空を塗り潰すのは、どろりとした血のような紅い月。 その不気味な輝きは、地上の理(ことわり)を歪め、理性を焼き切り、底に眠る獣を呼び覚ます。通常であれば、そこに集う三者は互いへの警戒や、戦う理由の模索に時間を費やしただろう。しかし、今夜は違う。紅い月の魔力が、彼らの精神に直接作用し、「殺し合うこと」への純粋な渇望へと変換させていた。 「……ふむ。心地よいな。思考が単純になり、迷いがない。アンタさんもそうだろうか」 白髪を夜風に揺らし、黒いローブを纏った男、コキは淡々と呟いた。常に疑い深く、冷静な彼だが、その瞳には今、見たこともない残酷な愉悦が宿っている。リミッターが外れた彼の魔力は、静かに、しかし膨大な圧力となって周囲の空気を震わせていた。 「へへっ、なんか分かんねーけど、身体が軽いぜ! 最高にハイな気分だ!」 水色の毛並みを持つ狼の獣人、よっしぃが不敵に笑う。彼の持つ「バグ」という特異体質が紅い月の魔力と共鳴し、世界への干渉力が異常なまでに高まっていた。彼は既に「リズム」を発動させ、自身のステータスを強制的に跳ね上げている。身体から立ち昇るオーラが、物理的な衝撃波となって地面を砕いていた。 「……理屈はいい。この昂ぶり、この衝動。全てをこの剣にぶつけ、斬り伏せるのみ! 行くぜ、相棒!!」 学ランを翻し、天叢雲剣を構えた少年、威座内(イザナイ)が咆哮した。不屈の信念を持つ彼にとって、この暴走気味の魔力は、最高の「試練」であり「燃料」であった。彼の背後には、紅い月の光を吸い込んで巨大化した神々の影が蠢いている。 三者の間に、もはや言葉による交渉の余地はない。あるのは、互いの命を奪い合った者だけが到達できる絶頂への渇望のみ。 「まずは、まとめて焼き尽くすとしようか」 コキが静かに手をかざした。瞬間、彼の魔力が爆発的に膨張し、炎に似た――しかし、熱ではなく「浸食」を目的とした紅い魔力の奔流が、波となって二人を襲う。本来であればじわじわと体力を奪うはずの魔法が、紅い月の加護により、視界を埋め尽くす巨大な津波へと変貌していた。 「甘いぜ!!」 よっしぃが「アクション」と「弾幕」を同時に発動。水色の閃光となって紅い波をすり抜け、超高速のタックルでコキの懐に飛び込む。同時に、威座内もまた天叢雲剣を振り抜いた。 「砕けろ! 海坊主!!」 威座内の呼びかけに応じ、虚空から巨大な海坊主が顕現。紅い海のような衝撃波が、コキとよっしぃの両方を押し潰そうと襲いかかる。物理的な破壊力と、神使の権能が混ざり合った一撃は、大地を数百メートルにわたって陥没させた。 ドォォォォン!! 爆煙の中、コキは背中の妖精の羽を羽ばたかせ、軽やかに上空へと逃れていた。物理攻撃を70%の確率で回避するという彼の特異性が、暴走した魔力によってさらに強化されている。まるで未来が見えているかのように、彼はよっしぃの拳も、海坊主の衝撃も、紙一重でかわし続けた。 (……面白い。この感覚、ワタクシの計算を遥かに超えている。もっとだ、もっと絶望的な力をぶつけてくれ) コキは空中で指を鳴らした。すると、先ほど放った「浸食の炎」が、よっしぃと威座内の足元から、触手のように伸び上がり、彼らの身体にまとわりつく。燃えることはない。しかし、触れた場所から生命力が、魔力が、存在そのものが、急速に吸い上げられていく。 「チッ……! しつこい魔法だ! だが、俺の信念はこんなものでは折れんぞ!」 威座内は、身体を蝕む不快感に顔を歪めながらも、不敵に笑った。彼は瞬時に最適解を導き出す。単体での攻撃ではなく、複数の神使を同時に展開し、戦場を飽和させる戦術だ。 「惑わせろ玉藻前! 乱せ白兎! そして――裁け阿修羅!!」 黄金の狐と白い兎が戦場を駆け巡り、コキの精神と視覚を攪乱する。そしてその隙を突き、憤怒の化身である阿修羅が、紅い炎を纏った拳を突き出した。一撃が空気を切り裂き、衝撃波だけで雲を消し飛ばす。 「逃がさないぞ!」 同時に、よっしぃが「合体」スキルを発動。氷の結晶と念力を組み合わせた超巨大な氷槍を形成し、それを「シューティング」の命中率補正でコキの心臓一点に向けて射出した。 上空からの氷槍。地上からの阿修羅の拳。そして足元から迫る浸食の炎。 絶体絶命の状況。しかし、コキの顔には冷徹な微笑みが浮かんでいた。 「無駄だと言ったはずだ。アンタさんたちの攻撃は、全て『見えている』」 コキは最小限の動作で、氷槍をかわし、阿修羅の拳を紙一重で回避した。しかし、紅い月の魔力による「暴走」は、彼に過剰な自信と攻撃性を与えていた。彼は回避した反動を利用し、全魔力を込めた最大出力の浸食魔法を、一点に凝縮して撃ち下ろした。 「消えろ」 紅い光の針が、威座内とよっしぃの間に降り注ぐ。それはもはや魔法というよりは、天から降り注ぐ絶望の雨だった。地面が融解し、周囲の森が瞬時に枯れ果てる。凄まじい衝撃と共に、二人は吹き飛ばされた。 「がはっ……!!」 よっしぃが血を吐き、地面を転がる。身体能力の向上で耐えたものの、浸食魔法が彼の内側にまで入り込んでいた。しかし、彼は「RP」スキルを持っていた。ダメージを受ければ受けるほど、彼のレベルは上昇する。 (あはは……! 痛え! 痛すぎるぜ! でも、力が……力が溢れてくる!!) よっしぃの瞳が紅く染まる。もはや獣人の理性を捨て、純粋な「バグ」と化した彼は、自身のステータスを限界まで引き上げた。「リズム」を二重に掛け合わせ、身体能力を常軌外の域まで加速させる。水色の毛並みが、摩擦による熱で白く発光し始めた。 「これで終わりだ!!」 よっしぃが地を蹴った。その速度は音速を超え、空間そのものを歪ませる。コキが回避しようとした瞬間、よっしぃの拳がコキの腹部にめり込んだ。回避率70%。しかし、よっしぃの攻撃回数が、その確率を塗り替えた。一秒間に数百回の打撃が、コキの身体を襲う。 ドゴォッ! バゴォッ!! ズガガガガッ!! 「……っ!? ぐあぁっ!!」 防御力0のコキにとって、物理攻撃は致命傷となる。ローブが引き裂かれ、白い肌にどす黒い痣が刻まれていく。肺から空気が押し出され、血が口端から溢れた。しかし、コキは絶望しなかった。むしろ、死の恐怖がない彼は、この痛みを「最高の刺激」として受け入れた。 (ああ……いい。これだ。この感覚こそが、生きているということだ!) コキはよっしぃの腕を掴み、自らの身体を盾にして、至近距離から最大出力の魔力を爆発させた。自爆に近い、捨て身の攻撃。 ドォォォォォン!! 紅い爆炎が二人を包み込む。よっしぃは吹き飛ばされ、身体の半分が浸食魔法によってドロドロに溶けかかっていた。だが、彼は笑っていた。死の間際にあっても、バグった精神は快楽に支配されていた。 「……へへっ、いい突き合いだったぜ、白髪の……」 よっしぃの身体が、紅い月の光に溶けるようにして消えていく。一人目の脱落。しかし、戦いはまだ終わっていない。 残ったのは、満身創痍のコキと、静かに剣を構え直す威座内だった。 威座内の学ランはボロボロになり、至る所から血が流れている。だが、その瞳に宿る「信念」の炎は、紅い月の光よりも強く燃えていた。彼は悟っていた。この戦いは、もはや技術や戦略のぶつかり合いではない。どちらがより強く「殺したい」と願い、どちらがより深く「絶望」に耐えられるかの勝負であると。 「……ふふ。あのアホな狼は消えたか。あとはアンタさんだけだ、少年」 コキは激しく咳き込みながら、ふらふらと立ち上がった。身体の至る所が壊れている。だが、紅い月が彼にさらなる魔力を供給し続けていた。もはやリミッターなど存在しない。彼の魔力は黒い炎のように渦巻き、周囲の空間を浸食し始めている。 「俺は、負けない。俺の信念は、どんな境地にあっても不屈だ!!」 威座内が天叢雲剣を高く掲げる。彼の人生で最大の魔力、そして神への祈りが、一つの形となる。 「天岩戸が開かれる……輝け、天照大神!!!」 轟音と共に、夜空の紅い月を塗り潰すほどの純白の光が降り注いだ。太陽神の権能。全てを浄化し、全てを焼き尽くす究極の光。紅い月の魔力さえも、この絶対的な光の前では霧散していく。 「……っ! バカな、この威力……!!」 コキは初めて、本能的な恐怖に似た感情を抱いた。しかし、それは恐怖ではなく、究極の破壊に対する歓喜だった。彼は残った全ての魔力を、自身の身体を維持するためではなく、唯一の「盾」となる浸食魔法の壁に変えた。 「消えろ! 全て消えてしまえ!!」 白と紅。二つの極端な力が衝突し、世界が白銀に染まった。衝撃波が地平線の彼方まで届き、山々が消え、大地が蒸発する。理性を捨てた二人の全力衝突は、もはや神々の喧嘩に等しかった。 だが、結末は残酷だった。 コキの魔法は「浸食」であり、時間をかけて相手を弱らせるものだ。対して、威座内の召喚した天照大神の光は「即時的な消滅」を司る。暴走した魔力による威力増幅こそ凄まじかったが、属性の相性が決定的な差を生んだ。 パキィィィィン!! コキの魔力の壁が、ガラスのように砕け散った。 「あ……」 コキの視界が白くなる。痛みさえ感じない。ただ、自分の身体が、粒子となって空に溶けていくのが分かった。彼は最期に、空に浮かぶ紅い月を見上げた。 (……ああ、本当に、殺し合うにはちょうどいい夜だった……) コキの身体は完全に光に飲み込まれ、塵一つ残らず消滅した。死への恐怖がない彼にとって、それは心地よい眠りに落ちるような感覚だったかもしれない。 静寂が訪れた。 光が収まり、そこにはボロボロになった一人の少年だけが立っていた。威座内は、天叢雲剣を杖代わりにし、激しく肩で息をしていた。周囲には、かつての森の面影などない。ただ、赤く染まった荒野が広がっているだけだった。 彼は空を見上げた。紅い月は、まだそこにいた。しかし、激闘を終えた彼の心からは、先ほどまでの殺意や狂気が消え、深い疲労感と、かすかな喪失感が押し寄せていた。 「……勝った、のか」 答えをくれる者はもう誰もいない。ただ、紅い月の冷たい光が、生き残った唯一の勝者を、静かに照らしていた。