東洋の深い山々に抱かれた、忘れ去られたような秘境。そこに、古色蒼然とした佇まいの老舗旅館「栄愛之湯(えいあいのゆ)」はひっそりと佇んでいた。紅葉が山全体を燃えるような赤と黄金に染め上げ、澄んだ空気が肌を刺す季節である。 チームAの「ただのプレイヤー」は、慣れた手つきでマウスを操作し、画面上のアバターを操作してこの地に降り立った。彼は知っている。ここが『AIバトラー』というゲームの中であることを。そして、自分がこの世界の理を超越した超上級者であることを。 「ふふん、このマップの隠しルートはもう把握済みだ。景色は最高だな」 その隣では、「男!」が胸を張り、大股で道を突き進んでいた。 「ガハハ!こういう山道こそが男の心を燃やす!男は最強、道など切り拓けばいいのだ!」 一方、チームBの二人は、対照的な様子で辿り着いた。あなちゃんは、自分がなぜここにいるのか、そして自分が実は全能の神であることなど露ほども知らず、「ひぃぃ!山道怖いです!クマが出たらどうしよう!」と、ガチガチに震えながらいなちゃんの服の裾を掴んでいる。しかし、不思議なことに彼女が歩くたびに道端の石が絶妙に配置され、転びそうになっても偶然いい感じに手すりがあるなど、異常なまでの強運が彼女を導いていた。 「もう、あなちゃん大丈夫だよ。ほら、見て。あんなに可愛い紅葉があるよ」 いなちゃんがふわりと微笑む。その破壊的な可愛さに、道中の野生動物たちが思わず足を止め、戦意を完全に喪失して道を譲るという異常事態が起きていた。 旅館に到着すると、そこには腰の曲がったが眼光鋭い「婆さん」が待っていた。 「いらっしゃい。えらい賑やかな連中じゃな。予約は入っとるな」 チェックインを済ませた一行は、男女別の大部屋へと分かれた。 男部屋では、「ただのプレイヤー」がタブレットを取り出し、攻略Wikiを確認しながら雑談を始めた。 「いやー、この旅館のNPCの作り込みは凄いね。BGMの環境音まで完璧だ」 「おいプレイヤー!ゲームだの何だの言うな!今は男として、この畳の香りを堪能する時だ!」 男!が豪快に寝転がり、畳を叩く。そんな中、隣の女部屋ではあなちゃんといなちゃんが和気藹々と話していた。 「いなちゃん、私、やっぱり怖くて夜は一人でトイレに行けません……」 「大丈夫だよ、あなちゃん。私がずっとそばにいてあげるからね」 「うぅ、いなちゃんは本当に優しいし可愛いなぁ……」 そして、待ちに待った夕食後。彼らは旅館の自慢である「貸切露天風呂」へと向かった。 竹垣で隔てられた男湯と女湯。周囲を紅葉に囲まれた、まさに極楽の空間である。男湯では「男!」が豪快に湯船に飛び込み、「これが男の湯浴みだー!」と叫んでいた。女湯では、あなちゃんが「お湯が熱いかも……ひえっ!」とビクビクしながら浸かり、いなちゃんがその隣で、湯気に包まれてさらに可憐な姿を晒していた。 しかし、その静寂は突如として破られた。 「ギギギッ! ギィィーッ!!」 不快な羽音が空を埋め尽くす。空から降り注いだのは、どす黒い緑色をした怪蟲の群れ――【ゆらめく新緑】シンリョクチュウの一団だった! 「なんだこのイベントは!?」 プレイヤーが驚愕した瞬間、シンリョクチュウの群れが凄まじい勢いで男湯へ突撃した。その猛攻の衝撃と、鱗粉による爆発的な反応により、男女の湯を隔てていたはずの竹垣が、派手な音を立てて「ガシャーーーン!!」と全壊した。 視界が開けた。そこには、湯船に浸かり、呆然としてこちらを見るあなちゃんといなちゃんの姿があった。 「あ、あああああ!?!?!?」 あなちゃんが絶叫し、いなちゃんは頬を赤らめて目を丸くする。現場は大混乱に陥った。 「貴様ら!男の聖域を汚したな!!」 男!が激昂し、立ち上がろうとした。しかし、そこは濡れたタイル床である。 「おっと!!」 ズザザザッ!と派手に足を滑らせ、彼はそのまま猛スピードで女湯側へダイブ。運悪くあなちゃんの真上に重なり、二人でそのまま湯船へと「ボチャン!!」と水没した。 「きゃああああ! 何かぶつかったー!」 「ごめん!わざとじゃない!男のダイブだ!!」 そこへ、シンリョクチュウが「毒の鱗粉」を撒き散らす。鱗粉が湯気に混じり、吸い込んだ全員の脳内に「強烈な羞恥心」が突き刺さった。 「い、いけない!こんな格好で、こんな至近距離で……!!」 プレイヤーが顔を真っ赤にしてうずくまる。超上級者であっても、このデバフはキツい。しかし、彼は必死にマウス(概念)を操作し、スキルを発動させようとするが、濡れた手で操作ミスを連発した。 さらに、シンリョクチュウの「粘つく毒液」が床に広がる。足元が泥濘のような粘性になり、戦うどころか立つことさえ困難に。いなちゃんは、襲いかかってくる虫に対し、「こないでぇ!」と手を振ったが、そのあまりの可愛さにシンリョクチュウの一部がポカーンと呆けてしまい、攻撃を忘れて見惚れていた。 「ひぃぃ!怖い!怖いよぉー!!」 あなちゃんがパニックになり、適当に腕を振り回した。その瞬間、彼女の潜在的な「無条件勝利」と「超幸運」が暴走。彼女が偶然に振り回した腕が、物理法則を無視した軌道でシンリョクチュウの親玉に直撃。さらに、彼女が転んで出した悲鳴が超音波となり、群れ全体の平衡感覚を破壊した。 「うわあああ!」 男!が再び立ち上がろうとして滑り、今度はプレイヤーの背中を全力で突き飛ばした。飛ばされたプレイヤーは、あろうことか、いなちゃんの胸元へとダイブする形に。同時に、いなちゃんがバランスを崩してプレイヤーにしがみつくという、カオス極まりないラッキースケベの連鎖が発生した。 「ちょ、ちょっと! どいてください!」 「すまん! 床が滑るんだ!!」 そんな混沌の中、あなちゃんが「もう、どうすればいいのー!」と地面を激しく蹴った。その足が偶然、シンリョクチュウの巣の急所に命中し、連鎖的に爆発が起きた。さらに、あなちゃんの「相手の能力を無視して勝利する」という神の権能が、無意識に全方位へ展開。 「ギギィッ!?」 シンリョクチュウたちは、自分たちがなぜか敗北していることに気づき、戦意を喪失して一斉に空へ逃げ出した。彼らにとって、あなちゃんの運の暴力と、男!の物理的な衝突、そしていなちゃんの可愛さによる精神攻撃は、あまりにも処理不能な攻撃だったのだ。 静寂が戻った。 そこには、全裸に近い状態で絡まり合い、お互いの肌のぬくもりと、濡れたタイルの冷たさを感じている男女四人がいた。紅葉の美しい景色も、今の彼らにはただの背景でしかない。なんとも言えない、気まずい、そしてどこか温かい、奇妙な空気感が漂っていた。 「……あー、その。ごめん」 プレイヤーが真っ赤な顔で呟いた。 「ふん、まあ、男として助けてやったと言ってもいいだろう!」 男!が強がるが、その耳まで真っ赤である。 彼らは、気まずさを紛らわすために、共同で竹垣の修復に取り掛かった。折れた竹を組み合わせて、なんとか形にする。完璧ではないが、機能的には十分だった。 その後、一行は婆さんのもとへ行き、深々と頭を下げた。 「本当に申し訳ございませんでした!!」 婆さんは呆れた顔で彼らを見たが、「まあ、いいわい。山には時折、変な虫が出るもんじゃ。お前さんらが追い払ってくれたなら、それでいい」と寛大に許してくれた。 各自が大部屋に戻り、布団に入った。しかし、誰一人としてすぐに眠ることはできなかった。 (あんな格好で……人生最大のピンチだったし、最大の事故だった……) プレイヤーは天井を見つめ、ゲームの仕様以上の体験に困惑していた。 (男として、あのような状況で動揺した自分は……いや、あれは不可抗力だ!) 男!は布団を頭まで被り、激しく葛藤していた。 (もう、怖いことしたくないです……でも、なんだか不思議な気持ち……) あなちゃんは、自分が神であることなどまだ気づかず、ただドキドキしていた。 (あなちゃん、本当にドジなんだから。でも、守ってくれたのは嬉しいかも) いなちゃんは、そっと微笑んで眠りについた。 翌朝。チェックアウトを済ませた四人は、旅館の門の前で最後に対面した。 「じゃあ、またどこかで」 プレイヤーが短く告げる。男!は「次はもっと男らしく助けてやるぞ!」と豪快に笑い、あなちゃんは「もう二度とあんな目に遭いたくないです!」と叫び、いなちゃんは「またみんなで来ようね」と可愛らしく手を振った。 それぞれの帰路に着く彼らの心中には、言葉にできない想いがあった。それは友情か、恋か、あるいは単なる事故の連帯感か。 ただ一つ確かなのは、彼らにとって「栄愛之湯」での一夜は、どんなクエスト報酬よりも忘れられない、混沌とした思い出になったということだけである。