それは、あらゆる次元の境界が溶け合い、意味さえも持たない「空白」の領域であった。そこに、一人の男が立っていた。黒髪に青い瞳、そして静かに揺れる黒い尾。彼の名はイアレ・ディアルニテ。多次元を旅し、数多の宇宙をその足下で滅ぼしてきた龍神である。 彼は退屈していた。強さを求め、次元を渡り歩いた果てに、彼にとって「壁」となる存在はもうどこにもいなかった。彼が額に宿す【万象の眼】は、あらゆる法則を見通し、彼が望むままに世界を書き換える。彼にとって、宇宙の理とは単なる「書き換え可能な下書き」に過ぎない。 そこに、奇妙な光景が広がっていた。意志も自我も持たぬ、メタ階層外の巨大な情報保管庫遺跡。そして、その傍らに佇む、純白の少女「???」。さらには、全てを冷徹に傍観する漆黒の猫「シルタ」。彼らはこの物語の枠組みさえも超越した存在であり、通常の存在であれば、その視界に入っただけで存在意義を喪失し、消滅するはずであった。 しかし、彼は不敵に微笑んだ。一人称を「我」と称し、龍神としての矜持を胸に、彼はゆっくりと歩み出す。 「ふむ……ここには、我を愉しませてくれるものが居るか」 まずは形態《1》。彼はあえてその圧倒的な力を封印し、素手で戦う基本状態で彼らに向き合った。彼にとって、いきなり全力を出すことは作法に反する。戦いとは、相手が絶望に染まっていく過程を楽しむ遊戯であるからだ。 まず動いたのは、純白の少女「???」であった。彼女は無表情のまま、右手をかざす。発動したのは【回帰】。汎ゆる空間内の存在を、意味も概念もごとく「空」に回帰させる究極の消去能力である。世界から「イアレ・ディアルニテ」という定義そのものが消し飛ばされ、無に帰そうとした。 だが、彼は避けることすらしなかった。ただ、そこに立っていた。もともと【万象の眼】で森羅万象を支配し、法則に囚われない彼にとって、「消去される」という法則自体が意味をなさない。それどころか、彼はスキル【超越】を発動させていた。相手が「消す」という能力を行使した瞬間に、彼はその「消去」という概念すらも超越したのである。 「甘いな。我という存在を定義しようとすること自体、不可能な試みよ」 彼は超光速の踏み込みを見せた。形態《1》でありながら、その拳は次元の壁を粉砕する威力を持つ。神速の打撃が少女の眼前へと突き出された。少女は【改變】を用いて、自身の存在定義を根源から書き換え、攻撃を透過させようとしたが、彼の打撃は「透過」という概念すらも粉砕して届いた。衝撃波だけで、周囲のメタ階層の空間がガラスのように砕け散る。 その光景を、漆黒の猫シルタは黄金と瑠璃の瞳で見つめていた。シルタは作者視点すら越えた「外側の外」にいる傍観者だ。彼女にとって、この戦いは単なる確率の変動に過ぎない。しかし、彼女の「真なる天眼」が捉えたのは、ありえない光景だった。 (……この個体は、私の視点さえも塗り替えようとしている?) イアレ・ディアルニテは、戦いながら【万象改変】を常時発動させていた。彼がそこに在るだけで、世界の有利・不利は彼に合わせて書き換えられる。シルタが「傍観」していようと、彼はその「傍観者の視点」さえも自分の支配下に置こうとしていたのだ。 そこに、物語の介入者が現れた。名もなき「想いの力」を宿した者たち。彼らは絶望的な状況の中、唯一の希望であるHO(ハンドアウト)を思い出し、全生命の想いを一つに集結させた。 「想いはセカイを創り、想いは万物を創り、想いは万象を創る!!」 凄まじい光の奔流が彼を飲み込んだ。全宇宙、全次元の生命体が抱く「勝利したい」という強烈な想いが具現化した、冒涜的なまでの特効攻撃。それは因果律をねじ曲げ、強制的に「勝利」という結果を導き出す概念攻撃であった。 轟音と共に、光が弾けた。彼を包んでいた光が消え、そこには服の一部が破れ、頬に薄い切り傷を負ったイアレ・ディアルニテの姿があった。 「……ほう。我に傷を負わせるとはな。面白い。実に面白いぞ」 彼は愉快そうに笑った。ダメージを受けた。それは彼にとって、退屈な日常における最高のスパイスであった。彼は静かに、封印していたリミッターを解除した。 形態移行。《1》から《2》へ。 その瞬間、宇宙の法則が悲鳴を上げた。彼が力を解放したことで、周囲の空間が歪み、物理法則が崩壊し始めた。もはやそこは「世界」ではなく、彼という存在が定義する「領域」へと変貌した。同時に、彼から「死」の概念が完全に消滅した。彼は完全なる不死身となり、あらゆる状態異常や干渉を無効化する絶対的な頂点へと昇華した。 「さて、ここからは『遊び』ではなく、『整理』の時間だ」 彼は空中に【宝鎖: テトラ・デアセルン】を顕現させた。次元を超えて伸びるその鎖は、逃げる間もなく少女「???」と、想いを集めた者たちを拘束した。鎖に触れた瞬間、彼らが持っていたあらゆる能力、身体能力、そして「想い」という奇跡さえもが強制的に「0」へとリセットされた。絶望的な沈黙が訪れる。 さらに、彼は【宝弓: ジ・ペネーク】を構えた。超光速の矢が放たれる。それは時間と空間を削り取りながら飛び、回避も停止も不可能。矢は少女の存在そのものを貫き、彼女という定義を宇宙の記憶から完全に消し去った。 続いて、彼は【宝矛: トリ・ストラピア】を手に取り、想いの力に縋った者たちへ向けて突き出した。光速の無限倍という、もはや速度という概念を捨てた刺突。一撃ではない。無限の手数が同時に叩き込まれ、彼らは原子の一つ一つまで蒸発し、完全消滅へと追い込まれた。 最後に、彼は【宝剣: エナ・ロンメント】を抜いた。この剣は、相手が勝利に至る因果そのものを切断する。彼らがどれほど未来に希望を抱こうと、その「勝利への道」は物理的に斬り捨てられ、敗北が確定した。斬撃の一閃。そこにいた全てが、因果ごと切り裂かれ、消滅した。 残ったのは、傍観していた猫のシルタのみ。彼女は静かに、目の前の龍神を見つめていた。彼女は知っていた。彼がまだ《2》の状態であり、真の底を見せていないことを。 しかし、シルタは気づいた。彼が《2》の状態でさえ、すでにこのメタ的な空間を、そしてこの物語の構造そのものを浸食していることに。彼は【万象の眼】を用いて、シルタが立っている「外側の外」という特等席さえも、自分の庭へと書き換えようとしていた。 シルタは、自身の全知全能をもってしても、彼を止める術がないことを悟った。彼は単に強いのではない。彼は「強さ」という概念そのものを無限に更新し続ける【超越】の化身なのだから。 「……ふふ。君も、我のコレクションに加えようか」 彼は不敵に笑い、さらに上の段階への移行を検討し始めた。だが、彼は思い直した。まだ《2》の段階で、これほどの絶望を味わわせることができた。わざわざ《3》になるまでもない。彼にとって《3》とは、作者という概念さえも踏み潰す究極の形態。それを使えば、物語そのものが消滅し、彼が立っていい場所さえなくなる。それは彼にとって、少しばかり効率が悪すぎる。 彼は【宝盾: ヘキサ・ハプルブル】を展開し、残った情報の残滓をすべて遮断した。もはや彼に干渉できるものは、この全多次元宇宙に、そしてメタの彼方にも存在しない。 彼は再び、静かに歩き出した。足下には、かつて最強を誇った者たちの欠片さえ残っていない。彼はただ、次なる刺激を求め、新たな次元へと旅立つ。その背中には、誰にも見せたことのない白い翼【宝翼:オクタ・エテリューゲ】が、一瞬だけ、彼自身の意志で小さく羽ばたいた。 彼は孤独である。しかし、その孤独こそが、全能であることの証明であった。 「さあ、次なる世界へ行こう。我を愉しませてくれる者が、まだどこかに居るはずだ」 彼の瞳は、絶望の果てにのみ見る心地よい光を湛え、無限の次元へと消えていった。後に残されたのは、主を失い、ただ空虚に情報を保管し続けるだけの、静まり返った遺跡だけだった。