序章:白銀の迷い子と、眠れる神の掌 意識が浮上したとき、最初に感じたのは、肺を圧迫するような重苦しい湿気と、鼻を突くカビの臭いだった。 (……ここは、どこ?) エルシア・ノクティスは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、コンクリートの冷たい壁と、天井から滴り落ちる汚い水滴。暗く、ジメジメとした路地裏の袋小路だった。彼女は起き上がろうとしたが、自分の体に異変があることに気づいた。 腕を伸ばそうとした先にあったのは、白く柔らかな毛に覆われた、短くて太い「前足」だった。 「……っ!?」 驚いて声を上げようとしたが、喉から漏れ出たのは、凛とした少女の声ではなく、「にゃあ」という高く、か細い鳴き声だった。 エルシアは混乱した。彼女は「白夜の聖女」として、常に冷静に、静かに事態を分析することを信条としている。しかし、今の状況は分析の範疇を超えていた。視線を下げれば、自分の体は雪のように白い毛に包まれており、後ろにはピンと立った長い尻尾がついていた。白銀のロングヘアは、そのまま猫の白い被毛へと変わっていたらしい。そして、愛用の黒い剣「月光」も、身に纏っていた黒いロングジャケットも、どこにもなかった。 ただの、小さな白い猫。それが今の彼女の姿だった。 (どうしてこんなことに……。誰の仕業? それとも、何らかの呪いか?) 絶望感に襲われたわけではない。ただ、あまりに唐突な変化に、思考が追いつかなかった。エルシアは周囲を見渡したが、そこは完全に閉ざされた空間であり、自力で脱出するのは困難そうだった。おまけに、空腹が波のように押し寄せ、小さな体がガタガタと震え出す。体温が奪われていく感覚は、彼女がスキル「白夜」を使った時のあの心許なさに似ていた。 冷たい雨が降り始めた。濡れた毛皮が肌に張り付き、体温をさらに奪う。エルシアはうずくまり、ただ静かに、誰かが通りかかるのを待つしかなかった。聖女としての矜持が、惨めに鳴き叫ぶことを拒んでいたが、生存本能は抗えなかった。 「にゃあ……。にゃあ……」 情けない声だった。しかし、その小さな叫びは、運命的にある人物の耳に届いた。 「ふぇ……? なあに、これ……。しろい、ふわふわ……」 上から降ってきたのは、ひどく眠たげで、おっとりとした声だった。エルシアが顔を上げると、そこには奇妙な格好をした少女が立っていた。 ピンク色の、ぶかぶかのパジャマ。片手には大きな枕を抱え、おでこにはアイマスクをずらして乗せている。目は半分閉じていて、今にもその場に崩れ落ちて眠りそうだった。しかし、その足取りはどこか浮世離れしており、彼女のパジャマの下には、隠しきれない小さな羽のような膨らみが見えた。 少女――ぐみんは、ぼんやりとした表情でエルシアを見つめていた。そして、ゆっくりと手を伸ばし、冷え切ったエルシアの体を抱き上げた。 「さむそう……。おうちに、いこ……」 抱き上げられた瞬間、エルシアは驚いた。少女の体温は、信じられないほど心地よく、温かかった。それは聖女である彼女が、誰かを癒やす時に込める光の温もりよりも、もっと根源的で、深い安らぎを伴う温かさだった。 エルシアは抵抗しようとしたが、あまりの心地よさに、いつの間にか喉をごろごろと鳴らしていた。意識が混濁し、深い眠りに誘われる。それが、彼女の新しい生活の始まりだった。 「きみのおなまえ……『しろまる』に、するね……。むにゃ……」 そう呟いた少女は、エルシアを抱いたまま、そのまま心地よさそうに欠伸をした。 聖女エルシア・ノクティス。彼女はこうして、「しろまる」という名を与えられ、正体不明の眠れる少女に拾われたのである。 第一章:微睡みの城と、甘い誘惑 しろまる――もとい、エルシアは、自分が連れてこられた場所が普通の家ではないことにすぐに気づいた。そこは、物理法則などという概念がどこかに置き忘れられたような、不思議な空間だった。部屋の壁は淡いピンク色で、床には雲のように柔らかい絨毯が敷き詰められている。そして何より、至る所にベッドやクッションが転がっていた。 (……この少女、一体何者なのだ?) エルシアは、クッションの上にちょこんと座り、飼い主となった「ぐみん」を観察していた。ぐみんという少女は、本当に、信じられないほどに眠っていた。彼女は起きている時間よりも、寝ている時間の方が圧倒的に長い。そして、起きていても半分は寝ぼけている。 「しろまる……。おなかすいた……? これ、たべて……」 ぐみんがぼんやりと手をかざすと、空間がゆらりと歪んだ。すると、何もない空中から、見たこともないほど豪華なケーキや、香り高い魚の料理が次々と出現した。魔法の触媒も、詠唱もない。ただ「欲しい」と思っただけで、物質を創造しているように見えた。 エルシアは戸惑った。彼女の知る魔法とは根本的に異なる。これは創造魔法というよりは、世界そのものを書き換えているような感覚だ。 (私は、恐ろしい存在に拾われてしまったのかもしれない) そう警戒しつつも、目の前の魚料理から漂う香ばしい匂いに、猫の本能が激しく反応した。エルシアは理性で抑えようとしたが、喉が鳴り、口の中に唾液が溜まる。結局、彼女は誘惑に負け、丁寧に(猫なりに品格を保って)料理を口にした。 絶品だった。素材の味が最大限に引き出されており、一口食べるごとに、体中の細胞が活性化していくのがわかる。聖女として、自身の体力を削って人を癒やすことに慣れていた彼女にとって、このように「与えられる」快楽は新鮮で、そして恐ろしかった。 「おいしい……? よかった……。ねぇ、しろまる……。いっしょに、ねよう……?」 ぐみんが、とろんとした目でエルシアを見つめる。彼女は大きな枕を抱え、ベッドの上でゴロンと転がった。そして、しろまるを招くように、ぽかぽかとした腕を広げる。 (断る。私は聖女であり、このような不謹慎な誘いに乗るわけには――) そう思った瞬間、ぐみんが小さく呟いた。「スリープ……」 その言葉がトリガーとなった。エルシアの意識に、心地よい波のような感覚が押し寄せた。抗おうとする精神力など、霧のように消えていく。視界がゆっくりと白濁し、心地よい重力が彼女の体をベッドへと引き寄せた。 気づけば、エルシアはぐみんの腕の中で丸くなっていた。ぐみんの心臓の音が、ゆったりとしたリズムで聞こえてくる。ドクン、ドクンと、世界で一番安心できるメトロノームのように。 (……不覚だ。だが、この温もりは……悪くない) エルシアは、自分でも驚くほど深く、心地よい眠りに落ちていった。それは、聖女として常に緊張を強いられていた彼女が、生まれて初めて経験する「完全な休息」だった。誰かを救う必要も、誰かの期待に応える必要もない。ただ、一匹の猫として、温かな腕の中で眠るだけ。その贅沢さに、彼女の心はゆっくりと解きほぐされていった。 第二章:夢の境界線と、不可思議な日常 しろまるとしての生活が始まって数週間が経った。エルシアは、次第にこの奇妙な日常に馴染んでいった。といっても、彼女の内心は常に分析モードだった。この少女、ぐみんの正体は何なのか。神に近い存在なのか、あるいは異世界の住人なのか。 ある日、エルシアは驚くべき光景を目にした。ぐみんが、寝ながらにして「家事」をこなしていたのだ。 ぐみんは、完全に目を閉じて、激しく寝息を立てている。しかし、その周囲では、見えない力によって洗濯物が畳まれ、汚れた食器が宙を舞って洗われていた。それはまるで、彼女の無意識が世界を操作しているかのようだった。 (恐ろしい能力だ。意識せずとも環境を制御できるとは……) エルシアは、ふと自分の前足を見た。かつては、この手で黒い剣「月光」を握り、闇を切り裂いていた。白夜の光で傷ついた人々を癒やしていた。しかし今は、ただの白い毛玉だ。もどかしさが胸を突き上げる。もし今、敵が襲ってきたら? 私は、この眠り狂った少女を守ることさえできないのだろうか。 そんな彼女の思考を読み取ったのか、ぐみんが不意に目を開けた。いや、正確には、アイマスクを少しだけずらして、片目だけを覗かせた。 「しろまる……。なにか、かんがえてた……?」 「にゃうん」 (バレたか……) ぐみんは、ふわりと微笑むと、エルシアをひょいと抱き上げ、自分の頬にすり寄せた。猫にとって、これは至福の時間であるはずだが、聖女としてのプライドが「やめなさい」と叫んでいる。しかし、身体は正直に、喉をゴロゴロと鳴らしていた。 「しろまるは、いいこ……。いっしょに、ゆめを、みよう……」 そう言うと、ぐみんの周囲に淡い光が広がった。それはエルシアが使う「白夜」の光とは違い、もっと柔らかく、パステルカラーのような色彩を帯びた光だった。 気がつくと、エルシアは不思議な世界にいた。そこは、空に巨大なマシュマロが浮かび、川にはミルクが流れ、地面は一面の綿菓子でできている、文字通り「夢の中」だった。 「ここが、私の『スリープワールド』……。しろまる、いらっしゃい」 そこには、パジャマ姿ではない、少しだけ凛とした雰囲気のぐみんが立っていた。それでも相変わらず眠たそうに目をこすっているが。彼女は、この世界の主である。ここでは彼女の意志がすべてであり、彼女が望めば山をケーキに変え、海をジュースに変えることができる。 エルシアは、この夢の世界を歩きながら、あることに気づいた。この世界にいる間、彼女は「猫」であることにストレスを感じなかった。むしろ、この心地よい空間に溶け込み、ただ漂っていたいという欲求に支配されていた。 (私は……癒やされることに、慣れすぎてしまったのか?) 聖女として、常に「与える側」であった彼女にとって、ここまで無条件に「受け入れる側」になることは、ある種の恐怖だった。しかし、ぐみんが差し出した、虹色の魚の形のキャンディを口にしたとき、エルシアの心から最後の一片の緊張が消えた。 「いいんだよ……。ここでは、ねてていいの……」 ぐみんの言葉は、心に直接語りかけてくる。彼女は、しろまるがただの猫ではないことなど、気づいているのかもしれない。それでも、彼女はそれを気にせず、ただ「心地よくあれ」と願っているように感じられた。 夢から覚めたとき、エルシアの目には、わずかに涙が浮かんでいた。それが悲しみからなのか、それとも、あまりにも深い安らぎに触れたことによる浄化なのかは、彼女自身にも分からなかった。 第三章:静寂の午後と、聖女の祈り 季節が移り変わる感覚さえ曖昧な空間だったが、ある日の午後、エルシアは、ぐみんの様子がいつもと違うことに気づいた。 ぐみんは、ベッドの上で丸くなっていたが、その寝息が浅かった。時折、小さく眉をひそめ、うなされているように見えた。彼女の周囲で自動的に行われていた家事も止まり、部屋の中には重苦しい静寂が広がっていた。 (どうしたのだ? ぐみん) エルシアは、心配になって彼女のそばに寄り添った。ぐみんの額に、小さな汗の粒がついている。彼女は不老不死であり、神に近い存在だと思っていたが、それでも「悪夢」を見ることはあるらしい。 ぐみんの意識の中では、おそらく、彼女が抱える「孤独」が形になって現れていたのだろう。あまりに強すぎる力、誰も自分を理解してくれない絶望、永遠に続く眠りへの渇望。それらが泥のような闇となって、彼女を飲み込もうとしていた。 エルシアは、自分の無力さに歯噛みした。今の自分には、武器もないし、物理的な力もない。しかし、彼女にはまだ、魂に刻まれた「聖女」としての本能が残っていた。 (私は……。私は、白夜の聖女だ) 彼女は、ぐみんの胸の上に前足を置いた。そして、記憶の中にある、あの光のイメージを強く描き出した。猫の身体では、かつてのような大規模な魔法は使えない。それでも、たった一人(あるいは一匹)を救うための、ささやかな祈りなら叶えられるかもしれない。 (黒い影を光に変え、疲労を癒やす……。私のすべてを捧げても構わない。この温もりが、消えてほしくない) エルシアは、全力で意識を集中させた。彼女の小さな白い体から、淡い、しかし純粋な白銀の光が漏れ出した。それは「白夜」の極めて小さな断片。猫という制限された器で出せる、最大限の出力だった。 光は、ぐみんの胸から心へと染み込んでいく。同時に、エルシアの体温が急激に奪われていった。精神力が削られ、意識が遠のく。しかし、彼女は手を離さなかった。むしろ、もっと深く、もっと強く、その闇を塗りつぶそうとした。 (起きてくれ。起きて、またあの、締まりのない顔で私を呼んでくれ) どれほどの時間が経っただろうか。ふっと、ぐみんの呼吸が整った。 「……んっ……」 ぐみんがゆっくりと目を開けた。彼女の瞳には、先ほどまでの不安な色はなく、ただ心地よいまどろみが戻っていた。彼女は、自分の胸の上で、ぐったりとして意識を失っている白い猫を見下ろした。 「しろまる……? どうしたの……。つかれてる……?」 ぐみんは、不思議そうな顔をしていたが、すぐに状況を察したようだった。彼女は、優しくしろまるを抱き上げると、その小さな体に、自分の持つ最大級の回復エネルギーを注ぎ込んだ。 「ありがとう……。いいこ……。たくさん、ねようね……」 ぐみんがスキル「スリープ」を発動させると、辺り一面が極上の安らぎに包まれた。エルシアは、意識が戻ったとき、自分が最高にふかふかの特製クッションに包まれていることに気づいた。そして、隣ではぐみんが、幸せそうにすやすやと眠っていた。 (……まったく、世話のかかる飼い主だ) エルシアは呆れたように溜息をついたが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。彼女は、自分がもう一度人間に戻りたいと思っているのか、それともこのまま猫として過ごしたいと思っているのか、自分でも分からなくなっていた。 ただ一つ確かなのは、彼女はこの不完全で、眠たげで、けれど誰よりも温かい少女のそばにいたいということだけだった。 エルシアは、ぐみんのパジャマの裾に頭を預け、ゆっくりと目を閉じた。 外の世界で何が起きているのか、自分がなぜ猫になったのか。そんなことは、今はどうでもよかった。今はただ、この心地よい静寂の中で、愛する飼い主と共に、深い微睡みの海へと沈んでいきたい。 「にゃあ……(おやすみ、ぐみん)」 白銀の猫は、幸せな夢に誘われ、ゆっくりと深い眠りに落ちていった。そこには、もはや聖女としての重責も、戦いの日々もなかった。ただ、温かな陽だまりのような、永遠に続く午後の時間だけが流れていた。