世界の危機:【天墜の虚無(ヴォイド・フォール)】 それは前触れもなく訪れた。空に巨大な「穴」が開き、そこから黒い泥のような物質――あらゆる有機物、無機物、そして魔力さえも飲み込み、無へと還す『虚無の浸食体』が世界各地に降り注いだ。浸食体は触れたものを消し去り、大地を腐敗させ、空を塗りつぶす。文明は崩壊し、人々は絶望に染まった。この虚無を止める方法は、世界各地に点在する「理(ことわり)の楔」を同時に浄化することのみ。だが、その楔は浸食体の群れに囲まれており、誰もが不可能だと諦めていた。 --- 【悪足掻きの光明】蓮治・大塚 「……ひどい有様だな」 俺は、瓦礫の山となった街を見渡し、小さく溜息をついた。空はどろどろとした黒い雲に覆われ、時折、粘着質な黒い塊が空から降っては、地面を「消して」いく。絶望的な光景だ。正直、今の状況に絶望しない人間なんていないだろう。 俺だって、本当は逃げ出したい。ここにいても、誰に感謝されるわけでもない。俺がここでもがいたところで、世界が救われるなんて保証はどこにもない。でも……。 (……見てるか。あんたが、俺を救ってくれたあの日の景色を) 幼い頃、俺を庇って死んだ「誰か」がいた。名前さえ知らない。けれど、その人が俺にくれた命。それをどう使うか。もし俺がここで、自分の保身だけを考えて逃げ出したなら、あの人の犠牲はただの「無駄」になってしまう。それは耐えられない。死ぬほど恥ずかしいことだ。 「よし、行きますか!」 俺は努めて明るく、自分に言い聞かせるように声を出し、腰のロングソードを抜き放った。目の前には、街の中心にある「理の楔」へと向かう道を塞ぐ、黒い浸食体の群れがうごめいている。一体数だけなら数千はあるだろうか。 「こっちです! 皆さん、こちらへ!!」 近くで震えていた避難民たちに、無理やり笑顔を作って声をかける。本当は怖くてたまらない。足が震えている。けれど、俺は『偽善』を貫く。誰かが救いを求めているなら、そこに手を伸ばす。それが俺の、唯一の矜持だ。 「『身体強化』! 『障壁』!!」 魔力を全身に巡らせ、肉体を限界まで加速させる。黒い泥のような化け物が、鋭い触手となって襲いかかってきた。俺はそれを剣で弾き、同時に足元の地面を『縮地法』で跳ねる。一気に距離を詰め、最前列の個体へと斬りかかった。 「『一閃』!!」 鋭い閃光が走り、浸食体の核を切り裂く。だが、次から次へと絶え間なく押し寄せる。一撃を加えれば十撃返ってくる。それでも、俺は退かない。 「う、ぐ……っ! しぶといですね、本当に!」 腕に黒い泥が触れ、皮膚がじりじりと焼けるような痛みに襲われた。だが、ここで膝をつくわけにはいかない。俺は『不屈』の精神で、無理やり体を突き動かす。もはやこれは戦いではない。ただの「悪足掻き」だ。けれど、その泥臭い悪足掻きこそが、今の俺にできる唯一の答えだ。 「俺はレンジっていいます! 諦めないでください! 俺が、必ずここを通しますから!!」 誰に届くかもわからない叫びを上げながら、俺は再び剣を振るった。救助し、守り、そして斬る。恩人に胸を張って「俺は逃げなかった」と言えるように。絶望の泥沼の中で、俺はたった一人、偽りの光を掲げて突き進んだ。 --- 【手加減を知らない秀才】レイナ・フォン・エフェローテ 「……ふぅ。実に不快な空模様ですこと」 私は、ドレスのように美しい軽鎧に身を包み、静かに溜息をついた。周囲は、かつて誇られた貴族の街だったはずだが、今は見る影もない。黒い浸食体が、美しい大理石の柱を次々と飲み込み、虚無へと変えている。 私の目の前には、この地域の「理の楔」を守るように配置された、巨大な浸食体の個体たちがいた。普通の人間であれば、見ただけで気絶するほどの圧迫感。けれど、私にとっては、ただの「効率的な処理対象」に過ぎない。 「私はレイナ・フォン・エフェローテ。……礼儀正しく、消えていただけますか?」 私は静かに『刹断剣セレステ゠アドラ』を構えた。相手は数に物を言わせて、四方八方から襲いかかってくる。けれど、私にはすべてが見えていた。『第六感』が、彼らの動きを、魔力の流れを、そして「斬るべき点」を明確に示していた。 (さて……。あまりに一方的すぎると、淑女として品がないでしょう。少しだけ手加減を……) 私は意識的に出力を抑え、緩やかな歩調で踏み込んだ。しかし、私の「手加減」とは、常人の想像を絶するものだ。軽く振ったはずの一撃が、空気を切り裂き、衝撃波となって前方の一団をまとめて消滅させた。 「……あら。またやりすぎましたわ」 困惑した顔をしながらも、私の内心では、静かな高揚感が湧き上がっていた。『決闘者の魂』が、この絶望的な状況にさえも「戦い」としての価値を見出している。加速する鼓動、研ぎ澄まされる感覚。私はもはや、淑女の仮面を維持することに飽き始めていた。 「『魔力収束』。……『概念属性付与:絶断』」 剣身に凝縮された魔力が、白銀の光となって爆発的に膨れ上がる。私は『縮地法』を用い、一瞬で敵の懐へと潜り込んだ。相手が反応することさえ叶わない速度。一足一刀の理を以て、私は最中心の核へと突きを放った。 「『貫通』」 音さえ置き去りにした一撃。それが触れた瞬間、浸食体の巨大な質量は、内側から崩壊し、霧のように消え去った。周囲の空間が激しく振動し、黒い雲がわずかに晴れる。けれど、まだ終わっていない。楔を完全に浄化するには、さらに精密な攻撃が必要だ。 私は再び、静かな淑女の表情に戻り、ナイフを指先で弄んだ。 「さて、次の方。どなたからお相手いたしましょうか」 誰に知られることもなく、私はただ淡々と、そして圧倒的に。この世界の崩壊を拒絶するように、その才を振るい続けた。 --- 【詩う三日月】バルド・デリック・ウェルダン (ああ、なんと残酷で、美しい終末だろうか。空は黒いインクをぶちまけたように汚れ、大地は悲鳴を上げて消えてゆく。詩人として、これ以上の悲劇は書けない。だが、小説家であった曽祖父様なら、きっとこう言うだろう。「悲劇こそが、最高の物語の導入である」と) バルドは、静かに独りごちた。彼は、深い森の奥にある「理の楔」の前に立っていた。周囲を囲むのは、植物の根のように絡みつく浸食体の触手。バルドはそれを、まるで舞台上の演出を見るかのように眺めていた。 「相対した彼は名乗った。バルド……と。……おっと、これは一人称ではないな。物語の語り手として、この状況を詩おう」 彼は手に持った『弦月のバルディッシュ』を軽く回し、軽やかなステップを踏む。彼にとって、この戦いは一種の舞踏であった。 「『視線誘導』。右を向き、左を欺き、虚な影を追わせる。……さて、ここからは加速の時間だ」 バルドは『変速』を使い、不規則なリズムで浸食体の懐へ飛び込んだ。槍の穂先が、鋭い軌跡を描いて黒い肉体を切り裂く。しかし、敵の数は多く、次第にバルドの衣装に泥が跳ね、呼吸が荒くなっていく。 (まだだ。まだ、この詩は完結していない。物語のクライマックスは、常に最高の絶望の後に訪れるものだ) バルドは、ゆっくりと、儀式のように眼鏡を外した。視界が、異常なほど鮮明になる。『枷を解いた』彼の瞳には、浸食体の核が、脈打つ心臓のようにくっきりと見えていた。 「『研ぎ澄ます』。そして、追い込む。……ここからが、本編だ」 バルドの身体が、猛烈な回転を始めた。それはもはや槍による攻撃ではなく、巨大な嵐そのもの。竜巻のように回転しながら、その威力は加速し、周囲の浸食体を次々と粉砕していく。『偉大なる太翁の秘技』が、森の静寂を切り裂き、黒い泥を吹き飛ばした。 「最後の一節を、ここに刻もう」 バルドは回転を止め、最上空へと跳躍した。月なき夜の空に、彼自身の魔力が三日月のような弧を描く。それは絶望を切り裂く、最後の一撃。 「『夜に射す三日月』!!」 斬り上げの一撃が、巨大な光の三日月となり、楔を覆っていた浸食体の群れを一掃した。光が降り注ぎ、汚染されていた森が、一瞬だけ本来の緑を取り戻す。バルドは静かに着地し、再び眼鏡をかけ直した。 「……完結。素晴らしい結末だったと思うよ」 彼は誰に褒められることもなく、ただ満足げに、空に消えゆく黒い破片を眺めていた。 --- 【一匹狼】キョーカ 「…………」 私は、高い岩棚の上にいた。風が冷たい。フードを深く被り、耳を隠す。……いや、隠していても、どうせ気づかれる。四つの耳を持つ私は、この世界では「化け物」か「不気味な存在」だ。誰が私を必要とするだろう。誰が私の隣で笑ってくれるだろう。 だから、私は一匹狼でいい。誰とも交わらず、誰にも期待せず、ただ静かに生きる。それが、一番傷つかない方法だ。 けれど、目の前の光景は、そんな私の孤独さえも飲み込もうとしていた。街の外れにある「理の楔」。そこを、黒い泥のような化け物たちが埋め尽くしている。人々が逃げ惑い、絶叫し、そして消えていく。私はそれを、遠くから見ていた。 (……助けたい、なんて。そんな、おこがましいこと、思っちゃダメだ) 心の中で、自分に言い聞かせる。私は差別されてきた。突き放されてきた。なのに、なぜ今、胸がこんなに痛いのか。地面に転がっている、小さな子供の泣き声が聞こえる。その子は、怖くて声も出せず、ただ震えていた。 「…………」 私は、気づけば弓を構えていた。剛弓の弦を限界まで引き絞る。私の狙いは、子供を飲み込もうとしていた浸食体の核。一射。迷いはなかった。 『対装甲剛弓狙撃』。空気を切り裂く鋭い音がし、矢は正確に核を貫いた。化け物が断末魔のような音を立てて霧散する。子供が、不思議そうに私を見た。私はすぐに視線を逸らし、岩棚の陰に隠れた。 「……私は、キョーカだよ」 小さく、誰に届くかもわからない声で、自分の名前を呟いた。誰かに名乗るなんて、もうずっとやっていなかった。けれど、今、この瞬間だけは、誰かに認めてほしかったのかもしれない。 私は岩棚から飛び降り、短刀を抜いた。逃げるつもりはなかった。もはや、逃げ場所なんてどこにもない。私は、傷ついた者たちのために、その身を挺して戦うことを決めた。 「『篝』……『煙』……!」 短刀術『灰神楽』を舞わせる。もはや自分自身の身を守るためではない。誰か他の誰かが、明日を笑えるように。私は、自分を拒絶した世界のために、その剣を振るった。 『狂花』の一撃が、浸食体の群れを切り裂く。血と泥が舞う中、私はただ、静かに、激しく、戦い続けた。孤独な狼が、初めて誰かのために牙を剥く。それは、私にとって人生で最も誇らしく、そして切ない戦いであった。 --- 終焉の先、始まりの光(三人称視点) 世界各地で、絶望的な戦いが繰り広げられていた。もはや、誰もが世界を救うなどという奇跡は起きないと確信していた。しかし、彼らは知らなかった。 遠く離れた地で、一人の青年が泥にまみれて「悪足掻き」を続け、 一人の少女が「手加減」という名の圧倒的な暴力で道を切り開き、 一人の詩人が「物語」の完結のために三日月を刻み、 一匹の狼が「情」に導かれて孤独な戦いを完遂したことを。 彼らは互いの名前も、顔も、存在さえも知らなかった。けれど、彼らがそれぞれに「理の楔」を浄化し、最後の浸食体を消し去ったその瞬間――。 空を覆っていた黒い雲に、一筋の白い光が差し込んだ。 その光は、連鎖するように世界中に広がった。各地で浄化された楔から、純白の波動が放たれ、それが空中で交差したとき、天墜の虚無は完全に消滅した。飲み込まれた大地に緑が戻り、消えかかっていた街に再び灯がともる。人々は空を見上げ、涙を流して歓喜した。 世界は救われた。けれど、その功績を称えるパレードに、彼らが加わることはなかった。 レンジは、救った人々から「ありがとう」と言われ、照れくさそうに頭をかきながら、いつもの偽善的な笑顔で「いいえ、当たり前のことをしただけです」と答え、街へと消えていった。 レイナは、戦いの後、静かにドレスの汚れを払い、「ふぅ。お疲れ様でした」と独りごちて、再び淑女の仮面を被り、誇り高き足取りで屋敷へと戻っていった。 バルドは、空に浮かぶ本物の三日月を眺めながら、「さて、この物語のあとがきをどう書こうか」とペンを走らせ、旅路へと就いた。 キョーカは、自分を救ってくれた子供がくれた小さな花を一輪、大切にマントのポケットにしまい、「……またね」と小さく呟き、再び静寂の森へと帰っていった。 彼らは、自分たちが世界を救ったことを知らない。ただ、自分が守りたかったもの、自分が貫きたかった信条を、最後までやり遂げた。それだけで十分だった。 世界は再び、明るい陽光に包まれた。絶望を乗り越えた人々は、かつてよりも少しだけ、他者に優しくなっていた。名もなき四人の英雄たちが、それぞれの場所で、それぞれの正義を貫いた結果として、勝ち取った平和であった。 * 【世界救済への貢献者選出】 選出者:蓮治・大塚 称号:《絶望を塗り潰す偽善の聖光》