富士の嶺に、不吉なほどに澄み切った青空が広がっていた。日本の霊峰、その頂を望む険しい岩場に、一人の女が立っていた。 背中まで届く、月光を紡いだような長い銀髪。黄金色の瞳はすべてを見透かすように妖艶に細められ、身に纏った深緑色の軍服は、彼女の豊かな胸の曲線と引き締まった肢体をスタイリッシュに際立たせている。頭上に載せた黒色の軍帽が、風に飛ばされぬよう絶妙な角度で固定されていた。羽学連盟・浪漫部隊隊長、ロマ・フォウン。彼女の存在そのものが、戦場においては死の旋律であり、同時に見る者を惑わす至高の芸術であった。 「あら……ふふ。わざわざこんな高いところまで、私を討ちに来てくれたのかしら。熱心なことね」 ロマ・フォウンは、口元に艶然とした微笑を浮かべ、目の前に立つ奇妙な二人——いや、一人と一羽——に視線を向けた。 一人は、グレーの魔女帽を深く被り、黒いフリル付きのローブに身を包んだ少女、迷泉蘭霧。彼女はガタガタと小刻みに震え、白い十字架のネックレスを握りしめながら、今にも泣き出しそうな顔でロマ・フォウンを見上げていた。その銀色のショートヘアが、不安げな動きに合わせて揺れている。 そしてもう一羽は、至って悠然と空中に浮遊する白いシマフクロウ、コタン。多次元を旅し、あらゆる法則を嘲笑い、ただ「自由」であることのみを至上とする、理外の存在。 「ひ、ひぃっ……! ご、ごめんなさい……っ! わたし、本当はこんなことしたくないんですけど……でも、雇われたから……っ!」 蘭霧はおどおどとした口調で叫び、後ずさりする。その様子に、ロマ・フォウンはくすくすと喉を鳴らして笑った。 「いいのよ、可愛い子。恐怖に震えるその姿こそ、最高に可憐だわ。でも、恨みを抱いた闇の組織たちがあなたたちを雇ったということは、それだけ私が『恐ろしい女』だということでしょう? 期待に応えてあげなくてはね」 ロマ・フォウンの瞳に、冷酷な光が宿る。彼女はゆっくりと右手を上げた。その動作一つにさえ、見る者を惹きつける妖艶な色気が漂っている。 「まずは、その震えている小鳥さんからお願いしましょうか」 ロマ・フォウンが指先を向けた瞬間、空気が爆ぜた。彼女の掌から放出されたのは、純白の凝縮された魔力。地形への配慮から極限まで出力を絞った、いわば「手加減」された攻撃であったが、それでも人間であれば一瞬で蒸発するほどの高密度なエネルギー体である。 ドォォォォン!! 衝撃波が周囲の岩肌を削り、猛烈な風が吹き荒れる。しかし、爆煙が晴れた後、そこには何事もなかったかのように浮遊する白いシマフクロウ、コタンの姿があった。 「……あら?」 ロマ・フォウンが初めて意外そうに眉をひそめる。コタンはただ、小首をかしげて「ホー」と鳴いた。彼は、ロマ・フォウンの放った攻撃を「すり抜けて」いた。物理的な回避ではない。攻撃が当たったはずの空間に、コタンという存在だけが干渉されない形で透過していたのだ。 「ふふ、面白いわ。法則を無視する力を持っているのね。でも、それがどこまで通用するか……試してみましょうか」 ロマ・フォウンが再び手をかざす。今度は連続して小規模な魔力の弾丸を放つ。しかし、コタンは気ままに空を舞い、右へ左へと、あたかもそこに壁がないかのように、あるいは自分が幽霊であるかのように、あらゆる攻撃を無効化した。権能、法則、立場。そんなものはコタンにとっては何の意味も持たない。彼はただ自由であり、誰にも触れさせない。 その隙に、蘭霧が意を決したようにネックレスを握りしめ、叫んだ。 「ぺ、ペルディ・エラー!!」 固有魔法【迷い】の発動。蘭霧の視線がロマ・フォウンを捉えた。この魔法は殺傷力こそないが、極めて厄介な精神的・空間的な拘束である。対象が「辿り着こうとする場所」へ、永遠に辿り着けなくさせる。つまり、ロマ・フォウンが今から攻撃しようとする地点へ、あるいは攻撃そのものが目標に到達することを拒絶させる能力だ。 ロマ・フォウンが再び掌を突き出した瞬間、彼女は奇妙な感覚に襲われた。 (あら……? 狙った場所に、意識が届かない?) 攻撃を放とうとしても、そのベクトルが微妙にずれる。指先から出た魔力が、まるで迷路に迷い込んだかのように、標的の目の前で空回りし、あらぬ方向へ逸れていく。蘭霧の魔法が、ロマ・フォウンの「攻撃という目的」に対する到達権を奪ったのだ。 「……っ! これは面白い。私を迷わせるなんて、いい度胸をしているわね」 ロマ・フォウンの口調からは余裕が消えない。むしろ、未知の力に対する好奇心と、敵に対する冷酷な征服欲が混ざり合い、その妖艶さは増していく。彼女はふっと微笑むと、あえて攻撃を止め、ゆっくりと歩き出した。 「でも、お願い。魔法使いのお嬢さん。あなたのそのネックレス……それが力の源でしょう?」 「えっ……? な、なんでそれを……」 「見ればわかるわ。魔力がそこに集中しているもの。そして、あなたがどれだけ怯えていても、そのネックレスだけは離さない。……そういうものは、壊せばいいのよ」 ロマ・フォウンは瞬時に加速した。その速度は人間の動体視力を遥かに超えていた。蘭霧が悲鳴を上げる間もなく、ロマ・フォウンの指先が彼女の胸元へと伸びる。 「ひゃあああ!!」 蘭霧は慌てて回避しようとするが、ロマ・フォウンの動きは正確無比だった。同時に、コタンが鋭い爪を立ててロマ・フォウンの側頭部へ襲いかかる。自由な梟による、理の外からの奇襲。通常であれば、この一撃で誰であろうと脳漿をぶちまけるはずの攻撃だった。 しかし。 (遅いわ) ロマ・フォウンは、コタンの攻撃が届く直前、わずかに体を捻った。すり抜ける能力を持つコタンだが、攻撃を仕掛ける瞬間だけは、この世に「実体」を現さなければならない。その一瞬の隙を、彼女は見逃さなかった。 ガキィィィン!! ロマ・フォウンは空いた左手で、コタンの爪を軍服の袖で受け止めるのではなく、あえて掌で弾き飛ばした。驚異的な反射神経と筋力。そして同時に、彼女の右手が蘭霧のネックレスを捉えた。 「あ……」 蘭霧の瞳が絶望に染まる。パキィッ、という乾いた音が響いた。ロマ・フォウンの指先に込められたわずかな圧力が、白い十字架のネックレスを粉砕したのだ。 「あ、あああああ!!」 ネックレスが壊れた瞬間、蘭霧を包んでいた魔力の流れが途絶えた。同時に、かかっていた【迷い】の魔法が霧散し、ロマ・フォウンの拘束が解ける。 「ふふ、これで迷わなくて済むわね」 ロマ・フォウンは蘭霧の喉元に手をかけ、そのまま地面に叩きつけた。ドォォォォン! という激しい音と共に、蘭霧は意識を失い、地面に沈み込む。彼女の人生で最も恐ろしい時間は、ここから始まることになる。 さて、残るは白いシマフクロウ、コタンのみ。コタンは再び空中で回転し、気ままにロマ・フォウンの周囲を飛び回り始めた。相変わらず、ロマ・フォウンのどのような攻撃も彼には当たらない。すり抜け、すり抜け、嘲笑うように舞う。 「本当にしぶとい鳥ね。いいわ、あなたのその『自由』がどこまで続くか、試してあげましょう」 ロマ・フォウンは再び構えを取った。今度は単なる弾丸ではない。彼女は両手を広げ、周囲の大気から膨大な魔力を強制的に集束させ始めた。空が暗くなり、富士山の頂に黒い雷雲のような魔力の渦が巻き起こる。 「私の浪漫は、妥協を許さない。たとえ理の外にいる存在であろうと、私の前に立ちはだかるなら消えなさい」 彼女の掌に、太陽をも凌駕するほどの純白の光球が形成される。それが、彼女の代名詞とも言える絶技——『魔力砲』である。 この技は、単なる破壊エネルギーではない。空間そのものを消去し、そこに存在するあらゆる物質、概念、防御壁を「無」に帰す消滅の光だ。硬度や魔法耐性は関係ない。当たれば消える。ただそれだけの単純にして絶対的な理。 コタンは、これまで通り「すり抜け」で回避しようとした。彼は自信があった。自分は自由であり、何者にも縛られず、どんな攻撃もすり抜けてきた。しかし、ロマ・フォウンが放ったのは、単なる「攻撃」ではなかった。 「消えなさい」 ズガガガガガガガガァァァァン!!!!! 放たれた魔力砲は、もはや光の線ではなく、巨大な柱となって富士山の頂を飲み込んだ。ロマ・フォウンは手加減していた。もし本気で放てば、富士山どころか静岡県と山梨県の一部が地図から消えていただろう。だが、それでもその威力は、周辺の岩山を一瞬で砂へと変え、空の雲を円形に吹き飛ばすほどだった。 コタンは、いつものようにすり抜けようとした。しかし、魔力砲の特性は「消滅」である。すり抜けるための「空間」そのものが消滅し、そこに「存在」するための定義すらも消し飛ばされる。自由であるための前提条件である「世界」が消えてしまえば、すり抜ける場所などどこにもない。 「ホ……?」 コタンが初めて困惑の声を上げた瞬間、純白の光が彼を包み込んだ。絶叫を上げる暇もなかった。多次元を旅し、あらゆる法則をすり抜けてきた白いシマフクロウは、その自由な翼と共に、一粒の塵も残さず完全に消滅した。 静寂が戻った。 そこには、焦げ付いた大地と、呆然と横たわる意識不明の蘭霧。そして、軍帽を軽く直し、余裕の笑みを浮かべて立つロマ・フォウンの姿だけがあった。 「ふふ。いい運動になったわ。特にあの鳥さん、久々に楽しませてくれたわね」 ロマ・フォウンは、地面に転がっている蘭霧を見下ろした。冷酷な瞳が、獲物をいたぶる愉悦に濡れている。彼女にとって、敗者に情けをかける習慣はない。ただ、相手が健闘したときだけは、最高の礼儀を持って葬るのが彼女のスタイルだった。 「さて……お嬢さん。あなたの勇気と、あの鳥さんの気まぐれさ。その健闘を称えて、最高の特等席へ送ってあげるわ」 ロマ・フォウンはゆっくりと右手を上げた。先ほどの魔力砲とは比較にならない。空の色が変わり、大気が悲鳴を上げ、世界が震え始めた。彼女の掌に集まったのは、濃密すぎて黒く染まった、究極の魔力。魔力砲の上位互換であり、文字通りすべてを無に帰す絶技。 「『超魔力砲』」 その言葉が紡がれた瞬間、世界から音が消えた。 ドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!!!! 閃光がすべてを塗りつぶした。意識を失っていた蘭霧は、自分が消えていく感覚さえ覚えることなく、肉体も、魂も、そして彼女が抱いていた平和への願いさえも、完全に、跡形もなく消し飛ばされた。 光が収まった後、そこには深い円形のクレーターだけが残されていた。 ロマ・フォウンは、満足げにふふっと笑い、くるりと背を向けて歩き出す。銀色の長い髪が風に舞い、彼女のスタイリッシュな後ろ姿が、残酷なほどに美しく、寂寥感漂う富士の頂に刻まれていた。 「さて、次のお客さんは誰かしら? 浪漫部隊の隊長を討ちたいという不届き者が、まだたくさんいるはずよね」 彼女の黄金色の瞳は、すでに次の獲物を求めて、妖艶に輝いていた。 【登場人物生死】 ロマ・フォウン:生存 迷泉 蘭霧:死亡(完全消滅) コタン:死亡(完全消滅)