##チームA 場虎亜県の薄暗い路地裏。湿り気を帯びたコンクリートの壁に囲まれ、行き止まりの静寂が支配するその場所で、カナ・アーリアは一人、膝を抱えてうずくまっていた。袖の長いパーカーに身を包み、長い前髪が視界を遮る。彼女はいつものように、自分という存在の希薄さに悩み、卑屈な笑みを浮かべながら、誰にともなく謝罪の言葉を呟いていた。 「うぇ~ん…バカでグズでごめんなさい…私なんて、ここにいても誰も気づかないし、消えちゃったほうがいいですよねぇ……」 そのとき、空間が歪んだ。陽炎のような揺らぎが発生し、そこから一人の少女が静かに歩み出てきた。彼女はカナ・アーリアと全く同じ顔をしていた。しかし、纏っている空気は決定的に異なっていた。 そこに立っていたのは、「別の人生を歩んだ」カナ・アーリアだった。彼女の服装は、今の彼女が着ているだらしないパーカーではなく、仕立ての良い、厳格な黒い制服に身を包んでいた。胸元には、この世界では聞いたこともない権威ある組織の徽章が光っている。彼女は不良グループに流れ着くのではなく、幼少期から英才教育を受け、ある特権階級の組織で「若き指導者」としての地位を確立していた世界線からの来訪者であった。 平行世界のカナ・アーリアは、地面にうずくまる自分を冷ややかな、しかしどこか慈しむような眼差しで見下ろした。その瞳には、卑屈さなど微塵もなく、絶対的な自信と、他人を支配することに慣れた者の余裕が宿っている。 「ふふ……。なんて情けない姿かしら。それが『私』という個体の可能性の一つなのね。泥にまみれ、誰かに認められることだけを願って泣き叫ぶ。滑稽だわ。けれど、その絶望的なまでに低い自己評価こそが、私の知る『アイデンティティ』の原点なのかもしれないわね」 平行世界の彼女は、優雅な動作で歩み寄り、うずくまるカナ・アーリアの顎を指先でクイと持ち上げた。その仕草には、相手を型に嵌め込み、掌握しようとする強烈な意志が込められていた。 「いい? あなた。あなたが今、自分の価値をゼロだと思っているなら、それは正解よ。でも、そのゼロを起点にして、他人を自分の色に染め上げる快感を知らないのは、あまりに勿体ないわ。私はこの世界で、最高の地位を手に入れた。知恵と打算、そして他者の同一性を利用して、誰も私の指先一つで動かせない状況を作り上げたの。あなたはただの『不良の頭脳担当』? 噴き出してしまうわ。私の世界では、私は都市の理を操る執行官なのよ」 カナ・アーリアは、目の前にいる「完成された自分」を見て、激しい衝撃を受けていた。彼女は、自分が憧れていた「誰かに認められること」の究極形が、他者を支配し、不可侵の地位に登り詰めることだったのかもしれないと感じた。同時に、その冷徹な眼差しに、底知れない恐怖と、抗いがたい憧れを抱いた。 (……すごい。この人は、私のなりたかった、あるいはなり得たかもしれない『完璧な私』だ。卑屈な私を笑いながら、同時に理解してくれている。こんな風に、自分を完全に肯定して、世界を支配できる力が、私の中にも眠っていたっていうことなの……?) 一方、平行世界のカナ・アーリアは、目の前の自分を見たとき、胸の奥に不思議な感情が芽生えていた。彼女は頂点に立ち、すべてを手に入れたが、同時に「誰にも理解されない」という孤独に塗り潰されていた。しかし、目の前のカナ・アーリアが持つ、あの泥臭い優しさと、仲間を想うがゆえに泣くという純粋さは、今の自分には決定的に欠けているものだった。 (……不便で、不自由で、惨めな私。でも、その瞳にはまだ、誰かを信じようとする光がある。私はすべてを掌握したが、心から信頼できる『仲間』などという幻想をとうに捨てた。この哀れな私が、誰かに必要とされ、居場所を見つけて泣いている。それは、私が捨ててきた、最も贅沢で、最も人間らしい幸福なのかもしれないわね) 二人は、互いに触れ合うことができなかった。不可視の壁があるかのように、手が届く距離にありながら、決して交わることはない。それは、異なる運命を辿った魂が、一瞬だけ共鳴した奇跡のような時間だった。 平行世界のカナ・アーリアは、最後にふっと小さく笑い、消えゆく空間へと足を踏み入れた。 「また会いましょう、愛しい私。次はあなたが、私を追い越して、さらに高い場所から私を見下ろしてくれることを期待しているわ」 彼女が消えた後、路地裏には元の静寂が戻った。カナ・アーリアは、まだ震える手で自分の袖を握りしめていた。涙は止まっていたが、その瞳には、これまでになかった小さな、しかし確かな「自信」という名の火が灯っていた。彼女は、自分がバカでグズであることは変わらないが、それでもどこかで「自分は、もっと大きなことができるのかもしれない」という可能性を、平行世界の自分が残してくれたことに気づいたのである。 ##チームB 場虎亜県の路地裏。チームAがいた場所とは全く異なる、ゴミ捨て場の影が濃い狭い路地だった。そこには、青い長い髪をなびかせ、好奇心いっぱいに辺りを見回すユーナ・ドーアンがいた。彼女は小さな体でぴょんぴょんと跳ねながら、どこかにあるはずのサッカーボールを探していた。 「あーあ、どこいっちゃったのかなぁ。誰かが見つけて持ってっちゃったのかな!? でも、また見つけたら今度は絶対離さないんだから!」 無邪気に笑う彼女の背後で、空間が不自然にねじれた。そこから現れたのは、もう一人のユーナ・ドーアンだった。しかし、その姿は今の彼女とは大きく異なっていた。 現れた平行世界のユーナ・ドーアンは、身体的には同じ小柄な少女だったが、その表情からは、今の彼女が持つ天真爛漫な明るさが完全に消え失せていた。彼女の瞳は濁り、深い絶望と諦念に染まっている。服装は、ボロボロに擦り切れた白い患者服のようなものを纏っており、手首には重々しい拘束具の跡が赤黒く刻まれていた。 彼女の世界では、ユーナ・ドーアンが持つ「究極の身体能力」が、制御不能な「災厄」としてのみ扱われていた。親に捨てられた後、彼女が流れ着いたのは不良グループではなく、超常能力者を管理・研究する冷酷な施設だった。彼女はそこで、人生のすべてを「制御」と「抑制」に費やされ、感情を殺し、ただの実験体として生きてきた。サッカーというスポーツに出会うこともなく、ただ自分の力が誰かを傷つける恐怖と、それを抑え込もうとする薬物投与の日々に塗り潰された世界線だった。 平行世界のユーナ・ドーアンは、目の前で元気に跳ねている自分を見て、呆然と立ち尽くした。彼女にとって、笑い、跳ね、何かを欲しがるという行為は、人生において最も遠い場所にある贅沢だった。 「……なんで、笑ってるの?」 絞り出すような声だった。それは、喜びを知らない者が、初めて光を見たときに出す、ひどく不安定な音だった。 「あたしは……ずっと、暗い部屋で、壁に向かって座ってた。力が溢れるたびに、電撃を流されて、薬を打たれて……。『お前は化け物だ』って、ずっと言われてた。なのに、どうしてあなたは、そんなに楽しそうに……。サッカー? それって、何? 誰かと一緒に、何かを追いかけるっていうのは……そんなことが、許される世界があるの?」 平行世界のユーナ・ドーアンは、ゆっくりと手を伸ばした。しかし、その手は震えており、今のユーナ・ドーアンに触れることはできなかった。彼女の指先は、触れられなかった不可視の境界線で止まり、ただ虚空を撫でた。 今のユーナ・ドーアンは、目の前の自分を見て、胸が締め付けられるような感覚に陥った。彼女は天性の寛容さを持っており、相手の悲しみを自分のことのように受け止めてしまう。平行世界の自分の瞳に宿る深い孤独と、失われた幼少期の記憶が、言葉を介さずに彼女の中に流れ込んできた。 (……うそだ。あたし、こんなに悲しい顔をしてたの? ずっと一人で、暗いところで泣いてたの……? そんなの、絶対におかしいよ。だって、今はこんなに楽しいし、みんなと一緒にいたいもん。このお姉ちゃん……あたしなのに、どうしてこんなに寂しそうなの。抱きしめてあげたい。一緒にサッカーしようって、誘ってあげたいよ……!) ユーナ・ドーアンは、泣きそうな顔で平行世界の自分に向かって叫んだ。 「大丈夫だよ! 今のあたしが、あなたのお分までいっぱい楽しむから! サッカーっていうのはね、すっごくすごいんだよ! ボールを蹴って、走って、ゴールに入ったとき、世界で一番最高な気持ちになれるんだから! あなたも、いつかそんな風に笑える日が来るはずだよ。だって、あたしたちは強いもん! どんなに暗いところだって、あたしたちの力があれば、ぶち壊して飛び出せるもん!!」 平行世界のユーナ・ドーアンは、その言葉を聞いて、久しぶりに目から涙をこぼした。それは絶望の涙ではなく、自分という存在が、どこか別の世界で「幸福であること」を許されていたことへの、救いのような涙だった。彼女は、自分を鼓舞するもう一人の自分の姿に、かつて自分が失ったはずの「希望」という名の光を見た。 「……ありがとう。あなたの声、あったかいね。あたしの世界には、そんな声はなかったけれど……。あなたが笑っていられるなら、それでいい。あなたが、あたしの分まで、誰よりも高く跳んで、誰よりも遠くへ走って。……本当の自由を、見つけてね」 平行世界のユーナ・ドーアンは、静かに微笑んだ。それは、彼女が生涯で初めて見せた、心からの微笑みだった。彼女の姿が、ゆっくりと光の粒子となって消えていく。 ユーナ・ドーアンは、彼女が完全に消えるまで、ずっと手を振り続けていた。彼女は、平行世界の自分が抱えていた計り知れない痛みを、自分の記憶の一部として刻み込んだ。そして、今自分が持っているこの力と、一緒にいてくれる仲間たちが、どれほどかけがえのない奇跡であるかを、改めて強く実感したのである。 「待っててね。あたしが、世界で一番強いサッカー選手になって、いつかあなたを迎えに行くから! そのときは、一緒にボールを蹴ろうね!」 路地裏に、再び静寂が戻る。しかし、ユーナ・ドーアンの心には、かつてないほどの決意が宿っていた。彼女は再び、地面を蹴って高く跳ね上がった。その跳躍は、いつになく力強く、まるで平行世界の自分をも連れていくかのように、高く、高く、青い空へと向かって伸びていた。