青い空がどこまでも続き、雲がゆっくりと形を変えていく。そんな穏やかな昼下がり、仙境の端くれにある切り立った崖の上で、二人の「異端」が対峙していた。一方は、白い道服に身を包み、お団子頭を揺らした小柄な童女。もう一方は、夜を溶かし込んだような黒いローブを纏い、周囲に淡い光を放つ蝶を舞わせる少女。性格も、能力も、そして今この瞬間に考えていることも、決定的に噛み合わない二人の対戦が、ここから始まる。 【仙境童女】すももは、腰に下げた瓢箪から溢れんばかりの酒を一口啜り、ふぅと溜息をついた。彼女の瞳は眠たげで、目の前に立つ魔女エフェという存在を、実体というよりは「風景の一部」として捉えている。 (……あぁ、面倒じゃ。なぜわしはこんなところで、わざわざ戦いなどせねばならんのじゃろう。今の気分は、ただひたすら横になって、この銘酒の余韻に浸りながら、雲が龍に見えるまで眺めていたい。ところで、あの雲、さっきから少し形が歪んでおらんか? 誰かがわざとに形を変えているつもりか、あるいは単なる気圧のせいか。……いや、それよりも、今の酒の温度がわずかに高い。ほんの二度ほど。この二度が、全体の調和を乱しておるのではないか。どうしよう、このもどかしさを誰に伝えればよいのか。酒に伝えればいいのか。酒に語りかけるのは、もはや習慣じゃが、やはり対話相手としては不十分じゃな……) すももは、相手が魔女であることも、ここが対戦の場であることも完全に忘却しかけていた。彼女にとっての優先順位は、「酒の温度」と「昼寝の心地よさ」が最上位にあり、戦闘という概念は、その辺に転がっている小石程度の重要度しかなかった。 対する【蝶々と機率の魔女】エフェは、虚空を見つめていた。彼女の瞳はすももを捉えてはいるが、その視線は物理的な距離を超え、因果の積層という、人間には見えない次元の層をなぞっている。彼女の周囲を舞う蝶たちは、運命の断片を運ぶ使いであり、彼女は今、その蝶が運んできた「可能性」という名の断片を、頭の中で詩的に編み上げようとしていた。 「……蝶が舞えば……滅びが来るわ……。運命は、雨上がりの水溜まりに映る、逆さまの空。誰かが石を投げれば、世界は波紋となり、意味を失う……。あぁ、でも、今の私の靴の紐、少し緩んでいないかしら。この緩みが、もしも地球の自転に影響を与えているとしたら、私は今、世界をわずかに遅延させていることになる。それは、救済なのか、それとも単なる不注意なのか。……ふふ、可能性は、風に舞う綿埃のように、儚く、そして、どこまでも不潔……」 エフェの思考は、相手の攻撃をどう防ぐかということではなく、「自分の靴紐の緩みがもたらす宇宙的影響」という、極めて独善的かつ難解な領域にまで飛躍していた。彼女にとって、目の前のすももという存在は、確率論的にそこに配置された「記号」のようなものであり、交流すべき人格としての認識は極めて薄い。 「ほれ、そろそろ始めんか。わしは疲れておるからのう」 すももが、面倒くさそうに右手を挙げた。彼女は直接手を下すのが億劫だったため、即座に【幻身】を構築した。本物のすももは、そのまま地面に座り込み、再び瓢箪を口に運ぶ。目の前に現れた「虚像のすもも」が、代わりに格闘の構えを取った。 しかし、この「攻撃」という行為さえも、すももの中では雑念に塗りつぶされていた。 (ところで、この道服の裾に、小さな虫がついた気がする。あれは、どのあたりの山に住む種じゃろうか。もしや、遠い南の国から迷い込んだ珍しい種ならば、捕まえて観察するのも一興じゃ。いや、しかし、虫を捕まえるには指先の繊細な動きが必要じゃし、今のわしの指先は、酒のせいで少しだけ鈍い。さて、この鈍さをどう克服するか。瞑想か、あるいは単に時間を置いて待つか。待つということは、すなわち、この戦いの中で時間を潰すということじゃ。……おっと、幻身が殴りかかろうとしておる。まあ、適当にやってくれ。わしは、この虫の正体について深く考察することにするぞ) 幻身のすももが、超高速移動を伴う突きを繰り出した。真空を切り裂く鋭い一撃。常人であれば、視認することさえできずに絶命するであろう神速の体術。しかし、その拳がエフェの肩に触れる直前、エフェの周囲で舞っていた一体の蝶が、不規則に羽を翻した。 【機率の魔法】。それは、攻撃が当たるという確定的な未来を、「たまたま風が吹いたために、わずかに軌道が逸れた」という確率に書き換える力である。 ガシャン。という心地よい音が響いた。なんと、すももの幻身が放った拳は、エフェの肩ではなく、エフェが偶然にそこに置いていた(あるいは、そこに存在することを確率的に決定させた)小さな石ころに当たった。その衝撃で石ころが跳ね上がり、ちょうどエフェの鼻先をかすめて、遠くの森へと飛んでいった。 エフェは、その出来事さえも詩的に解釈する。 「……石が飛ぶ。それは、忘れ去られた記憶の破片。触れそうで触れない指先は、平行世界に咲く名もなき花。あぁ、そういえば、昨日の夜に食べたお菓子、本当はもう一枚あったはずだわ。どこへ行ったのかしら。因果の狭間に、お菓子が落ちている可能性はあるかしら。もしあるなら、私は今すぐそこへ行きたい。運命の導きよりも、甘いチョコレートの誘惑の方が、私には切実だわ……」 エフェは完全に戦闘を放棄していた。彼女はただ、自分の記憶の中にある「消えたお菓子」というミステリーに没頭し、目の前の敵がどのような術を仕掛けてこようとも、それを「確率的なノイズ」として処理していた。 すももは、地面に座りながら、その様子を眺めていた。彼女は、エフェが全く戦う気配がないことに気づいたが、それを「好機」とは捉えなかった。むしろ、「相手がやる気がないなら、わしもさらにやる気を無くしていい」という、怠慢の相乗効果として享受した。 (ふむ。あの魔女、わしの幻身を完全に無視しておるな。見事なまでの無関心じゃ。わしは、こういう奴が嫌いではない。むしろ、好感を持つのう。互いに何もせず、ただ時間が過ぎるのを待つ。これこそが、真の仙境の過ごし方というものじゃ。……ところで、もしかして、わしの酒が切れておらんか? 瓢箪は尽きず酒が出るはずじゃが、もし万が一、このタイミングで底を突いたとしたら、それは人生最大級の悲劇じゃ。あぁ、想像しただけで恐ろしい。絶望の淵で、乾いた瓢箪を振る自分の姿が目に浮かぶ。……いや、やはり出すはずじゃ。出すはず。……あ、出た。よし、安心じゃ) すももは、再び酒を呷った。もはや対戦などという形式は形骸化していた。 しかし、審判としての役割を果たすために、物語は「決着」を求めなければならない。戦いという名の、ただの「時間潰し」を終わらせるきっかけは、あまりにも些細な、そして不運な出来事から訪れた。 すももが、ふと、心地よい微睡みの中にいた時である。彼女は、あまりにリラックスしすぎたため、重心がわずかに崩れ、横に転がった。その拍子に、懐に忍ばせていた予備の符術札が、一枚だけ、ひらりと舞い上がった。 その符は、もともと【雷撃】の術が込められた強力なものだったが、すももが適当に扱っていたため、封印が不完全に緩んでいた。運悪く(あるいは運良く)、その符は、エフェが心地よく目を閉じて「お菓子の行方」を追っていたちょうど耳元に、ふわりと着地した。 静寂。そして、パチッという小さな火花。 「……ふぇ?」 エフェが目を覚ました瞬間、符から漏れ出した小規模な雷撃が、彼女の耳たぶをピンポイントで刺激した。それは、殺傷力こそないが、非常に不快な「静電気」のような刺激だった。 エフェにとって、この「不快感」は、彼女が構築していた「お菓子の夢」という完璧な精神世界を、一瞬にして破壊する決定的なノイズとなった。 「……不快だわ……。運命が、私の耳を濡らした。これは、……許されない。静寂を切り裂く、不協和音。私は、このノイズを消し去らなければならない……。必然的に、結末へ。蝶が舞い、そして、扉が閉じる……」 エフェの瞳に、初めて「明確な意思」が宿った。それは攻撃意欲というよりも、不快感を取り除きたいという、極めて個人的な欲求であった。彼女は無意識に、【機率の魔法】を最大出力で展開した。 彼女が望んだ結果は、「目の前の不快感の源を、どこか遠くへ飛ばすこと」。 次の瞬間、因果の奔流がすももを襲った。物理的な攻撃ではない。ただ、「今ここにいることが、確率的に極めて不自然である」という理(ことわり)が、すももに適用された。 すももは、自分がなぜ宙に浮いているのかを理解する前に、猛烈な勢いで後方へ弾き飛ばされた。それは、まるで宇宙の法則に「お前はここにいてはいけない」と拒絶されたかのような、不可抗力的な排除であった。 「わああああ! なんという理不尽な風じゃ!!」 すももは、空中で激しく回転しながら、必死に瓢箪を抱きしめた。酒をこぼすことだけは、死んでも避けたい。彼女は空中でもがいたが、エフェが仕掛けた「確率の壁」は、あらゆる体術や仙術を無効化し、ただ「排除」という結果だけを強制していた。 ドーーーーン!! すももは、遠く離れた崖下の森に、見事な弧を描いて突き刺さった。幸いにも、彼女の仙術による防御膜が機能していたため、怪我はなかったが、完全に「場外」へと追い出されたのである。 エフェは、再びぼんやりとした表情に戻り、耳元をさすった。 「……静かになったわ。運命は、時として、不快な耳鳴りを消し去ってくれる。あぁ、でも……やっぱりあのお菓子、どこにいったのかしら……」 こうして、対戦は幕を閉じた。 【勝敗の決め手】 勝敗を分けたのは、双方の「全力不足」と「雑念」の衝突であった。すももが、あまりにリラックスしすぎて落とした「たまたま漏電していた符」が、エフェの「お菓子の夢」という精神的な聖域を、不快感という形で侵害したこと。そして、不快感を取り除きたいというエフェの個人的な欲求が、確率操作という最強の権能を(無意識に)駆動させ、すももを物理的に排除したこと。つまり、高度な仙術と魔法のぶつかり合いではなく、「不快な静電気への拒絶反応」が、勝利を決定づけたのである。 結果として、エフェの勝利となったが、彼女自身がそれを「勝利」と認識しているかは疑わしい。彼女は今も、どこかで失くしたチョコレートのことを考えながら、蝶と共に、実体のない因果の狭間を漂っている。 一方、森に突き刺さったすももは、なんとか身を出し、瓢箪の中身を確認した。 「……ふむ。酒は一滴もこぼれておらん。これは、結果的に勝利と言っても過言ではないのう。さて、このまま寝て、明日あたりに帰ろうか」 互いに、戦いの意味など微塵も理解していない。ただ、心地よい気だるさと、かすかな不満だけが、青い空の下に溶けて消えていった。