青い空がどこまでも高く、綿菓子のような雲がゆったりと流れるある日の午後。そこは、格闘技の聖地というよりは、どこかピクニック会場に近い、のどかな草原であった。そこに立つ二人の女性――いや、一人のメイドと、一人の非常に小柄な少女。対戦という名目の儀式が今、始まろうとしていた。 「えへへ! よろしくお願いしますねっ! すごいです、シエラさん! その格好、とってもお似合いです!」 サポちゃんは満面の笑みを浮かべ、ぴょんぴょんと跳ねながら挨拶をした。彼女の背中には、不自然なほど膨らんだ四次元リュックが背負われている。彼女の頭の中では今、激しい葛藤が起きていた。(ああっ! そういえば昨日の夜、デパートの特売コーナーで見た『超強力・瞬間接着型お掃除ブラシ』、買い忘れてないかな? あれがあれば、お部屋の隅に溜まった埃を、まるで磁石のように一気に吸い寄せられたはずなのに! ああ、なんて不甲斐ない私! 次回は開店前から並ぼう。いえ、むしろ店員さんと親しくなって、裏ルートで確保できないか打診すべきか……) 対するシエラ・エペは、静かに、しかし熱い闘志を瞳に宿して大剣を構えていた。白髪が風に揺れ、メイド服のフリルが誇らしげに舞う。彼女の集中力は極限に達していたが、同時に彼女の脳内でも「あること」が彼を捉えていた。(……。……いけない。集中しなくては。だが、先ほどから気にかかる。今日の朝食に添えたオムレツの焼き加減は適切だっただろうか。少しだけ、火が強すぎたかもしれない。表面は完璧な黄金色だったが、中心部の半熟具合が、もしも0.5ミリでもズレていたとしたら、それは料理人として、あるいはメイドとして、致命的な失態と言わざるを得ない。ああ、考えれば考えるほど、あの卵のCカーブについての最適解を導き出したい……!) 「それでは、行きますね! えいっ!」 サポちゃんが勢いよくリュックに手を突っ込んだ。彼女の目的は「和解」である。しかし、ルールは対戦だ。彼女は戦いたくない。戦うよりも、むしろ相手に美味しいお菓子を振る舞って、一緒に日向ぼっこをしたい。そんな平和な願望が、彼女の指先に伝わる。 「出してください! 『仲良し友情キャンディ』~!!」 高らかに道具名を読み上げるサポちゃん。このキャンディを口にすれば、相手との心理的距離が縮まり、戦意が消失するという画期的なサポートアイテムである。しかし、キャンディが空中に舞った瞬間、サポちゃんの意識は完全に脱線した。(ああっ! キャンディ! そうだ、ドラやきにキャンディを添えたらどうなるだろう。甘さと甘さの衝突、あるいは融合。それはもはや菓子を超えた、ひとつの宇宙的な調和に達するのではないか? もしかして、ドラやきの皮にキャンディを練り込んで焼けば、新時代の『ハイパー・ドラやき』が誕生するのではないか。それを商品化して、デパートに卸せば、私は一生分の買い物をタダでできるかもしれない。想像しただけで、お財布がにこにこしている!) 一方のシエラは、そのキャンディを視認した瞬間、驚異的な反射神経でそれを「相殺」した。大剣の切っ先がキャンディを正確に弾き飛ばし、糖分は空中で粉砕してキラキラとした粒子となって降り注ぐ。 「終了っ! ……と言いたいところですが、まだ始まりですね」 シエラは静かに微笑んだ。しかし、その内面は激しく揺れ動いていた。(今の弾き方は完璧だった。だが、大剣の角度が15度ほど左に寄っていた気がする。これは私の重心が、左足の親指にわずかに寄りすぎていたせいか? それとも、昨夜に読んだ『完璧なメイドの歩き方・第4版』の記述にある、重心の分散理論を適用しすぎたせいだろうか。そもそも、重心とは何なのか。地球の核にある重力点と、私の精神的な重心は同期しているのか。ああ、物理学の深淵に触れてしまった。一度この思考のループに入ると、抜け出せない。だが、相手の少女があまりに小さくて可愛らしい。このまま斬るというのは、まるで高級なクロームプレートに傷をつけるような、あるいは最高級のシルクにシミをつけるような、耐え難い背徳感がある……) 「うにゃあ! 弾かれちゃいました! でも諦めませんよ! えいっ! 『どこでもドア……的な逃走用トンネル』~!!」 サポちゃんが再び道具を取り出す。地面に突如として現れたトンネルに飛び込もうとしたその時、シエラがスキル【色陣の間】を展開した。彼女の周囲に不可視の領域が広がり、そこに入ったものは自動的に相殺され、斬撃が走る。神速の攻撃。回避不能。防御不能。理論上、サポちゃんはこの瞬間に敗北するはずであった。 だが、サポちゃんの思考はさらに加速していた。(あ! 今、トンネルの縁に小さな穴が開いている! もしかして、これ、ネズミが齧った跡!? 嘘でしょ! 最悪! 最悪です! 私の完璧なサポ道具コレクションに、あの不潔で、齧る専門の、耳の大きな小動物が接触したというの!? 許せない! 絶っ対に許せません! この怒りは、もはや戦いなどという小さな次元に収まるものではない! 私は今、世界中のネズミを駆除し、すべての道具を金庫に封印することを誓う! ああ、でも金庫を買うにはお金が必要だわ。デパートのセールは明日からだったっけ? それとも、先週の残り物セールがまだやってるかな!?) 怒りとショックにより、サポちゃんの精神状態は「パニック」へと移行した。そして、そのパニックが奇跡的に、シエラの【色陣の間】の斬撃タイミングとわずかにズレた。いや、ズレたのではない。サポちゃんが「ネズミへの怒り」で激しく身悶えし、予測不能な方向にのたうち回ったため、神速の斬撃が、彼女のリュックの「四次元的な歪み」に吸い込まれたのである。 「えっ……?」 シエラは困惑した。自分の攻撃が消えた。物理法則を無視した空間に、自分の斬撃が飲み込まれたのだ。その瞬間、シエラの思考は再び迷宮へと迷い込んだ。(斬撃が消失した。これは空間の歪みか、あるいは量子力学的なトンネル効果によるものか。もしや、彼女のリュックの中は、我々の知る三次元空間ではなく、高次元のカラビ・ヤウ多様体のような構造になっているのか。そうなれば、そこに収納された道具は、時間軸を超えて存在していることになる。つまり、私が今斬ったのは『今のリュック』ではなく、『未来のリュック』だったのではないか? もしそうなら、私は未来の自分に攻撃を仕掛けたことになる。これはパラドックスだ。親殺しのパラドックスに似ている。ああ、頭が痛くなってきな。そもそも、私はなぜここで戦っているのか。メイドの本分は、主人のために美味しい紅茶を淹れることであり、草原で少女と斬り合いをすることではないはずだ。紅茶……。そうだ、アッサムの茶葉は、抽出時間を15秒早めた方が香りが立つという説がある。それを検証しなければならない……!) 両者ともに、戦闘とは名ばかりの「深刻な脱線思考」に陥っていた。もはや戦場は、精神的な迷走へと変貌していた。 サポちゃんは、ネズミへの憎しみとデパートへの情熱を燃料にし、最後の手段に出た。 「もうダメです! 和解してください! えいっ! 『超強力・お互い抱きしめ合い強制抱擁アーム』~!!」 リュックから飛び出した巨大な機械の腕が、シエラの体をがっしりとホールドした。この道具の効果は単純。相手を拘束し、強制的に「親愛の情」を抱かせるまで離さない。攻撃力0のサポちゃんが繰り出した、最大級の防御的攻撃である。 シエラは拘束され、身動きが取れなくなった。しかし、彼女の表情は穏やかだった。いや、正確には「思考が停止」していた。 (……暖かい。この腕の感触、まるで丁寧にアイロンがけされたリネンのシーツのようだ。ああ、心地よい。戦いとは、なんと虚しいことか。私は今、このままここで眠りに付き、夢の中で完璧なオムレツを焼き、それを世界中の人々に振る舞い、そして全員に『美味しい』と言わせ、最後には最高級の紅茶で締めくくる……。それが私の究極の理想郷。戦いなどという不自由な時間よりも、この強制的な抱擁による強制的な休息こそが、今の私には必要だったのかもしれない。……あ、でも、このまま放置されると、服にシワが寄る。メイドとして、服にシワを寄せることは万死に値する。どうしよう、どうすればいい。このアームの材質は、スチームアイロンが効く素材だろうか……) 結局、シエラ・エペは戦意を完全に喪失した。というより、彼女の思考回路が「メイドとしての完璧な家事への執着」と「極上の休息」という矛盾した快楽に飲み込まれ、大剣を振るうという単純な動作を忘れてしまったのである。 「すごいです! 和解できました! えへへ!」 サポちゃんは嬉しそうに笑い、シエラに抱きついたまま、リュックからドラやきを取り出した。 「はい、ご褒美にドラやきです♪」 「……いただきます。終了っ!」 シエラは静かに、しかし深く、ドラやきを口に運んだ。その甘みが脳に染み渡った瞬間、彼女の思考は完結した。(……美味しい。この餡の炊き加減、絶妙だ。この甘さと、私の心の中の静寂が、今、完璧に調和した。戦いに勝敗など意味はない。このドラやきこそが、真の勝利である) 【勝敗の決め手】 シエラ・エペの圧倒的な能力は、サポちゃんの「予測不能なパニック(ネズミへの怒り)」による回避と、「強制抱擁アーム」による精神的な弛緩、そして何より「ドラやきという至高の甘味」によって完全に無効化された。物理的なダメージではなく、精神的な「脱線」と「充足感」がシエラの戦意を奪い、結果として和解(という名のサポちゃんの勝利)へと導かれたのである。 その後、二人は草原に座り込み、ドラやきを食べながら「デパートのセール情報」と「究極のオムレツの焼き方」について、日が暮れるまで熱心に語り合ったという。