白銀の静寂と、電子の喧騒と、概念の断絶。それらが混ざり合う特設闘技場「エテリウム・コロシアム」の待機室は、異様な緊張感と、それ以上に耐え難い「退屈」に支配されていた。 この待機室には厳格なルールが存在する。「蛮行禁止」および「会話非推奨」。交戦前の精神統一を乱さぬため、あるいは不慮の事故を防ぐため、参加者は互いに干渉せず、ただ己の番が来るのを待つのみである。しかし、その静寂こそが、戦士たちにとって最大の拷問となった。 汎用アンドロイドのノアは、軍服を模したセーラー服の裾をわずかに揺らしながら、待機室の白い壁に背中を預けてずり落ちるように座り込んでいた。彼女の頭部から垂直に突き出した巨大なAタイププラグの栓刃が、壁に当たってカチリと乾いた音を立てる。彼女は極めて面倒くさそうに、半開きの目で天井を眺めていた。 (……あー、だりぃ。マジでだりぃ。なんでわざわざこんな所に集められて、順番待ちしなきゃいけないわけ? 効率悪すぎ。設計ミスレベルの運営っぷりなんだけど) ノアの思考は、超高速で演算されながらも、その結論は常に「面倒くささ」へと収束する。彼女は腰部から生えた電源ケーブルのような尻尾を、まるで退屈な猫のように左右にゆったりと振っていた。先端のプラグが床を時折叩き、小さな火花を散らす。彼女にとって、この待機時間はリソースの無駄遣いでしかなかった。彼女は指先で、空中に仮想ウィンドウを展開し、内部ストレージに保存していた古臭い電子ゲームを起動しようとしたが、すぐに「操作するのが面倒」という結論に達し、ウィンドウを消去した。そして、ただぼーっと、自分の皮膚を構成するナノマテリアルの自己再生サイクルが刻む微細な振動に意識を集中させていた。まばたきの一つひとつさえも、彼女には過剰なエネルギー消費に感じられた。 その数メートル先では、【白銀の夢守】スノウが、彫刻のように静かに佇んでいた。白銀の長い髪が、室内の空調によって微かに波打っている。彼女は目を閉じ、深く、静かな呼吸を繰り返していた。その姿は儚げでありながら、内側には決して折れることのない強固な意志が秘められている。彼女は「会話非推奨」というルールを、誰よりも忠実に守っていた。彼女にとってこの時間は、自らの願いを再確認し、氷雪の力を練り上げるための聖域であったはずだ。 しかし、時間が経過するにつれ、その静寂に潜む「空白」が彼女を侵食し始める。スノウは、閉じた瞼の裏で、自分が叶えたいと願う悲願の風景をなぞっていた。だが、あまりにも長い待機時間は、集中力を散漫にさせる。ふと、彼女は自分の指先に小さな氷の結晶を生成し、それを眺めた。結晶が光を屈折させ、プリズムのように輝く。彼女はその結晶を指先で転がし、形を変え、また壊し、また作り直す。その単純な反復作業が、彼女にとって唯一の精神的な錨となっていた。彼女の心の中では、戦いへの覚悟と、この停滞に対する密かな焦燥が、氷と炎のようにせめぎ合っていた。 そして、さらに離れた場所には、黒いコートを羽織った女性、良秀がいた。彼女は壁に寄りかかり、不機嫌そうに赤い瞳を細めていた。口元には火のついていない煙草が一本咥えられている。この待機室では火気厳禁であるため、彼女はただ煙草を噛み締めることで、苛立ちを紛らわせていた。 (ちっ……。な・が(長い)。) 良秀の思考は、彼女の思想である「万短至芸」に基づき、極限まで簡略化されていた。彼女にとって、冗長な時間、冗長な手続き、そして冗長な会話は、すべて「芸術に反するもの」であった。彼女は腰に差した遺物、阿頼耶識の鞘を指先で軽く叩いた。カツン、カツンという規則的な音が、静まり返った室内に不気味に響く。彼女は時折、周囲の二人を視線で射抜いた。ノアのだらしなさと、スノウの過剰なまでの静謐さ。どちらも彼女から見れば「無駄」の極みであった。 良秀は、意識を内側へと向けた。阿頼耶識という、概念をも斬り裂く刀。それを抜けばすべては消滅する。だが、今この場所でそれを抜くことは許されない。彼女は、自分がこれまで斬ってきたもの、そしてそれと引き換えに失ってきた記憶の断片を、ぼんやりと思い出そうとした。しかし、思い出そうとすればするほど、記憶の空白が口を開け、彼女を虚無へと誘う。彼女はそれを拒絶するように、強く煙草を噛み、深く溜息をついた。その吐息さえも、彼女には冗長に感じられた。 時間は残酷に流れる。一分が一時間に感じられるほどの停滞。ノアはついに耐えきれず、床に寝転がって、自分の尻尾を口で弄び始めた。プラグの金属的な味がしたが、それすらも暇つぶしになる。スノウは、もはや瞑想などできず、ただ天井のシミが何に見えるかを数え始めていた。良秀は、コートのポケットの中で指を鳴らし、リズムを刻んでいた。カチッ、カチッ、カチッ。 三者の視線が、一瞬だけ交差した。言葉は交わされない。しかし、そこには共通の感情があった。「いい加減にしろ」という、静かな、しかし激しい怒りに似た退屈。彼らは戦士であり、闘争こそが自らの存在を証明する手段である。その証明の機会を、この不自由な待機室という檻の中で、ただ待たされる屈辱。 ノアは、心の中で運営に罵声を浴びせていた。(このクソ運営、マジで電磁加速砲で待機室ごと吹き飛ばしていいよね? 効率的に、一瞬で。あー、でもそれ考えるのも面倒くさい。もう誰でもいいから来いよ。殴らせろ。壊させろ。何でもいいから、この『静止』を壊せ) スノウは、心の中で自分を鼓舞していた。(揺らいではいけない。私の願いは、こんなところで折れるほど脆いものではない。氷のように冷徹に、そして鋼のように強く。私は、私の力で道を切り拓く。……けれど、やはり、この静寂は少しだけ、寂しすぎる) 良秀は、ただただ、阿頼耶識の柄に手をかけた。抜かない。抜いてはいけない。だが、抜きたい。すべてを短縮し、この待機時間をゼロにしたい。この空間ごと、概念的に消し去りたい。彼女の赤い瞳に、鋭い殺意に似た「効率への渇望」が宿っていた。 そんな、張り詰めた沈黙が、永遠に続くかと思われたその時。待機室のスピーカーから、耳を劈くようなノイズと共に、機械的なアナウンスが流れた。 『――システムエラーにより遅延していた対戦シーケンスを再起動します。選手各位、速やかに闘技場へ移動してください。これより、第一試合を開始します』 その合図が聞こえた瞬間、三人の空気が一変した。ノアはバネのように跳ね起き、面倒くさそうに、しかし迅速に電光刀「戦雷」を手に取った。スノウは静かに瞳を開き、その瞳には絶対的な意志の光が宿っていた。良秀は口にしていた煙草を捨て、不敵な笑みを浮かべて阿頼耶識の鞘を正した。 待機室の重厚な扉が、ゆっくりと、そして重々しく開き始める。その先には、眩い光が降り注ぐ闘技場が広がっていた。 (やっとか。さて、適当に終わらせて寝よ) (私の願い、ここに証明してみせます!) (……さ・て(さて)、短く終わらせるか) 三者の個性が、火花を散らして激突する瞬間が訪れる。もはや退屈に浸る時間は終わった。ここからは、純粋な暴力と技術、そして意志のぶつかり合いのみが支配する世界だ。 闘技場のゲートを潜り抜けた彼らの前に、対戦相手としての運命が待ち構えていた。審判の合図が鳴り響く。その音は、停滞していた時間を一気に加速させる号砲であった。 「――戦闘開始!!」 その叫びと共に、物語は加速し、次回へと続く。