空を塗り潰すのは、どろりと溶け出した血のような紅い月だった。 かつて数多の兵たちが骸となり、鉄の残骸が墓標として突き刺さった旧戦場。そこは静寂に支配されていたはずの死地である。しかし、今夜だけは違う。天に浮かぶ不吉な紅い月が、地上のすべてに狂気と暴走の魔力を注ぎ込んでいた。 そこに集ったのは、三機の鋼鉄の巨獣。そして、その内側に潜む、壊れた魂たちだった。 「……歴史が静かに錆びついてゆく」 軽量級四脚機『サッドグリム』のコックピットで、マウデンス・リッキーマウスは呟いた。彼の瞳は焦点が合っておらず、視界に映る戦場を、遠い過去の幻影と重ね合わせている。紅い月の光が機体に降り注ぐたび、彼の胸の中で眠っていた絶望と殺意が、どす黒い熱となって膨れ上がっていく。リミッターなどという理性の枷は、とうに焼き切れていた。 「貴殿に決闘を申し込む!」 対峙するのは、重量級二脚機『ギャランディス』。操縦するアンドロイド、ガリオン・ベネダインは、プログラムされた忠義と騎士道に突き動かされていた。しかし、その「騎士道」さえも紅い月の魔力によって歪んでいる。礼節を重んじる心は、いまや「完膚なきまでに敵を粉砕し、屈服させること」への強迫的な執着へと変貌していた。 そして、もう一方。地を這うような威圧感を放つ重量級機『トルクライザー』。その操縦席で、インフラー・ホールハイムは下卑た笑いを浮かべていた。元戦術工兵である彼にとって、この世のすべては「破断されるべき構造物」に過ぎない。紅い月は、彼の破壊衝動にガソリンを注いだ。構造力学的な最適解──すなわち、最も効率的に相手を「割る」快楽への渇望が、彼を戦鬼へと変えていた。 三者の間に、言葉による交渉など存在しない。あるのは、互いの存在を消し去りたいという純粋な暴力衝動のみ。 「ああ……心地よい。すべて、壊れればいい」 インフラーが合図もなしに吼えた。トルクライザーの両腕に装備された高衝撃式展開型断裂斧『バルバロイ』が、紅い月を背に不気味に光る。 先手を打ったのはサッドグリムだった。サイドバースト・ノズルから爆発的な推進力を得た機体が、紅い閃光となって地表を滑る。速度に特化した四脚が地面を激しく蹴り上げ、土煙を巻き上げて加速する。 「誓いも忠誠も、人が死ねば霧散する。ならば最初から持たぬ方が楽だったろうにな……!」 リッキーマウスの絶叫と共に、ツインソリッドブレードが高密度金属の軌跡を描く。その一撃は、ギャランディスの重装甲を切り裂こうと、真空を切り裂いて襲いかかった。 ガリオンは動じない。彼はそれを「儀式」として受け止める。プラズマ成形刃式大剣『ヴァリシュラルド』を正眼に構え、最小限の動きでその斬撃を受け流した。 ガィィィィンッ!! 火花が紅い夜空に散る。しかし、サッドグリムの猛攻は止まらない。加速を維持したまま、機体は不規則な回旋を繰り返し、死角から連続して刃を突き立てる。リミッターが外れたリッキーマウスの操縦は、もはや人間業ではなかった。機体の限界を超えたG(重力)が操縦者の体を押し潰そうとしても、狂気という名の麻薬がそれを無視させた。 「遅い! 遅すぎるぞ、ガラクタ共が!」 その隙を突き、トルクライザーが地響きと共に突進した。巨体に似合わぬ瞬発力で、バルバロイの一撃がサッドグリムの側面へと振り下ろされる。 ドガァァァァァン!! 衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。サッドグリムは間一髪で回避を試みたが、斧の衝撃波だけで機体が激しく揺さぶられた。地面がクレーターのように陥没し、紅い土が舞い上がる。 「構造的に脆弱だ! そこから割れろ!」 インフラーの狂った笑い声が通信回線に混じる。彼はさらに追い打ちをかけるべく、左手の斧を大きく振り上げた。対してガリオンは、自らの背部推進機構『スラッグスロット』を点火。重量級とは思えぬ速度で、真っ向からインフラーへと突き進む。 「騎士の道に、背後からの奇襲は不要。正々堂々と、断ち切る!」 ヴァリシュラルドが白熱のプラズマを纏い、一閃。その一撃は、トルクライザーの分厚い肩装甲を深く抉った。しかし、インフラーは痛みを快楽として受け入れていた。抉られた装甲から漏れる火花さえも、彼には芸術的に見えた。 「いいぜ……いいぞ! だったらこっちは、全部まとめて『破断』してやるよ!」 インフラーが絶技『デス・バウンド』の起動シーケンスに入った。バルバロイの内蔵ギアが猛烈な回転を始め、刃が横方向へと拡張される。それはもはや斧ではなく、空間そのものを噛み砕く巨大な顎のようであった。 一方、サッドグリムのリッキーマウスは、紅い月の魔力に完全に呑み込まれていた。彼の意識はすでに現実を離れ、かつての戦友たちの亡霊と踊っていた。彼にとって、目の前の敵はもはや鋼鉄の機体ではなく、自分を裏切り、死に追いやった運命そのものだった。 「消えろ……すべて消えてしまえ!!」 サッドグリムが加速する。もはや回避など考えていない。ただ一点、敵の心臓を貫くためだけに、全出力を推進器に回した。機体表面が摩擦熱で赤く染まり、大気を焦がしながら、リッキーマウスは絶技を繰り出す。 『世界の合言葉は森』!! 超高速の八連続斬撃。それはもはや視認不可能な銀色の嵐となり、戦場を塗り替えた。一撃、二撃、三撃……! 斬撃がギャランディスの装甲を叩き、火花を散らす。四撃、五撃、六撃……! 衝撃が機体を震わせ、地面を深く刻んでいく。 「グッ……! この程度の速さで、我が忠義を揺るがせると思うか!」 ガリオンは耐えた。防御力40という驚異的なタフネスと、紅い月がもたらした「絶対に屈しない」という強迫的な意志が、彼をその場に留まらせる。しかし、最後の一撃が放たれる直前、彼は見た。背後から迫る、絶望的なまでの破壊の質量を。 「死ねぇ!!」 インフラーの『デス・バウンド』が、空中で方向を変え、ギャランディスの背後から、そして同時にサッドグリムの側面から、挟み込むようにして振り下ろされた。 ズゥゥゥゥゥゥンッ!!!!! 凄まじい爆音と共に、大地が裂けた。二つのバルバロイが同時に衝突し、その衝撃で周囲の空気が圧縮され、真空の壁が生まれる。挟み撃ちにされたのは、絶技の最中にいたサッドグリムと、それを真っ向から受け止めたギャランディスだった。 「ガ、アァァッ!!」 リッキーマウスの悲鳴が上がる。サッドグリムの軽量な装甲は、バルバロイの「割る」力に耐えられなかった。機体の中央部がV字にひしゃげ、高密度金属のブレードが飴細工のように折れ曲がる。機体内部で回路がショートし、激しい電撃がリッキーマウスの体を焼いた。 だが、同時にギャランディスもまた、致命的な打撃を受けていた。正面からサッドグリムの斬撃を受け、背後からトルクライザーの斧に潰された。重装甲とはいえ、この過剰な破壊力に耐えられるはずもない。ギャランディスの右腕、ヴァリシュラルドを保持していた関節部が、構造的にありえない方向へとねじ切れた。 「……不覚。だが、これこそが……決闘の、果てか」 ガリオンの声に、どこか充足感が混じっていた。紅い月の魔力は、彼に「敗北という名の完成」を提示していた。 しかし、勝者であるはずのインフラー・ホールハイムも、無傷ではなかった。全力で叩きつけた反動で、トルクライザーの腕部駆動系に過負荷がかかり、油圧オイルが血のように噴き出している。それでも、彼は笑っていた。目の前でひしゃげた二機の鋼鉄を見て、至上の悦びに浸っていた。 「ハハハ! 見ろよ! この美しい破断面を! 構造力学的な正解だ! 最高だぜ!!」 だが、狂気はまだ終わらない。紅い月は、さらにその輝きを増していた。生き残った者が一人になるまで、この殺し合いを終わらせるつもりはなかった。 瀕死のサッドグリムが、ガクガクと四脚を震わせながら立ち上がった。コックピットの中のリッキーマウスは、もはや人間としての形を保っていなかった。鼻と耳から血を流し、瞳からは光が消え、ただ口角だけを吊り上げて笑っていた。 「……まだだ。まだ、錆びついていない」 リッキーマウスは、折れたブレードの破片を、もはや制御不能になった機体の腕で強引に掴んだ。そして、最後の全エネルギーを、機体ではなく、己の精神に集中させる。紅い月の魔力を、自らの魂ごと燃料にして、最後の一撃を放とうとした。 「行けぇぇぇ!!」 サッドグリムが、弾丸のように突撃した。もはや姿勢制御など効いていない。ただの鉄の塊が、超高速でトルクライザーの胸部へと激突した。同時に、折れたブレードが、インフラーのコックピットを真っ向から貫いた。 ドガァッ!! 「……あ?」 インフラーの思考が停止した。胸に突き刺さった金属の破片。そこから激しく噴き出す熱い液体。彼は自分の胸を見た。そこには、構造力学的に決して許されない、「穴」が開いていた。 「……あは、は……ここが、弱点、だった、か……」 インフラー・ホールハイムは、満足げに笑ったまま、意識を失った。トルクライザーは、そのままゆっくりと前方に倒れ込み、轟音と共に沈黙した。 戦場に残されたのは、ボロボロになったサッドグリムと、片腕を失い機能停止しかけているギャランディス。そして、二人を照らす紅い月だけだった。 リッキーマウスは、もはや機体を動かす力を持っていなかった。彼はゆっくりと、コックピットのハッチを押し開けた。夜風が吹き込み、血の匂いと鉄の錆びた匂いが混ざり合う。 彼は空を見上げた。紅い月が、彼を嘲笑っているように見えた。 「……結局、誰も、救われなかったな」 その呟きを最後に、リッキーマウスの意識は深い闇へと沈んでいった。心臓が、激しい鼓動を止める。紅い月の魔力によって無理やり引き延ばされていた生命活動が、限界を迎えて途絶えたのだ。 静寂が戻った旧戦場。そこには、三機の鋼鉄の骸が横たわっていた。 勝者はいない。ただ、紅い月だけが、満足そうにその地を照らし続けていた。夜風が吹き抜け、折れたブレードがカランと乾いた音を立てる。歴史はまた一つ、血と鉄に塗れた記憶を塗り潰し、静かに錆びついてゆく。