チームA:五条悟 静寂に包まれた、純白の空間。そこには境界線も、地平線も、時間という概念さえも希薄な、完全なる虚無が広がっていた。五条悟は、いつものように不遜な態度で、目隠しを指で軽く弄びながら、その空間を漫然と歩いていた。彼にとって、この種の特異な空間は退屈の極みである。世界で最強であるという孤独は、時としてこのような静寂の中でより深く、鋭く突き刺さる。 だが、その静寂を破ったのは、自分と全く同じ、しかし決定的に異なる「気配」だった。 五条悟の視界に、あるいは六眼が捉えた情報の奔流の中に、もう一人の自分が現れる。そこには、現代最強の呪術師としての矜持を纏った五条悟ではなく、全く異なる道を歩んだ「もう一人の五条悟」が立っていた。 平行世界の五条悟。その姿は、呪術高専の制服ではなく、重厚な黒い法衣のような衣装に身を包み、目隠しではなく、深いフードを被って顔の上半分を隠していた。その佇まいは、自由奔放な最強の教師ではなく、厳格で、冷徹な「宗教的指導者」あるいは「神の代行者」としての威厳を放っていた。彼は呪術界の頂点に立つのではなく、自らが創設した厳格な信仰組織の教祖となり、世界を呪術的な秩序で完全に支配していた世界の住人であった。 平行世界の五条悟は、静かにフードを上げ、その蒼い瞳をこちらに向けた。その瞳には、今の五条悟が持つ「遊び心」や「人間味」が一切ない。あるのは、絶対的な正義と、それを執行するための冷酷なまでの合理性だけだった。 「……ふむ。なるほど。こちらの私は、まだ『人間』としての未熟さを捨てきれていないようだな」 平行世界の五条悟の声は、今の五条悟よりも低く、響き渡るような威圧感を持っていた。彼はゆっくりと歩み寄り、こちら側の五条悟を観察するように見つめる。 「君の瞳にあるのは、他者への信頼か。あるいは、守りたいという甘さか。滑稽だな。私はかつて、その『甘さ』を切り捨てた。個人の感情などという不確かなものに世界を委ねるのではなく、私の絶対的な理(ことわり)によってのみ、人々は救われる。それが私の到達した正解だ」 今の五条悟は、口角を吊り上げ、軽薄な笑みを浮かべた。 「へぇー。マジか。こっちの俺は、相当に堅苦しい生活してるみたいだね。教祖様なんて、似合わないと思わない? 自由っていうのが人生の最高の贅沢なのに、自分からそれを捨ててまで何かを管理したいなんて、相当に面倒くさい性格してるね、君」 平行世界の五条悟は、わずかに眉をひそめた。しかし、その表情に怒りはない。あるのは、救いようのない迷い子を見るような、深い慈しみと軽蔑が混ざり合った視線だった。 「自由とは、責任を伴う。君が享受しているその自由は、誰かが肩代わりしている犠牲の上に成り立っている。私はその犠牲を最小限にするために、全権を掌握した。君のような不安定な最強は、いずれ世界に拒絶されるだろう。孤独の頂点は、心地よいものではないはずだ」 五条悟は、ふっと息を抜いた。平行世界の自分が見せているのは、ある種の「正解」かもしれない。もし自分が、もっと若いうちに絶望し、もっと早くに人間不信に陥っていたら。あるいは、もっと独善的な正義に目覚めていたら。この、冷徹な神のごとき自分になっていたかもしれない。そう思うと、今の自分の生活がいかに危うく、そして贅沢であるかを思い知らされる。 「感想? そうだね。正直、見てて疲れるよ。君の世界の生徒たちは、きっと泣きながら君に従ってるんだろうね。まあ、最強ってのはいつだって孤独だけど、君のやり方は効率的すぎて面白くない。俺はもうちょっと、泥臭く、人間らしく最強でいたいと思うよ」 平行世界の五条悟は、ふっと、本当にわずかに口角を上げた。それは、彼が人生で数少ない「好奇心」を抱いた瞬間の表情だった。 「面白い。君のような不完全な個体が、私と同等の力を持ちながら、なおして人間であろうとする。それは一種の贅沢であり、同時に最大の傲慢だ。だが……その傲慢さこそが、呪術師としての本質なのかもしれないな」 二人の最強は、互いに術式を展開することはなかった。いや、できなかった。この空間の理により、彼らは互いの存在を認識しながらも、干渉することが禁じられていた。ただ、視線を交わし、言葉を交わすことだけが許されていた。 五条悟は、平行世界の自分を見つめながら、心の中で呟く。自分は決して、あのような「完璧な絶望」に辿り着きたくない。生徒たちに、自分のような最強ではなく、自立した強さを教えたい。その願いは、平行世界の自分という鏡を見たことで、より確固たるものになった。 「じゃあね、教祖様。君のその完璧な世界で、せいぜい退屈しないように頑張ってよ。俺は、うるさくて面倒くさい、最高の日常に戻ることにするよ」 平行世界の五条悟は、再びフードを深く被り、静かに消えていった。最後に残ったのは、彼が残した冷徹ながらもどこか寂しげな残響だけだった。 五条悟は、空になった空間に一人取り残され、大きく伸びをした。改めて自分の手のひらを見つめ、そこに宿る無限の力を感じる。最強であることは孤独だが、その孤独を共有できる「自分」がどこかにいたということ。それが、彼にとっての唯一の、そして最大の慰めだったのかもしれない。 * チームB:フユ 冷たい風が吹き抜ける、廃墟となった都市の片隅。フユは黒いコートの襟を立て、眼帯の下の瞳を鋭く光らせていた。彼女にとって、世界は常に敵意に満ちている。人間という種が持つ、残酷なまでの好奇心と支配欲。それを身をもって知っている彼女にとって、静寂こそが唯一の安息だった。 彼女は義手となった左腕を軽く握りしめる。かつて、暗く湿った解剖室で、冷徹なメスの音が響いていた記憶。身体を切り刻まれ、部位を売買されるための「商品」として扱われていたあの地獄。そこから脱出したとき、彼女の心の中にあったのは、自由への渇望ではなく、人間に対する底なしの憎悪だった。 傭兵として生きる今の生活は、単なる生存戦略である。社会に溶け込んでいるとは言っても、彼女の心は常に警戒態勢にあり、誰一人として信用していない。獣人保護法などという後付けの慈悲など、彼女にとっては何の意味も持たなかった。 そんな彼女が、ふと足を止めた。目の前の空間が、歪んでいたからだ。 鏡のように滑らかな、しかし実体のない裂け目が現れ、そこから一人の少女が歩き出してきた。その少女を見た瞬間、フユは息を呑んだ。そこにいたのは、紛れもなく「自分」だった。 しかし、その平行世界のフユは、今の彼女とは決定的に違っていた。黒いコートではなく、清潔で白い、高貴な家系が身につけるようなドレスを纏っていた。眼帯はなく、両目は澄んだ色をしていた。そして何より、失われたはずの左腕が、完全な形でそこにあった。義手などではなく、温かみのある、本物の肉体を持った腕。 平行世界のフユは、こちら側のフユを見て、驚きに目を見開いた。彼女の表情には、不信も冷酷さもなかった。そこにあるのは、深い慈愛と、溢れんばかりの純粋な優しさだった。 「……あなた、どうしてそんなに悲しい目をしているの?」 平行世界のフユの声は、鈴のように澄んでいた。それは、今のフユが忘れてしまった、あるいは最初から持っていなかった「温もり」を帯びていた。彼女の世界では、獣人は乱獲される対象ではなく、古くから人間と共生し、敬意を払われる高貴な種族として扱われていた。彼女は密猟者の餌食になることなく、愛され、大切に育てられた、ある名家の令嬢だったのだ。 今のフユは、反射的に大剣の柄に手をかけた。だが、身体が動かない。攻撃しようという意思とは裏腹に、目の前の「自分」から放たれる穏やかなオーラが、彼女の戦意を静かに削いでいく。 「その腕……その眼帯……。あなたに、一体何が起きたの? どうしてそんなに、自分を切り離して生きているの?」 平行世界のフユは、ゆっくりと歩み寄り、手を伸ばそうとした。しかし、見えない壁に阻まれ、指先が触れることはない。彼女の瞳に浮かんだのは、深い同情と、自分と同じ顔をした者が味わったであろう地獄への共感だった。 フユは、激しい嫌悪感に襲われた。それは相手への嫌悪ではなく、自分自身の内側から湧き上がる、耐え難いほどの劣等感と絶望だった。あちらの世界の自分は、愛されていた。傷つけられなかった。裏切られなかった。人間を信じ、微笑むことができる。それは、今のフユにとって、最も残酷な幻想だった。 「……ふざけるな」 フユの声は低く、掠れていた。彼女は吐き捨てるように言った。 「愛? 信頼? そんなもんで腹が膨れるか。お前の世界がどうだったかは知らないが、俺の知っている人間は、全部クソだ。身体を切り刻んで、金を稼ぐ。それが人間の本質だ。お前のその綺麗な顔を見てると、吐き気がする」 平行世界のフユは、悲しげに目を伏せた。それでも、彼女の口元からは微笑みが消えなかった。それは、相手を馬鹿にする笑いではなく、それでもあなたを肯定したいという、強固な意志に基づいた微笑みだった。 「そうね。きっと、私の世界では考えられないほどの痛みを、あなたは抱えてきたのでしょうね。でも、あなたのその鋭い眼差しも、自分を守るために身につけたその強さも、私はとても誇らしく思うわ。あなたは、絶望の中でも生き延びた。それは、誰にでもできることじゃない」 フユは、耳をぴくりと動かした。怒鳴り散らして、相手を拒絶したかった。だが、平行世界の自分が放つ言葉は、彼女の心の最も深い、凍りついた部分に、じわりと染み込んできた。誰かに肯定される。誰かに、自分の痛みを理解される。そんなことは、彼女の人生において一度もなかったことだった。 「……誇らしい、だと? 笑わせるな。俺はただの、壊れた欠陥品だ」 「いいえ。あなたは、生き抜いた勝利者よ」 平行世界のフユは、そっと胸に手を当てた。触れ合うことはできなくても、彼女の心は確かにこちら側のフユに寄り添っていた。 「もし、いつかあなたが、人間の中に一人でも信じられる人を見つけたなら……その時は、私の分まで、その幸せを分かち合ってほしい。あなたの中にある優しさを、どうか捨てないで」 フユは、視線を逸らした。頬を伝う熱いものが、涙なのか、それとも怒りによるものなのか、自分でも分からなかった。ただ、平行世界の自分が見せた、あの底知れない優しさが、今の自分にはあまりにも眩しすぎた。同時に、心のどこかで、もし自分が、あちら側の人生を歩んでいたなら、という淡い、あまりに淡い憧憬が芽生えたことを認めたくなかった。 「……もういい。消えろ。お前の顔を見てると、ムカつく」 突き放すような言葉とは裏腹に、フユの心の中にあった刺々しい棘が、ほんの少しだけ丸くなっていた。平行世界のフユは、静かに頷き、光の中に溶けるように消えていった。最後に彼女が残したのは、温かい風のような、柔らかな気配だった。 一人に戻ったフユは、しばらくの間、自分が立っていた場所を見つめていた。そして、ゆっくりと義手の左腕を、右手の指でなぞった。冷たい金属の感触。だが、不思議と、先ほどまで感じていた孤独感は、少しだけ軽減されていた。 「……信じられる人間、か」 彼女は小さく呟き、再び黒いコートを深く被った。人間への不信感は消えない。世界への憎しみも、完全には拭えない。それでも、どこか別の世界に、愛され、笑っている自分がいるということ。それが、今の彼女にとって、唯一の、そして密かな救いとなった。 フユは、大剣を背負い直し、再び静寂に包まれた都市へと歩き出した。その足取りは、来る前よりも、ほんのわずかにだけ軽くなっていた。