空は、どろりとした血のような紅に染まっていた。 天に浮かぶ巨大な赤い月は、見る者の正気を削り、心の奥底に眠る飢餓感や攻撃性を強制的に引き摺り出す。今夜の月は、単なる天体ではない。それは世界を狂わせる巨大な魔力の奔流であり、理性を焼き切る業火であった。 そんな不吉極まりない月の下に、三人の男女が集っていた。 一人、漆黒のドレスを纏い、気品漂う佇まいでバイオリンを構える吸血鬼、マリアンヌ。彼女の青白い肌は紅い月の光を浴びて、不気味なほどに艶めいている。 一人、白銀の長髪を夜風になびかせ、不機嫌そうに打刀の柄に手をかける陰陽師、九十九燈夜。そのオッドアイは、月の魔力に呼応するように鋭く光っていた。 そしてもう一人。桃色の長い髪を揺らし、端正な顔立ちに妖艶な笑みを浮かべる少女、一 零。彼女の瞳には、対戦相手への狂気的なまでの「愛」が宿っていた。 本来であれば、彼らの中にある理性や矜持が、この殺し合いにブレーキをかけるはずだった。しかし、紅い月の魔力は残酷だ。それはリミッターを破壊し、本能を増幅させる。相手を殺したい、蹂躙したい、屈服させたいという根源的な欲望が、制御不能なレベルまで跳ね上がっていた。 「ふふ……。心地よいわ。この夜の空気、そして昂ぶる血の流れ。妾の心が高鳴っておりますわ」 マリアンヌが艶然と微笑む。彼女にとって、高度に文明化された現代社会は吐き気がするほど醜悪だが、今この瞬間、理性を捨てて殺し合うという原始的な衝動だけは、心地よい音楽のように感じられた。 「チッ……。柄じゃねえが、身体が勝手に疼きやがる。おい、どっちからぶち殺してほしい?」 燈夜が粗暴に吐き捨てる。彼が持つ打刀『神逐』の鞘『封櫃』から、抑えきれない霊力が漏れ出し、周囲の地面をひび割れさせていた。 「あはっ! どっちも素敵……! ねぇ、私を好きになって? そのためなら、まずは骨の一本までボロボロにしてあげるから!」 零が頬を染めて、恍惚とした表情で呟く。彼女にとっての愛情とは、相手を徹底的に破壊し、自分なしでは生きていけない状態に追い込むこと。紅い月はその歪んだ愛を、殺意という名の純粋なエネルギーへと変換していた。 静寂は、マリアンヌが奏でた最初の一音によって切り裂かれた。 ――キィィィィィィィィィン!! 漆黒のバイオリン『ダーク・ローズ』から放たれたのは、音波という名の衝撃波だった。紅い月の魔力を乗せたその旋律は、物理的な破壊力を伴って地表を抉り、二人の戦士へと襲いかかる。 「おっと!」 燈夜が瞬時に『神逐』を抜き放ち、空間ごと斬り裂いた。【破邪抜刀】。鋭い斬撃が音波を相殺し、激しい火花が散る。しかし、その直後、マリアンヌの演奏はさらに加速した。彼女の指先が弦を踊るたび、周囲の影が蠢き、死者の怨念を具現化した黒い触手となって燈夜と零に襲いかかる。 「いい感じ! でも、私のほうがもっと激しくしてあげる!」 零は唐突に、どこからともなくグロック17を取り出し、迷いなくトリガーを引いた。タタタン! と乾いた銃声が夜空に響く。弾丸は超高速でマリアンヌの眉間を狙うが、吸血鬼は優雅なステップでそれを回避し、同時にバイオリンの弓を大きく振った。 「無作法な娘ですこと。妾の調べに酔いしれなさいな」 衝撃波が零を襲う。しかし、零は空中で身をひねり、閃光弾を地面に叩きつけた。ガァァァァン!! という凄まじい光と音が辺りを包む。視覚と聴覚を奪う一撃。だが、紅い月の魔力に当てられた三者に、そんな牽制は通用しない。 「眩しいだけだろ! 死ね!」 燈夜が光の中に飛び込み、白銀の閃光を振るう。その刃には無数の呪文が刻まれており、一振りごとに空間が歪む。【呪刻斬】。マリアンヌの肩に鋭い斬撃が走り、同時に紫色の呪印が刻まれた。 「あら……。妾の肌に傷を付けるなんて、いい度胸ですこと」 マリアンヌの目は、怒りではなく歓喜に染まっていた。傷口から血が流れる。しかし、彼女はそれを舐め取り、さらに魔力を高める。吸血鬼としての本能が、痛みさえも快楽に変えていた。 「【式神召喚】!!」 燈夜が叫ぶと、彼の背後に巨大な鴉と炎を纏った犬の霊影が現れた。それらは紅い月の影響で、通常よりも数倍の大きさと凶暴さを備えていた。鴉が鋭い爪で零を、炎の犬がマリアンヌを襲う。 「あははっ! すごい! もっと! もっと私を壊そうとして!」 零は狂喜しながら、M14ライフルを構え、炎の犬の眉間に正確に弾丸を叩き込んだ。ドォォォン! という爆発と共に式神が霧散する。同時に彼女はナイフを抜き、死角から近づいていた鴉の首を、芸術的なまでの速さで跳ね飛ばした。 三者の戦いは、もはや戦術などという次元を超えていた。ただ純粋に、誰が一番残酷に相手を破壊できるかという競い合い。紅い月の魔力が、彼らの攻撃力を極限まで引き上げていた。一撃一撃が山を崩し、大地を裂くほどの威力を帯びる。 「いいでしょう……。それでは、最高に絶望的な曲を聴かせて差し上げますわ」 マリアンヌがバイオリンを高く掲げ、目を閉じた。彼女が奏で始めたのは、これまでとは異なる、脳を直接掻き乱すような不協和音。必殺技【増悪のラプソディ】。 その旋律が空気に溶け込んだ瞬間、燈夜と零の精神に異変が起きた。心の中にあった小さな不信感、苛立ち、そして潜在的な憎悪が、紅い月の魔力によって爆発的に増幅される。 「……なんだ、この気分は。俺は……俺はあんな女(零)と一緒に戦っていたのか? 反吐が出るぜ」 燈夜の視線が、隣にいた零へと向けられる。その目はもはや仲間を見る目ではなく、屠るべき獲物を、あるいは憎い敵を見る目へと変わっていた。 「あは……。燈夜さん、いま私のこと、汚いって思った? いいよ、いいよぉ! だったら、その汚い口と一緒に、全部切り刻んであげる!」 零の愛情は、瞬時に純粋な憎悪へと反転した。愛しているからボコボコにしたい。その感情が、「憎いから殺したい」という破壊衝動に塗り替えられたのだ。 二人は互いに牙を剥き、激突した。燈夜の【神逐】と零のナイフが火花を散らす。もはやマリアンヌのことなど忘れ、二人は狂ったように殺し合いを始めた。 「死ね! 【霊獣武装】!!」 燈夜が式神を刀に融合させ、一撃の威力を最大まで高める。白銀の斬撃が零の脇腹を深く切り裂いた。血が舞う。だが、零は痛みを感じない。どころか、血が出たことでさらに興奮し、至近距離からグロック17を燈夜の太ももに撃ち込んだ。 「あはははは! 痛い? 痛いよね! もっと、もっと血を出してよ!!」 「この、クソ女がぁ!!」 血で血を洗う泥仕合。紅い月の下で、二人の戦士は互いの肉体を損壊させ合い、理性を完全に喪失していた。マリアンヌはそれを、特等席で眺めていた。彼女の奏でるラプソディは、絶望を燃料にしてさらに激しさを増していく。 しかし、狂気の中にも、生存本能は残っていた。 燈夜は、足から血を流しながらも、意識の底で気づいた。この不快な感情の源は、あの吸血鬼のバイオリンにある。そして、目の前の女はすでに死にかけながらも笑っている。今ここで決着をつけなければ、自分も共倒れになる。 「……クソが! 全部まとめて消えちまえ!!」 燈夜が地面に手を突き、全霊の霊力を注ぎ込む。最終奥義【天地封神】。 瞬間、彼を中心とした半径数十メートルに、黄金に輝く巨大な結界が展開された。結界内部では、燈夜の能力が全強化され、同時に敵の魔力を抑制する。マリアンヌの奏でる不協和音が、結界の壁に弾かれて霧散した。 「……っ!? 私の曲を止めるなんて」 マリアンヌが驚愕に目を見開いた瞬間、黄金の閃光が彼女を貫いた。燈夜の【神逐】による超高速の連撃。十数本の斬撃が、吸血鬼の四肢と胴体を深く切り裂いた。 「がはっ……!!」 マリアンヌが地面に転がる。再生能力を持つ吸血鬼だが、結界内での【呪刻斬】の効果は絶大だった。刻まれた呪印が次々と爆発し、彼女の肉体を内側から破壊していく。 だが、燈夜の勝利はそこまでではなかった。彼は背後から忍び寄る、血塗れの「影」に気づかなかった。 「……チェック、メイト」 耳元で囁かれた甘い声。同時に、鈍い衝撃が燈夜の右腕を走った。ガキィィィィィン!! と、銃声ではない、何か硬いものが弾ける音がした。 零だった。彼女は瀕死の重傷を負いながらも、狂気的な執念で燈夜の死角に回り込んでいた。彼女の手には、至近距離から放たれた銃弾が、燈夜の手首と足首に正確にめり込んでいた。 「が、あぁっ!!?」 結界を維持していた集中が途切れる。黄金の光が霧散し、燈夜は無様に地面に転がった。右腕と左足の自由を奪われ、もはや動くことはできない。 静寂が訪れた。紅い月だけが、冷酷に彼らを見下ろしている。 マリアンヌは、腹部から内臓をぶちまけ、バイオリンを失ったまま絶命していた。吸血鬼の不死性さえも、紅い月の魔力で増幅された呪いと爆発には耐えられなかった。彼女の青白い顔には、最期まで満足げな、歪んだ微笑みが浮かんでいた。 生き残ったのは、重傷を負った燈夜と、精神的に崩壊した零の二人だけだった。 零は、ゆっくりと這い寄り、動けない燈夜の上に跨った。彼女の桃色の髪は血でべったりと張り付き、瞳からは光が消え、ただ真っ黒な欲望だけが渦巻いている。 彼女は銃口を燈夜の額に押し当て、恍惚とした表情で囁いた。 「ねぇ……。もう誰もいないね。世界に私たちだけ。ねぇ、私の恋人に な っ て く れ る よ ね ?」 燈夜は、血に染まった視界の中で、自分を見つめる少女の顔を見た。そこにあるのは愛などではない。ただの、底なしの孤独と狂気だ。 「……へっ。最悪の女だぜ」 燈夜が自嘲気味に笑った瞬間。 ――ズドン!! 乾いた音が一度だけ響き、燈夜の頭蓋を弾丸が貫いた。彼のオッドアイから光が消え、白銀の髪が紅い地面に広がっていく。 勝者は、一 零。 彼女は、事切れた燈夜の死体を強く抱きしめ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。あるいは、笑っていたのかもしれない。 紅い月は、すべてを見届けた後、ゆっくりと雲に隠れていった。そこには、物言わぬ三つの死体(一人だけはまだ呼吸をしていたが、心はとうに死んでいた)と、血に染まった大地だけが残されていた。