序章:黄金の瞳と雨の路地裏 意識が浮上したとき、最初に感じたのは鼻を突く不快な湿り気と、皮膚を刺すような冷気だった。 (……ここは、どこ?) 思考が混濁している。最後に覚えていたのは、深い眠りに落ちる直前の静寂だけだ。ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは灰色に塗り潰された空と、汚れきったコンクリートの壁。そして、自分の視点があまりにも低いことに気づいた。 状況を確認しようとして、私は自分の手を見た。そこにあったのは、白く柔らかな指先ではなく、肉球のついた、黒い毛に覆われた小さな前足だった。 「……にゃ、あ?」 声を出そうとした瞬間、口から漏れたのは可憐な少女の声ではなく、情けないほどに高く、細い猫の鳴き声だった。 私は愕然とした。私は、神田蘭花。人々の前に出れば、赤いランドセルを背負い、薄灰色のカーディガンを羽織った、どこにでもいる心優しい女子小学生として振る舞う者。その正体は、六本の腕と蛇の下半身を持つ、古き神――姦姦蛇螺である。 しかし、今の私にその神威はない。長い尾も、強靭な鱗も、相手を絶望させる蛇睨みも、すべてが消えていた。ただの、小さく、震える黒猫。それが今の私の姿だった。 雨が降り始めた。冷たい雫が、濡れた毛皮に染み込み、体温を奪っていく。ジメジメとした暗い路地裏で、私は孤独に震えていた。空腹が胃を締め付け、寒さが骨まで浸透する。神としての誇りなど、この絶望的な状況の前では何の役にも立たなかった。 (誰か……誰でもいいから、助けて……) それは、神が人間に抱く感情としてはあまりに不釣り合いな、弱々しい願いだった。私はただ、この冷たい雨から逃れたかった。泥にまみれた地面に体を丸め、私は何度も、何度も、助けを求めて鳴いた。 「にゃあ……にゃあぁ……」 その時だった。路地裏の入り口に、一人の男の影が落ちた。 ひどく緩い足取り。肩を落とし、まるで重力に逆らうことさえ億劫だと言わんばかりの、極めて怠惰な佇まい。男の名は、ダラ。彼がどのような存在であるか、当時の私は知らなかった。ただ、彼がこちらに視線を向けたとき、その瞳には鋭い殺意も、深い慈愛もなかった。ただただ、「面倒くさそうだが、放っておくのはもっと面倒だ」という、独特の緩慢さが漂っていた。 ダラはゆっくりと、本当にゆっくりと、私の方へ歩み寄ってきた。そして、大きな手を伸ばし、濡れ鼠のような私の体をひょいと持ち上げた。 「……にゃっ!?」 驚いて身をよじったが、彼の腕の中は意外にも温かかった。彼は私の濡れた毛を適当に眺めると、欠伸を一つつき、ぼそりと呟いた。 「……黒いな。まあいいか。名前、なんてえ……。適当に『クロ』でいいか。いや、やっぱり『ルナ』とかの方が、なんかそれっぽいか」 彼はしばらく考え込んだ後、結局面倒になったのか、適当な名前を付けた。 「いいや、もう考えるのが疲れた。お前のことは……『おもち』にしよう。丸くて、柔らかそうだから」 おもち。神としての名に代わり、私はそのあまりにも締まりのない名を与えられた。けれど、その時の私は、彼が差し出した温もりに、ただただ救われた気持ちでいたのだ。 こうして、蛇神としての威厳を完全に喪失した私は、一人の男の「飼い猫」として、奇妙な共同生活を始めることになった。 第一章:怠惰の聖域と、もふもふの特権 人間としての生活に戻りたいという願いは、ある種、贅沢な悩みだったのかもしれない。 ダラの家は、一言で言えば「混沌とした静止状態」だった。 家具はあちこちに散らばり、床には脱ぎ捨てられた服や読みかけの本が転がっている。空気さえも、彼の影響を受けているのか、どことなく停滞し、ゆっくりと流れているように感じられた。 私――今は「おもち」と呼ばれる黒猫――は、そんな家の中で、特等席を確保していた。それは、ダラが一日中転がっている巨大なソファの、ちょうど彼の脇腹あたりである。 「……ふぁぁ……」 ダラは、信じられないほどに動かない。朝起きてから夜眠るまで、彼の行動範囲は、キッチンからソファ、そしてベッドまでの最短距離のみだ。彼は食事の時以外は、ほとんどの時間をソファに埋もれて過ごしている。 私にとって、それは最高の環境だった。私は彼の脇に潜り込み、その一定のリズムで刻まれる鼓動を聞きながら、丸くなって眠る。彼の手が、時折、気怠げに私の頭を撫でてくれる。その手のひらは大きく、そして驚くほど温かい。 (ふふ……人間というのは、案外心地よい生き物なのね) 私は喉をゴロゴロと鳴らし、彼に甘えた。かつての私であれば、誰かに頭を撫でられるなどという屈辱、考えもしなかっただろう。けれど、今の私はただの猫だ。そして、この怠惰な男に飼われているという状況が、不思議と心地よかった。 しかし、たまに疑問に思うことがある。この男、本当にただの人間なのだろうか。 彼は、極限まで動くことを拒んでいる。だが、その周囲に漂う気配は、決して弱者のそれではない。時折、彼がふと見せる眼差しには、底知れない深淵のような、あるいは全てを飲み込む黒い穴のような、底知れない力が潜んでいた。 ある日のことだ。窓から一匹の大きなカラスが侵入し、テーブルの上に置いてあった彼のお菓子を奪おうとした。カラスは激しく羽ばたき、部屋の中を混乱させた。 私は反射的に、蛇としての本能で身構えた。もし私が今の姿でなければ、ひと睨みでその鳥を石に変えていただろう。しかし、私はただの猫だ。せいぜい前足で空を掻くことしかできない。 ところが、ダラは動かなかった。彼はソファに寝そべったまま、片目だけを薄く開けてカラスを見た。 「……うるさい。消えてくれ」 彼がそう呟いた瞬間。 目に見えない「流れ」が変わった。場の空気が一変し、カラスの動きが止まった。いや、止まったのではない。カラスにとっての時間が、無理やり書き換えられたかのように、その鳥は不自然な方向へと弾き飛ばされ、開いた窓から外へと追い出された。 彼が指一本動かしていない。ただ、言葉と意思だけで、物理的な結果を引き寄せたのだ。 (……!? 今のは……) 私は毛を逆立てて彼を見た。彼はすでに、再び深い眠りに落ちていた。 彼は恐ろしい力を持っている。だが、それを誇示することもなく、むしろその力があるからこそ、誰よりも怠惰に振る舞えるのだろう。私は、そんな彼の在り方に、ある種の憧れさえ感じ始めていた。 神として、常に完璧な少女を演じ、周囲の期待に応え、裏では冷徹な審判を下す。そんな緊張感に満ちた生活に比べれば、ここで彼に撫でられながら、日向ぼっこをして過ごす時間は、何物にも代えがたい至福だった。 「おもち……お腹、空いたか?」 彼が眠い目を擦りながら、私に問いかける。私は嬉しくなり、「にゃーん!」と短く鳴いて、彼の足元に体を擦り付けた。 彼がゆっくりと腰を上げ、キッチンへ向かう。その歩みの遅さは、見ていて気が遠くなるほどだが、私はその後ろを、誇らしげに尾を立ててついていく。 私は今、この家の主ではなく、この怠惰な男の「お気に入り」なのだ。その特権こそが、今の私にとって最大の武器だった。 第二章:静寂の食卓と、不可思議な客人 季節が移ろい、窓の外の景色が色づき始めていた。 私の生活は、完全に「猫」としてのルーチンに組み込まれていた。朝、ダラの顔を踏んで起こし、彼が気だるげに私を抱き上げて頬ずりをする。その後、彼が適当に作った(あるいはコンビニで買ってきた)食事を、私は専用の皿から食べる。 ダラの食事は、至ってシンプルだ。けれど、彼は時折、不思議な食材を口にする。どこから調達したのか分からない、見たこともない果実や、仄かに光を放つ蜂蜜のようなもの。それを口にしたとき、彼の周囲の空気がさらに濃密になり、部屋の中の静寂が深まる。 (彼は一体、何者なの……?) 私は、彼を観察し続けた。彼は決して自分から何かを語ろうとはしない。ただ、彼にとっての世界は、彼を中心とした「停滞の円」に包まれているようだった。 そんなある日、この静かな聖域に、招かれざる客が訪れた。 玄関のチャイムが激しく鳴り響いた。ダラはソファで丸まっていたため、反応しなかった。私は耳をぴくつかせ、扉の向こうから聞こえてくる、刺々しい声に意識を集中させた。 「おい! ダラ! 出てこい! いつまで逃げ回っている!」 声の主は、武装した男たちだった。鎧のようなものを身に纏い、手には不吉な魔力を帯びた武器を持っている。彼らは、この世界の理から外れた、何らかの組織の追っ手か、あるいは彼に恨みを持つ戦士たちだろう。 私は本能的に、ダラの前に飛び出した。 (馬鹿ね。こんなに危うい男を、私がいなければ守れないわ) もちろん、私は今の姿では戦えない。けれど、せめて彼を覚醒させなければならない。私はダラの足元で激しく鳴き、その指を軽く噛んだ。 「……ん? どうした、おもち。うるさいぞ」 ダラは面倒そうに目を開けた。その時、扉が無理やり抉じ開けられ、三人の男たちがなだれ込んできた。彼らの瞳には、明確な「殺意」が宿っていた。 私にとって、殺意とは最も敏感に察知できる感情だ。かつての私であれば、その殺意をそのまま相手に返して、絶望の淵へ突き落としていただろう。けれど、今はただの猫だ。殺意に晒された私の体は、ガタガタと震えた。 「見つけたぞ、堕落の化身よ! 今日こそ貴様のその不遜な魂を、我が主へ捧げてくれる!」 先頭の男が、大剣を振り上げた。その軌道は鋭く、迷いがない。狙いは、ソファでぼうっと座っているダラの首だ。 私は叫んだ。「にゃあああああ!!」と。 しかし、結果はあまりにも呆なものだった。 剣がダラの喉元に届く直前。世界が、止まった。 いや、止まったのではない。剣の速度が、極限まで遅くなったのだ。まるで、水の中に深く潜ったかのように、攻撃の勢いが完全に消失していく。 ダラはあくびをしながら、ゆっくりと右手を挙げた。 「……あー……。今、ちょうどいい夢を見てたのに」 その声には、怒りさえなかった。ただ、深い、深い「不機嫌さ」だけがあった。 「帰れよ」 彼が軽く手を振った。その瞬間、目に見えない衝撃波が部屋中を駆け抜けた。壁や家具は一切傷つかない。しかし、侵入した男たちだけが、まるで巨大な見えない手に押し出されたかのように、後方へと吹き飛ばされた。 彼らは悲鳴を上げる暇もなく、玄関の外へと放り出され、そのまま路地裏の向こう側まで消え去った。 静寂が戻る。 ダラは再びソファに深く沈み込み、目を閉じた。 「……疲れた。おもち、おいで」 私は呆然としていた。今の現象は、単なる物理的な攻撃ではない。彼は「場の流れ」そのものを操り、相手の意思と行動を無効化したのだ。その規模と精度は、神の領域に近い。 私はゆっくりと彼に寄り添い、その胸に顔を埋めた。 (……本当に、とんでもない人を拾ってしまったわね) でも、不思議と怖くはなかった。むしろ、この圧倒的な強さと、それを使いこなそうともしない徹底的な怠惰さに、私は言いようのない安心感を覚えた。 彼は私をただの猫だと思っている。私が、かつて世界を震撼させた蛇神であることも、今この瞬間、彼に心酔していることも、彼は知る由もない。 私は彼のシャツに爪を立て、心地よい温もりに身を任せた。 「にゃあ……」 (いいわ。このままでも。私があなたの隣で、この贅沢な時間を守ってあげる) それは、神としての責任感ではなく、一匹の飼い猫としての、ささやかな独占欲だった。 第三章:黄金の瞳が映す、永遠の昼下がり それから、さらに時間が流れた。 私はもはや、自分が元々人間だったことや、蛇神であったことを、日常の中で忘れることが増えていた。 もちろん、記憶が消えたわけではない。金色の瞳で世界を見つめれば、今でも万物の理が見える。けれど、それを意識して生きるよりも、ダラに「おもち」と呼ばれ、日向ぼっこをする方が、ずっと価値があることのように思えた。 ダラとの生活は、変化がないことが最大の魅力だった。 彼は相変わらず動かない。時折、彼が持っている「堕天の滅翼槍」という恐ろしい武器が、部屋の隅に立てかけられている。それを目にするたび、私はその武器が持つ「存在消滅」の力を感じ取り、背筋が寒くなる。だが、彼はその槍を、たまに洗濯物を干す時の支えにしていたり、あるいは単なるドアストッパー代わりにしていたりした。 (あんな至宝をそんな風に使うなんて……。本当に、救いようのない男ね) 私は呆れながらも、そんな彼に深い愛着を抱いていた。 ある日の午後。窓から差し込む陽光が、リビングを黄金色に染めていた。 ダラはソファで深く眠り、私はそのお腹の上で丸くなっていた。心地よい鼓動と、微かに漂う彼特有の、どこか懐かしい香りが私を包み込んでいる。 ふと、私は考えた。 もし、いつか私が元の姿に戻ることができたら、どうなるだろうか。 再び、赤いランドセルを背負い、人畜無害な少女として振る舞い、裏では冷酷な神として君臨する。それは、私の「本来の生き方」だ。けれど、今の私は、誰に気兼ねすることもなく、ただ愛され、甘やかされるだけの存在だ。 (……戻りたいかしら) 答えは、すぐに分かった。 私は、今のこの時間が好きだった。 彼に撫でられる快感。 彼と一緒に過ごす、意味のない、けれど贅沢な空白の時間。 神として敬われるよりも、猫として愛されることの方が、ずっと贅沢だということに、私は気づいてしまったのだ。 「……むにゃ……」 眠っていたダラが、もぞもぞと身をよじった。彼は半分眠ったまま、手探りで私の頭を探し当てると、そのままぎゅっと抱き寄せた。 「……おもち……。お前、いい匂いがするな……」 その言葉に、私の心臓がトクンと跳ねた。 私は彼に、最大限の親愛を込めて、喉をゴロゴロと鳴らした。 もし、世界が再び私を呼び戻そうとしても、私はこの男の隣に居座り続けるだろう。蛇の死返しなどという恐ろしい能力も、蛇睨みの威圧も、今の私には必要ない。 必要なのは、この大きな手のひらの温もりと、「おもち」という、あまりにも適当で愛おしい名前だけだ。 私はゆっくりと目を閉じ、彼と同調するように、深い眠りへと落ちていった。 外の世界では、相変わらず争いや憎しみ、そして神々への祈りが渦巻いているのかもしれない。けれど、この部屋の中だけは、時間が止まったままだ。 怠惰な男と、正体を隠した神の猫。 そんな奇妙な二人の、永遠に終わらない昼下がり。 私は、幸福な黒猫として、その心地よい静寂に身を浸し続けた。