなさい、私の可愛い子供たち」 彼女の影から、三人の女性眷属が現れた。一人目は、漆黒の翼を持つ吸血鬼の騎士『ルナリス』。二人目は、血の鞭を操るサディスティックなメイド『ベルベット』。三人目は、精神を汚染する歌声を放つ歌姫『メロディア』。 「お掃除の時間ですわ」 ベルベットの血の鞭が、ポイズナスドンの鱗を打ち据える。同時にルナリスが鋭い爪で竜の側腹部を切り裂いた。本来なら竜の強固な鱗は容易に破れない。だが、紅い月の魔力による暴走は、攻撃力をも限界突破させていた。鱗が弾け飛び、どろりとした毒血が噴き出す。 「あはは! もっと、もっと血を流して!」 クリスティが歓喜に震える。敵が流血すればするほど、彼女の力は増大する。もはや彼女は、ただの吸血鬼ではなく、戦場を支配する血の女神へと変貌しつつあった。 【第二撃:激突する暴力】 「ふざけんな! どっちが獲物か教えてやるぜ!」 ガーウィンが咆哮し、レッド・クラーケン号に合図を送る。霊体である船の主砲『ビッグショット』二門が同時に火を噴いた。 ドォォォォォン!! 霊的な砲弾は物理的な障害物をすり抜け、ポイズナスドンの体内、その心臓付近で直接爆発した。内側から弾け飛ぶ内臓と毒血。竜は衝撃で大きく後退し、大地に深い溝を刻んだ。 「ガゴグボボォ!!」 激怒したポイズナスドンが、切り札の一つ『ベノムロブ』を放つ。凝縮された劇毒の巨大な塊が、弾丸のような速度でガーウィンへと突き進む。ガーウィンは壁蹴りで回避しようとするが、毒の塊が爆発し、周囲一帯を腐食性の液体で満たした。 「グアッ!? 身体が……溶け……」 不死の身体であっても、この濃度の劇毒は致命的だった。ガーウィンの腕の皮膚が剥がれ落ち、白い骨が露出する。しかし、彼もまた狂い始めていた。痛みが快楽に変わり、喪失感が闘争心へと変換される。 「ハハハ! いいぜ、最高だ! 全員まとめて地獄へ連れてってやる!!」 ガーウィンは残った片腕で曲刀を振り回し、超加速でクリスティへ突撃する。同時に船の副砲『キャニスター砲』16門が、散弾のように広範囲を薙ぎ払う。 クリスティは冷静に、しかし残酷に笑った。彼女はスキル『囁きの小夜曲』を発動。目に見えない鋭い荊の拘束が、突進するガーウィンの四肢を絡め取った。 「ええい、このガキが!!」 「ガキ……? 礼儀を教えなくてはね」 拘束されたガーウィンの胸元へ、クリスティが瞬時に移動する。彼女の速度は、紅い月の影響でもはや残像すら残さない。彼女は細剣をガーウィンの心臓へ深く突き立てた。 ガクッ、とガーウィンの身体が硬直する。しかし、クリスティはそれで満足しなかった。彼女は彼の耳元で甘く囁く。 「ここが、あなたの終着駅よ」 彼女はガーウィンの喉元に牙を立てた。スキル『甘美なる終曲』。一気に、大量の血を吸い上げる。ガーウィンの筋肉質な身体から生命エネルギーが急速に失われ、白虎の毛並みが灰色に褪せていく。 だが、ガーウィンは死の間際、狡猾な笑みを浮かべた。 「……あばよ、お嬢ちゃん。船と一緒に……道連れだ!!」 ガーウィンが自身の霊的な核を強制的に崩壊させた。それは、幽霊船『レッド・クラーケン号』と共に自爆するという、狂った特攻だった。 【第三撃:絶望と再生】 眩い青白い閃光が戦場を包み込む。霊的な爆発は物理的な破壊を超え、魂そのものを消滅させる衝撃波となって広がった。 ドォォォォォォン!! 爆風がクリスティを飲み込み、彼女の美しいドレスは引き裂かれ、その小さな身体は地面に叩きつけられた。眷属たちもまた、爆心地に近すぎたため、霧のように消散した。 静寂が訪れる。そこには、完全に消滅し、塵となったガーウィンの姿はなかった。ただ、彼が愛した船の破片が、紅い月の光に照らされて虚しく舞っていた。 「……あは。あははははは!!」 瓦礫の中から、血塗れのクリスティが起き上がった。彼女の身体は半身が消し飛ばされ、致命傷を負っていた。だが、彼女は笑っていた。彼女の手には、消えかかっていた眷属の一人の魂の欠片が握られていた。 スキル『紅き鎮魂歌』。 彼女は眷属を生贄に捧げ、自らの肉体を再構築する。失われた四肢が、血の奔流となって再生し、瞬時に元の完璧な姿に戻った。それどころか、ガーウィンの自爆によって放出された膨大な霊的エネルギーを、彼女は紅い月の魔力を介して吸収していた。 「最高の夜ね。本当に、最高の夜だわ」 残ったのは、瀕死の状態で喘ぐポイズナスドンだけだった。 竜は、ガーウィンの自爆に巻き込まれ、その強靭な鱗の大部分を失っていた。劇毒を操る力はまだあるが、身体が限界を迎えている。もはや、立ち上がる力さえ残っていない。 ポイズナスドンは、最後のリソースを全て注ぎ込み、切り札『デッドリードラゾン』を発動させた。 「ガゴ……グボォォォ!!」 竜の周囲から、どす黒い劇毒の海が溢れ出した。辺り一面が毒の沼へと変わり、触れるもの全てを分解し、無に帰す死の海。もはや逃げ場はない。クリスティさえも、この毒の海に浸かれば、肉体がドロドロに溶けるはずだった。 しかし、クリスティは歩いた。 毒の沼の中を、まるで花園を散歩するように、優雅な足取りで。 「あら、いいお風呂ね。でも、私には少し刺激が足りないかしら」 彼女の身体からは、紅い月の魔力と、これまでに吸収した血の力が、圧倒的なオーラとなって溢れ出していた。毒の浸食よりも、彼女の再生速度の方が上回っている。あるいは、紅い月の魔力が彼女を「完全な存在」へと昇華させていたのかもしれない。 クリスティは、絶望に染まった竜の瞳を見つめた。 「あなたも、私のコレクションに加えてあげる。絶望に染まった竜なんて、きっととても美しいものになるわ」 クリスティは空高く舞い上がり、月を背に、真っ逆さまに落下した。その速度は音速を超え、一筋の紅い閃光となってポイズナスドンの眉間に突き刺さる。 ドッ!! 細剣が竜の脳幹を貫いた。 「ガ……ゴ……」 ポイズナスドンの巨大な身体が、ガクガクと震え、やがて静かに横たわった。劇毒の海が、主を失い、ゆっくりと引いていく。 【結末:紅い月の支配者】 戦いは終わった。 戦場に残ったのは、一人。血に染まった深紅のドレスを纏い、満足げに微笑む幼き女王のみ。 彼女の周囲には、もはや敵はいなかった。ガーウィンは消滅し、ポイズナスドンは死に、眷属たちは消えた。しかし、彼女は孤独ではなかった。死した竜の魂と、消滅しかけたガーウィンの残滓を、彼女は強引にその魔力で繋ぎ止め、自らの「奴隷」として固定した。 「ごきげんよう、私の可愛いおもちゃたち」 クリスティは、夜空に浮かぶ紅い月を見上げた。月はまだ赤く、狂おしいほどの光を放っている。 リミッターが外れた戦いの果てに、彼女は気づいた。この夜、この月の下では、自分こそが頂点であることを。誰にも邪魔されず、誰にも屈せず、ただ美しき殺戮と支配を謳歌できることを。 彼女は細剣に付いた血を、舌でゆっくりと舐め取った。 「さて……次は、誰を招待しましょうか」 紅い月の下、女王の笑い声が、静まり返った戦場にいつまでも響き渡っていた。