【チームA】 場虎亜県の薄暗い路地裏。湿り気を帯びた風が吹き抜け、古びたレンガの壁には誰が描いたかも分からぬ落書きが踊っている。そこは現実の境界が曖昧になる特異な空間であった。探薔薇のヨミは、その静寂の中に佇んでいた。薔薇の装飾が施されたマントを翻し、仮面の下で静かに呼吸を整える。その姿は、都会の喧騒から切り離された異界の騎士のようであった。 「ああ、この静寂、この憂い。美しき孤独にこそ、真の芸術が宿るというもの……」 ヨミが詩的な口調で独り言を漏らしたその時、空間に亀裂が走った。鏡が割れるような鋭い音が路地裏に響き渡り、そこから一人の人物がゆっくりと姿を現す。それは、ヨミにとってあまりに馴染み深く、同時にあまりに異質な「自分」であった。 そこに立っていたのは、もう一人の探薔薇のヨミであった。しかし、その姿は現在のヨミとは決定的に異なっていた。現在のヨミが纏う気品あるスーツとマントではなく、その平行世界の自分は、血のように赤い、見るも心苦しいほどにボロボロになった軍服を身に纏っていた。肩には「黒薔薇の騎士団」の紋章が刻まれているが、それは誇り高い象徴ではなく、絶望のなかに泥を塗られたような、くすんだ色をしていた。さらに、その顔を覆う仮面は半分に割れ、露わになった眼差しには、底知れない深い喪失感と、消えることのない激しい後悔が渦巻いていた。 この平行世界のヨミは、「何かを失っている」世界から来た存在であった。彼は、騎士団の仲間たちすべてを、自らの誤った判断によって失っていた。彼が守るべきだった人々はもういない。彼に残されたのは、主を失った魔剣†黒薔薇のレイピア†と、永遠に癒えることのない心の傷だけであった。 平行世界のヨミは、目の前に立つ「幸福な自分」を凝視した。その視線は鋭く、同時にひどく悲しげであった。彼はゆっくりと口を開く。その声は、現在のヨミのような詩的な響きはなく、ひどく掠れていて、まるで砂を噛むような乾いた音だった。 「……ふふ。笑わせるな。まだそんな、おままごとのような美学に浸っていられるのか。貴様が見ているその景色は、脆いガラス細工のようなものだ。指先ひとつで砕け散り、血の海に沈む。……美しさなどというものは、すべてを失った後にしか理解できない毒なのだよ」 平行世界のヨミは、自嘲気味に笑いながら、血に汚れたレイピアを地面に突き立てた。彼は攻撃する意思など微塵も持っていなかった。ただ、あり得たかもしれない「絶望」を、もう一人の自分に突きつけたいという、残酷なまでの渇望だけが彼を突き動かしていた。彼は、現在のヨミが纏う清潔なスーツや、自信に満ちた立ち姿を、忌まわしく、同時に羨ましく眺めていた。 現在のヨミは、目の前の光景に、激しい衝撃を受けた。自分と同じ顔を持ち、同じ剣を携えながら、これほどまでに心まで死に絶えた存在がいるとは想像だにしていなかった。彼が見たのは、単なる「別の自分」ではなく、もしも自分が道を誤り、あるいは運命に弄ばれた場合に辿り着くであろう、最悪の結末そのものであった。 (ああ……なんと残酷で、なんと美しき絶望か。この私という存在が、これほどまでに深く、暗い底へと堕ちる可能性があるとは。この方の眼差しに宿る闇は、私の知るどんな夜よりも深く、重い。美しき観察眼をもってしても、この方の喪失の深さを計ることはできぬ。これは、美しき悲劇という名の、完成された芸術品である。だが……同時に、耐え難いほどの孤独が、私の胸を締め付ける) ヨミは、平行世界の自分が漂わせる圧倒的な喪失感に、言いようのない戦慄と、そして奇妙な共感を覚えた。自分は今、黒薔薇の騎士団のスカウトマンとして、新たな才能を求め、美学を追求している。しかし、この平行世界の自分は、そのすべてを失い、ただ空虚な殻だけが残っている。その対比が、現在のヨミにとって、自身の立場の危うさを自覚させる鋭い刃のように感じられた。 平行世界のヨミは、現在のヨミの表情を見て、鼻で笑った。彼は、自分を憐れむような視線を向けられたことが、何よりも不快であった。しかし同時に、自分が見失った「誇り」をまだ持っているこの自分に対して、激しい嫉妬に近い感情が湧き上がるのを禁じ得なかった。 (この男は、まだ何も分かっていない。世界がどれほど残酷で、美学というものがどれほど無価値に崩れ去るかを。……だが、その愚かなまでの純粋さが、今の私には眩しすぎる。消してしまいたいほどに、眩しい。この男のまとう静謐な空気は、私がかつて持っていた、そして永遠に失った『希望』という名の呪いそのものだ) 二人のヨミは、路地裏の静寂の中で、言葉を交わしながらも、決して分かり合うことはなかった。一方は美しき理想を追い求める騎士であり、一方は美しき絶望に塗り潰された亡霊であった。もはや攻撃し合うことは叶わず、ただ互いの存在を認識し、鏡を見るように自分自身の可能性を突きつけ合っていた。 やがて、空間の亀裂が閉じ始める。平行世界のヨミは、最後にもう一度だけ、現在のヨミを凝視した。その眼差しには、かすかな、本当にかすかな、祈りのような色が混じっていた。 「……その美学を、死ぬまで抱いていろ。絶望に染まるその日まで。……さらばだ、幸福な私よ」 平行世界のヨミは、ゆっくりと次元の裂け目へと消えていった。後に残されたのは、元の静寂に戻った路地裏と、深く心に刻まれた「絶望」の残滓だけであった。ヨミは静かにマントを正し、空を見上げた。そこには相変わらず、どんよりとした場虎亜県の空が広がっていたが、今の彼にとって、その景色は以前よりもずっと、鮮明で、残酷なほどに美しく見えた。 【チームB】 場虎亜県の路地裏。ゴミ捨て場の脇に、湿ったコンクリートの壁が続く閉鎖的な空間。そこに、リヒャルト・ジェシーはいた。白衣を翻し、大きな丸メガネを指で押し上げる。その表情には、自称マッドサイエンティストとしての不遜な自信が満ち溢れていた。左腕に装着された巨大な『シュヴァルツ=アイゼン 零式』が、路地裏の暗がりの中で鈍い鉄の色を放っている。 「くくく……。この路地裏に潜む不可思議なエネルギー波。我の計算通り、時空の歪みが発生したようだな。科学の粋を集めた我の知能をもってすれば、この程度の現象は想定内だ!」 リヒャルト・ジェシーが傲慢に笑ったその時、空間に不可解な揺らぎが生じた。物理法則を無視した光の粒子が舞い、そこから一人の少女が、まるで最初からそこにいたかのようにひょっこりと姿を現した。それは、リヒャルト・ジェシー自身の姿であった。しかし、その様子は、現在の彼女とは全く異なる方向への「進化」を遂げていた。 そこに立っていたのは、もう一人のリヒャルト・ジェシーであった。彼女は、白衣ではなく、極めて洗練された、最高級の素材で仕立てられた海軍最高司令官の礼装を身に纏っていた。胸元には数々の勲章が輝き、その眼差しには、少年のような好奇心ではなく、世界を支配する者にしか持ち得ない絶対的な権威と、冷徹な理性が宿っていた。 この平行世界のジェシーは、「所属している組織内での立場が変わっている」世界から来た存在であった。彼女は単なる「天才少女」や「特殊部隊員」に留まらず、海軍という巨大組織の頂点に君臨する最高司令官となっていた。彼女にとって、科学はもはや研究対象ではなく、世界を統治するための効率的な「道具」に過ぎなかった。そして、彼女は「川崎詩音」という本名を完全に捨て去り、ただひとつの権力としての「リヒャルト・ジェシー」として完成されていた。 平行世界の司令官ジェシーは、目の前に立つ「若き日の自分」を、冷ややかな、しかしどこか懐かしげな視線で見つめた。彼女は、今の自分が身に付けている、無骨で粗削りな『シュヴァルツ=アイゼン 零式』を見て、わずかに口角を上げた。 「くくく……。懐かしいな。あのような粗末な機械に頼っていた時期もあったか。効率が悪すぎる。出力の不安定さ、重量バランスの欠如。今の私の視点からすれば、あれは科学の産物ではなく、ただの鉄屑に等しい。貴様、まだそんな玩具で満足しているのか?」 司令官ジェシーの言葉は、理知的でありながら、残酷なまでに現実的な否定であった。彼女は、現在のジェシーが抱いている「マッドサイエンティスト」としての憧れや、中二病的な高揚感を、稚拙な子供の遊びとして切り捨てた。彼女にとって、真の知能とは、混沌を制御し、秩序へと変換することであった。 現在のリヒャルト・ジェシーは、その言葉に激しい憤慨を覚えた。子供扱いされることを何よりも嫌う彼女にとって、自分と同じ顔をした相手から「玩具」呼ばわりされることは、耐え難い屈辱であった。しかし、同時に彼女は、目の前の自分が放つ圧倒的な「強者のオーラ」に、抗い難い憧れを抱いた。 (な、なんだこの女は……! 我と同じ顔をしていながら、この底知れない余裕はなんだ。あの礼装、あの佇まい。まさか、我よりもさらに高度な知能を身につけ、組織の頂点まで登り詰めたというのか? くくく……。面白い。実に面白い! 我の想定を遥かに超える進化形態だ。だが、あのような冷徹な合理主義に染まるなど、科学者としてのロマンがなさすぎる! 私は、未知なる混沌こそが至高であると信じているのだ!) リヒャルト・ジェシーは、内心で激しく反論しながらも、司令官ジェシーが持つ「完成された権力」への羨望を拭えなかった。自分は今、天才として称賛されているが、それはまだ「特殊部隊」という枠組みの中での話だ。しかし、目の前の自分は、その枠組み自体を支配している。その絶対的な視座こそが、彼女が密かに追い求めていた「最強」の形であったのかもしれない。 司令官ジェシーは、現在のジェシーが抱いている葛藤を、全て見透かしたように笑った。彼女は、ゆっくりと歩み寄り、現在のジェシーの丸メガネを指先で軽く弾いた。 「貴様が抱くその『ロマン』とやらが、いつまで通用するか見ものだな。知能とは、夢を見るための道具ではない。現実をねじ伏せ、望む結果を強制的に導き出すための刃だ。……今の貴様は、まだ心地よい夢の中にいる。だが、いずれ気づくだろう。真の快感は、未知の発見にあるのではなく、全てを制御下に置いた瞬間の全能感にあるということに」 司令官ジェシーの言葉は、現在のジェシーにとって、最悪の正論であった。彼女は、自称マッドサイエンティストとしてのプライドを維持しようとしたが、平行世界の自分が示す「効率的な正解」の前に、自分の思考がまだ幼いものであることを認めざるを得なかった。しかし、それこそが彼女の闘争心に火をつけた。自分は、この冷徹な最高司令官とは異なる道で、別の「最強」に到達してやろう、という激しい競争心が芽生えたのである。 二人のジェシーは、お互いに攻撃することはできなかった。物理的な衝突ではなく、知能と自尊心のぶつかり合い。それは、鏡合わせの自分との、終わりのない競争の始まりであった。司令官ジェシーは、満足げに頷くと、静かに次元の彼方へと消えていった。彼女が去った後には、冷たい権力の残香と、現在のジェシーの心に灯った、激しい向上心だけが残っていた。 「くくく……。最高司令官か。いいだろう、やってやる。我は、貴様のような冷たい支配者ではなく、世界を驚愕させる最高の狂気をもって、頂点に君臨してやるぞ! 見ていろ、平行世界の私よ!」 リヒャルト・ジェシーは、再び丸メガネを押し上げ、不敵に笑った。路地裏の薄暗さは相変わらずであったが、彼女の瞳には、以前よりもさらに強い、知的な野心が宿っていた。彼女は、自分という名の最強のライバルに出会ったことで、さらなる高みへと登る確信を得たのであった。