広大な、どこまでも続く緑の平原。そこには奇妙な三人の男女(あるいは生物)が集っていた。 一人は、小太りで冴えない風貌の男、マイケル・ジョン。彼は巨大な大鎌を手に、黙々と草を刈っていた。その動作は機械的なまでに正確で、30メートル歩くごとに、腰に装着した研磨器具でシュッ、シュッと慣れた手つきで刃を研いでいる。 もう一人は、雪のように白い肌と髪を持つ、儚げな少女、ズィームニエ・ツヴィトィー。彼女が立つだけで、周囲の空気が凍りつき、足元の草花は瞬時に白銀の霜に覆われた。彼女は常に俯き、消え入りそうな声で呟いている。 そして最後の一人は、褌一枚に亀の甲羅を背負った、ハゲ頭の老人、ンドゥアおじさん。彼は自分がなぜここにいるのかさえ分かっていない様子で、周囲をキョロキョロと見渡していた。 「あれ……ワシは何て言おうとしてたのかの……。ここはどこじゃ? 美容室へ行く途中じゃった気がするが……」 ンドゥアおじさんがボケた声を出す。しかし、彼の周囲ではズィームニエが放つ「冬の概念」が猛威を振るっていた。気温は急激に下降し、絶対零度に向かって突き進む。普通の生物であれば一瞬で細胞が破壊され、凍りついて砕け散る環境だ。 だが、マイケル・ジョンは気にせず草を刈っていた。ズィームニエが絶望に染まった瞳で彼を見る。 「ごめんなさい……! 私のせいでこんなに寒くなって……。お願いです、私から離れてください! 私が悪いんです……!」 マイケルは、刈り取った草の山をちらりと見て、無関心にあいづちを打った。 「……ふーん」 「ふーん!? 今、ふーんとおっしゃいましたか!? こんな状況なのに! ああっ、もう! こんな力なんて、要らない……!」 ズィームニエの感情の高ぶりに合わせ、周囲の温度はさらに低下し、ついには絶対零度を下回るという物理法則を無視した領域に達した。空間そのものが凍結し、音さえも凍りつく。しかし、マイケル・ジョンは相変わらずだった。彼はただ、自分の進行方向にある草を刈ることに集中している。範囲攻撃である「極寒」は、彼を通り抜けていた。彼はこの平原の「草刈り」という概念において絶対的な権限を持っているかのように、環境の変化を完全に無視していた。 そこへ、ンドゥアおじさんがヨボヨボと歩み寄る。 「おーい、そこの若いの。ワシの髪を切ってくれんか。最近、なんだか上のあたりがスースーしてな……」 彼はマイケル・ジョンに向かって話しかけた。マイケルは鎌を研ぎながら、またしても無関心に返した。 「……あぁ」 「おお、話を聞いてくれる殊勝な若者じゃ。ところで、ここは美容室か? それとも老人ホームの庭か?」 ンドゥアおじさんは、マイケルが丁寧に手入れしている庭(という名の広大な平原)を見て、感心したように頷いた。 「ほう、いい庭じゃ。手入れが行き届いておるな。ワシも昔は……ええと、何をしていたんじゃったか。忘れたわい」 マイケル・ジョンは、自分の庭を褒められたことに僅かに反応した。彼はポケットから飴玉を一つ取り出し、ンドゥアおじさんに差し出した。 「……ほら」 「おお! お菓子じゃ! ありがとな、若いの。優しいのう」 飴を口に放り込み、幸せそうに笑うンドゥアおじさん。その横で、ズィームニエは絶望に打ちひしがれていた。彼女の絶望と冬の概念は拡大し続け、平原の半分をすでに氷河に変えていたが、マイケルは氷の下にある土壌の草さえも、大鎌で「刈り取って」いた。氷を切り裂き、草だけを効率よく取り除く。その光景はシュールという言葉では言い表せない。 こうして、目的のない奇妙な対峙が始まった。 【10年後】 時が流れた。10年という歳月が経過したが、戦い(あるいは共存)は続いていた。 ズィームニエの周囲に展開される冬の概念はさらに広がり、もはや平原のすべてが永遠の冬に閉ざされていた。気温は絶えず絶対零度を下回り、宇宙の特異点のような寒さが支配している。しかし、彼女は変わらず謙虚に、そして自罰的に、自分の力を呪っていた。 「もう10年も……。ごめんなさい、本当にごめんなさい……。皆さんをこんな寒い場所に留めてしまって……」 一方、ンドゥアおじさんは、さらにボケが進行していた。彼は1時間前のことを忘れるどころか、今自分が誰と話しているかさえ忘れることが増えていたが、それでも元気だった。亀の甲羅を背負い(たまに忘れてパニックになるが)、雪原をゆっくりと歩いている。 「あれ……ワシは何て言おうとしてたのかの……。そうじゃ、美容室じゃ! 誰か、ワシの髪を切ってくれんか!」 彼は、相変わらず草を刈り続けているマイケル・ジョンに近づいた。マイケルは10年前と全く変わっていない。小太りの体型、無関心な表情、そして大鎌。彼は雪の下に隠れた「冬の草」を刈り取っていた。30メートルに一度、シュッ、シュッと刃を研ぐ音が、静寂の氷原に響く。 「おーい、若いの。もう10年経ったが、まだワシの髪は切ってもらえんのか?」 マイケルは作業を止めずに答える。 「……あぁ」 「相変わらず返事がいいのう。ところで、最近の量子力学における多世界解釈と、意識の量子崩壊についての相関関係についてどう思うかね?」 ンドゥアおじさんが、ふとどこで聞いたのか難しい話を始めた。すると、マイケル・ジョンの動きがピタリと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、心底不快そうに眉をひそめた。 「……は?」 「おや、難しい話は苦手かね? 若いのに、勉強不足じゃな」 マイケルは無言で再び鎌を振るった。しかし、その振る舞いはどこか攻撃的ではない。ただ、彼にとって「難しい話」は草刈りの邪魔な雑草と同じ扱いだった。 ズィームニエは、そんな二人を遠くから見ていて、ふと涙を流した。 「どうして……どうしてこの人たちは、私の寒さに耐えられるの? 私がこんなに悪い子なのに……。お願いです、誰か私を止めてください! この力なんて、いらない!」 彼女が叫ぶと、極寒の嵐が巻き起こり、周囲の氷柱が激しく舞った。それは実質的な攻撃に等しい範囲攻撃だったが、マイケル・ジョンには一切の効果がなかった。攻撃は彼を透過し、後ろにある氷の地面だけを砕いた。 「邪魔だぞ」 マイケルが初めて、怒鳴った。彼が刈ろうとしていた方向へ、ズィームニエの吹雪が舞い込み、刈り取るべき草を散乱させたからだ。彼にとって、世界の終わりよりも「草刈りの効率が落ちること」の方が重大な問題だった。 【50年後】 さらに40年が経過し、合計50年が経った。 世界は完全に白い。空さえも凍りつき、星の光さえも凍結して静止している。ズィームニエという「冬の概念」そのものが、この世界を塗りつぶしていた。彼女はもはや、自分が人間であったことさえ忘れかけていたが、その本質である謙虚さと自罰的な心だけは、ダイヤモンドよりも硬く残っていた。 「ごめんなさい……もう、誰もいない……。私だけが、この寒い世界に……」 しかし、彼女の目の前には、相変わらずの光景があった。 マイケル・ジョンが、凍りついた大地を大鎌で削り、その下にある「概念上の草」を刈り取っていた。彼は50年前と1ミリも変わっていない。太り方も、鎌の研ぎ方も、無関心な態度も完璧に維持されていた。 そして、その横には、さらに老け込んだ(といっても元が2000歳なので見た目はあまり変わらない)ンドゥアおじさんがいた。彼は今、なんと自分の甲羅を老人ホームに忘れてきていた。 「あれ……ワシの甲羅はどこへ行ったんじゃ……。おかしいのう。さっきまで背中にあったはずじゃが……」 彼はボケにボケを重ね、もはや自分が戦いの場にいることさえ完全に忘れていた。ただ、目の前にいる小太りの男が、時々飴をくれるので、その後にくっついて歩いているだけだった。 「おーい、若いの。そろそろワシの髪を切りに行かなくていいのか?」 「……あぁ」 「おん。ところで、最近の超弦理論における11次元の膜世界モデルについてだが……」 「……は?」 マイケル・ジョンが、激しい不快感とともに鎌を強く地面に突き立てた。その衝撃で凍結した大地が大きく揺れたが、彼が本当に怒っていたのは、また始まった「難しい話」に対してだった。 ズィームニエは、そのやり取りを見て、ふっと小さく笑った。絶望の淵にいた彼女にとって、この理解不能な二人こそが、唯一の救いになっていたのかもしれない。 「……ふふ。変な人たち」 彼女は、初めて自分から彼らに近づいた。絶対零度の風を纏いながら、震える足でマイケルのもとへ歩み寄る。 「あの……。私、あなたたちのことが、少しだけ……好きかもしれません。ごめんなさい、こんなこと言って……」 マイケルは、自分の方へ歩いてくる少女を見た。彼女は今、彼が刈り進もうとしている進行方向のちょうど正面に立っていた。 マイケル・ジョンの表情が変わる。それは無関心から、明確な「怒り」への変化だった。 「邪魔だぞ!!!」 地響きのような怒鳴り声。ズィームニエはビクッとして飛び上がった。しかし、マイケルは彼女を攻撃しなかった。ただ、大鎌を横に大きく一振りし、彼女を避けて効率的に草を刈り取っただけだった。そして、ふと思い出したように、ポケットから飴玉を一つ取り出し、彼女に放った。 「……ほら」 「え……? あめ……?」 ズィームニエは、人生で初めてもらった甘い飴を口に含んだ。冷たい世界で、唯一温かい味がした。彼女の目から、今度は悲しみではない涙がこぼれた。 【そして、運命の夕方】 数百年、あるいは数千年が過ぎた頃だろうか。もはや時間の概念さえも、この凍てついた世界では意味をなさなくなっていた。しかし、ある日の「夕方」が訪れた。 マイケル・ジョンの体内時計が、正確に時を告げた。 「……ふぅ」 彼は、ゆっくりと大鎌を畳み、腰の器具に丁寧に収めた。草刈りの時間が終わったのだ。彼は、いつものように家(という名の、この世界のどこかにあるはずの場所)へ帰る準備を始めた。 ンドゥアおじさんは、相変わらず甲羅を忘れたまま、隣で口をぽかんと開けていた。 「あれ……ワシは何をしていたんじゃったかの。そうじゃ! 美容室じゃ!」 そして、ズィームニエは、彼らの側に寄り添っていた。彼女はもはや自罰的な言葉を口にしなくなっていた。冬の概念は依然として世界を覆っていたが、彼女の心には小さな灯火が宿っていた。 しかし、ここで事件が起きる。 ンドゥアおじさんが、ふと記憶の断片を思い出した(あるいは、単なる勘違いだった)。 「そうじゃ! ワシは昔、美容師にひどいことを言われた気がする! 待て、若いの! ワシの代わりに、この髪の毛のない頭を、その鎌で綺麗に剃ってくれんか!!」 ンドゥアおじさんは、善意からか、あるいはボケの極致からか、マイケル・ジョンが片付けようとしていた鎌に、ガシッと抱きついた。そして、もみ合いになる中で、不意にマイケル・ジョンの肩を強く叩いた。 「頼むぞ、若いの!!」 ドンッ、という鈍い音が響いた。 それは、攻撃意図のない、ただの老人によるお願いの拍手だった。しかし、ルールは絶対である。 「夕方になり、鎌を片付け始めたマイケル・ジョンに、一度でも攻撃(接触)を加えた者は、警察に捕らえられる」 その瞬間、凍てついた空を切り裂いて、サイレンの音が鳴り響いた。 「ピーポーピーポー!!」 どこから現れたのか、極寒の世界に似つかわしくない、真っ白なパトカーが数台、氷の上をドリフトしながら猛スピードで駆けつけてきた。中から出てきたのは、絶対零度の中でも平気な顔をした、完全武装の警察官たちである。 「そこまでだ! 公務執行妨害、および不法侵入の疑いで逮捕する!」 警察官たちは、目にも止まらぬ速さでンドゥアおじさんに手錠をかけた。 「えっ? なぜじゃ! ワシはただ、髪を切ってほしいと……」 「黙れ! 署まで来てもらおうか!」 ンドゥアおじさんは、抵抗することなく(そもそも何が起きているか理解していないため)、あっさりとパトカーに押し込まれた。彼は車窓から、マイケル・ジョンに手を振った。 「若いのー! また美容室で会おうなー!」 パトカーは猛スピードで走り去り、ンドゥアおじさんは「強制退場」となった。 残されたのは、マイケル・ジョンとズィームニエの二人だけだった。 マイケルは、騒動など最初からなかったかのように、再び無関心な顔で歩き出した。 「……行くぞ」 「あ……はい! ごめんなさい、ついて行きます!」 ズィームニエは、彼に付いていく。彼女の周囲にだけは、もう凍てつく風は吹いていなかった。ただ、穏やかな冬の静寂が広がっていた。 結果的に、戦意がゼロで、記憶もなく、ただただボケていたンドゥアおじさんが、最も「攻撃的」な行動(接触)をとってしまい、警察という最強のメタ能力によって排除されたのである。 勝敗を決めつけたのは、マイケル・ジョンの「定時退勤」という絶対的なルールだった。いかなる概念的な力、いかなる長寿の知恵(あるいは忘却)も、日本の……いや、この世界の「定時後の労働者に触れてはいけない」という暗黙のルールには勝てなかったのだ。 【勝者:マイケル・ジョン】 (決め手:定時後の不可侵権の発動と、警察による強制退場)