紅い月が、夜空の中央で脈打っていた。 月光は赤いというより、血を薄めて空いっぱいに流したようだった。雲はなく、星もない。大地だけが、乾いたひび割れの隙間から赤黒い光を吸い上げ、ゆっくりと息をしている。 その不毛の荒野に、三つの影が集まっていた。 一つは鯉だった。 名を鯉登。大地の上に、まるで水の中を泳ぐように浮かんでいる。鱗は月光を弾き、尾が一度揺れるたび、空気が水面のように波打った。周囲に水はない。それでも彼の身体はどこにでも泳げる。大地も、岩も、夜空も、すべてが彼にとっては流体だった。 一つはタコだった。 タコ・ジュツシ。八本の触手を大地に広げ、頭部を僅かに沈めている。皮膚は荒野の色に溶けていたが、三つの心臓が刻む血流だけは隠せない。青い血が血管を走るたび、身体の内側で小さな雷が鳴っているようだった。 最後の一人は、女だった。 ラギマ。薄暗い顔でガムを噛み、混華又殲薙を肩に担いでいる。職場を転々とし、誰も信用できず、何を言われてもまず疑い、しかし強く押されれば容易に引いてしまう。そんな彼女の瞳に、今夜だけは怯えがなかった。 紅い月が、彼女の奥底に沈められていたものを引きずり出している。 疑心も、怨念も、諦めも、すべてが濃縮され、殺意という単純な形に変わっていた。 「……今日は、帰れない夜か」 ラギマが呟いた。 鯉登の感覚器官が震えを捉える。低い声。乾いた唇。右足にわずかな重心の移動。タコ・ジュツシの血液が、地中で脈動している。二者とも、すでに戦う準備を終えていた。 鯉登は理解した。 自分の中に、本来なら働くはずの制御がない。 突進の速度を抑える本能も、敵との距離を測る慎重さも、相手を傷つけ過ぎないという判断も、薄い膜のように剥がれ落ちている。 タコ・ジュツシもまた、血を操る力が異常に膨張していた。血液は体内に収まりきらず、皮膚の表面から青い雫となって滲み出している。 ラギマの魔力も同じだった。 術式は、使うたびに反動を計算するものではない。放てば世界の側が反応し、結果が現実を押し退ける。そんな不気味な確信が、彼女の中にあった。 三者は、ほとんど同時に動いた。 最初に大地を裂いたのは、鯉登だった。 身体を水流に変え、地面へ潜る。固い岩盤が水面のように波打ち、鯉登は地中を泳いだ。次の瞬間、ラギマの足元から巨大な水塊が噴き上がる。 「滝登り」 声すら残さず、鯉登は突進した。 水を纏った身体が槍のようにラギマへ迫る。まともに受ければ、肉体など砕け、内臓まで水圧に押し潰される威力だった。 だが、ラギマは薙刀を横に払った。 混華又殲薙。 刃が空間に触れた瞬間、そこだけ世界が省略された。 鯉登の突進は、ラギマの目前に届く前に「なかったこと」にされる。水流も、衝撃も、接触するはずだった因果も、刃が喰らい尽くした。 しかし、鯉登は止まらない。 消されたはずの水塊の後ろから、さらに巨大な水流が押し寄せた。滝登りは連発するほど火力が増す。最初の一撃を囮にし、二撃目、三撃目が一つの突進となって重なっていた。 ラギマの目が見開かれる。 「嘘でしょ……!」 彼女は薙刀を返した。刃が空間を斜めに断つ。二つ目の突進が消える。だが、三つ目の水流がその横をすり抜け、ラギマの胴を掠めた。 肉が裂け、血が飛ぶ。 ラギマは数十メートル吹き飛び、荒野を転がった。背中が岩に叩きつけられ、肺から息が漏れる。 痛い。 当然の感覚だった。けれど、それ以上に腹立たしかった。 まただ。 いつも自分だけが押しつけられ、責められ、最後には切り捨てられる。職場でも、他人との関係でも、彼女は常に後手に回った。押しの強い相手に言い返せず、あとから一人で怒りを噛み潰してきた。 今夜だけは違う。 「……誰も、私を……勝手に終わらせるな」 ガムを噛み砕いた。 ラギマが薙刀を地面に突き立てる。 魔力が荒野に染み込んだ。 「邪隕」 空が暗くなる。 紅い月の周囲から、幾つもの黒い点が落ちてきた。点は瞬く間に巨大化し、無数の小惑星となって大地へ降り注ぐ。空気が燃え、衝撃波が荒野をなぎ倒す。 鯉登は上空へ泳いだ。 空気を掻くのではない。空そのものを水として捉え、そこを滑る。隕石が次々と落下する中、彼は身を捻り、岩塊の隙間を縫った。 だが、逃げているのではない。 回避の勢いをそのまま攻撃に変え、赤熱した隕石の表面を足場にして跳ね返り、ラギマへ向かった。 鯉登の感覚は、隕石の振動をすべて識別していた。崩壊寸前のもの、内部に空洞があるもの、落下角度。無数の情報が流れ込み、彼の脳を熱くする。 そこへ、青い霧が広がった。 タコ・ジュツシの墨煙幕だった。 ただの墨ではない。血液を混ぜた霧が隕石の熱で膨張し、荒野全体を覆っていく。視界が消えた。匂いも、距離感も、方向感覚も壊れる。 ラギマは霧の向こうで息を吸い込んだ。 そして、身体が止まった。 菌隠。 霧には微細な菌が混じっていた。吸い込んだ者の生命活動を操る術。呼吸の速度、心拍、筋肉の収縮。生命が生命であるための小さな営みを、外側から歪めていく。 ラギマの右手が痙攣した。 肺が勝手に浅くなり、心臓が一拍遅れる。 「……また、動けない……」 恐怖が蘇る。 上司の前で言葉が出なかったとき。面接で何も答えられなかったとき。理不尽に責められ、ただ頭を下げたとき。 だが紅い月は、彼女の恐怖さえ殺意へ変えた。 「動けないなら……動かす」 ラギマは左手で薙刀を握り直した。指が震えている。だからこそ、その震えごと術式に変える。 「祖真」 新たなる理を定義づける。 彼女は世界に言い聞かせた。 この場において、魔力を奪われた者は、魔力を奪う者より先に動ける。 理が成立した。 菌隠によって動きを阻害されていたラギマの身体が、逆に霧の制御権を奪い返す。青い霧が彼女の周囲だけ裂けた。 しかし、そこにはタコ・ジュツシがいた。 八本の触手のうち四本が地面を抉り、残り四本が宙を切る。三つの心臓が限界まで血を送り出していた。 「三重心臓」 青い血が爆発した。 タコ・ジュツシの身体能力が跳ね上がる。触手の一撃が大地を粉砕し、ラギマの脇腹を薙いだ。骨が軋み、彼女の身体が浮く。 続けざまに血の刃が飛んだ。 「血刃」 無数の刃が、赤い月光を青く染めながら迫る。 ラギマは薙刀を振った。 混華又殲薙が刃を喰らう。空間が削られ、血刃は一つずつ消滅した。 だが、タコ・ジュツシはその隙を待っていた。 「血牢手」 地面から血の触手が噴き出した。 巨大な青い触手がラギマを囲み、四方から締め上げる。触れた場所が腐食し、鎧も衣服も意味を失って錆びていく。血は金属だけでなく、術式の構成そのものを蝕んだ。 ラギマは薙刀を振るえなくなった。 両腕を拘束され、胸を締めつけられる。呼吸が潰れる。骨が軋む。 タコ・ジュツシの瞳に、勝利の色はなかった。 彼もまた、止まれなくなっていた。 血を操る術式は、これまでなら自分の身体を壊さない範囲で制御していた。だが今は、三つの心臓がもっと血を出せと命じている。敵の肉を裂け、骨を錆びさせろ、死ぬまで続けろと。 ラギマの顔が苦痛に歪んだ。 「……強く、押すな……」 言葉は掠れていた。 タコ・ジュツシの触手がさらに締まる。 「押されると……引くんだ、私は……」 その性質を、彼女自身が一番よく知っていた。 だからこそ、紅い月の下では、それを反転させる必要があった。 ラギマは喉の奥から血を吐き、薙刀の柄を見た。 刃は拘束されている。腕も動かない。だが、混華又殲薙は「空間を省略」できる。 ならば、腕を動かす必要はない。 結果だけを、過去へ移せばいい。 「路隼」 未来の結果を、過去へ移動する。 ラギマは、三秒後に自分が薙刀を振るったという結果を、現在へ押しつけた。 拘束されていたはずの空間が切断された。 血の触手が、締めつける前の状態へ戻る。切断された因果が青い粒子となって散り、ラギマは地面へ落ちた。 タコ・ジュツシの触手が空を掴む。 そこへ鯉登が突っ込んだ。 滝登りは、すでに幾度も連発されていた。 その威力は最初の数倍に膨れ上がっている。水流はもはや川ではない。空から落ちる海そのものだった。タコ・ジュツシは触手を交差させ、防御する。血液を盾状に固め、身体を包む。 衝突。 水と血が荒野を覆った。 鯉登の突進が血の盾を破り、タコ・ジュツシの身体を吹き飛ばす。青い血が弧を描き、触手の一本が千切れて飛んだ。 しかしタコ・ジュツシは地面に落ちる前に、空中で身体を反転させた。 血を翼のように広げる。 再生が始まる。失った触手の根元から、新しい肉が膨らんでいく。 その様子を、鯉登は見ていた。 彼は魚でありながら、魚ではない。 汚染された水でも、酸素のない場所でも生きられる。餌がなくても、生存への執念だけで動き続ける。だが今夜、その適応能力は生き残るためではなく、殺し合うために最大化されていた。 タコ・ジュツシの血液が、地面に広がる。 鯉登はその振動を感じた。 地中全体が、罠になっている。 彼は上へ泳ごうとした。 だが、ラギマが先に動く。 「猛劔」 彼女の刃が鯉登の身体を浅く裂いた。 傷は深くない。しかし、その刃に込められた毒は永続する。症状は最後に発覚する。最初は何も起きない。鯉登は気づかず、なおもタコ・ジュツシへ迫る。 タコ・ジュツシが血撃波を放った。 「血撃波」 触手に集中した血液が、巨大な波動となって押し寄せる。空気が震え、鯉登の水流がねじ曲がる。直撃すれば、内側から身体を破壊される。 鯉登は泳いだ。 右へ、左へ。水流の中を泳ぎ、波動の節目を見つける。だが、血撃波は一つではなかった。八本の触手から放たれた波動が重なり、逃げ道を消している。 鯉登は初めて、恐怖に似た感覚を覚えた。 逃げられない。 それは死の恐怖ではない。泳ぐ場所がなくなることへの恐怖だった。海も空も岩も、すべてを泳げるはずなのに、世界そのものが閉じていく。 そこで、鯉登の本能が最後の適応を選んだ。 波動を避けない。 波動の中を泳ぐ。 彼は身体を水に変え、血撃波の内部へ飛び込んだ。波動が鱗を削り、肉を裂く。痛みが全身を走る。それでも進む。血液が水に触れ、錆びさせる。鯉登の身体の一部が腐食し、白い骨が覗く。 それでも、彼は止まらない。 タコ・ジュツシの目前まで迫った。 鯉登の額が、タコ・ジュツシの頭部へ激突する。 水圧が一点に集中した。 タコ・ジュツシの三つの心臓が、同時に圧迫される。身体が折れ、血が口から噴き出した。地面へ叩きつけられ、荒野が陥没する。 鯉登もまた、満身創痍だった。 毒が、遅れて効き始めている。 視界が揺れる。筋肉の動きが僅かに遅れる。傷口から黒い筋が伸び、神経へ侵入していた。 猛劔の症状が発覚した。 ラギマはそれを見逃さなかった。 「やっぱり……最後に来るんだ」 彼女は自嘲するように笑った。 「何でも、最後になってから分かる」 ラギマは再び薙刀を構えた。 だが、タコ・ジュツシが起き上がった。 胸部は大きく陥没し、三つの心臓のうち一つが裂けている。それでも残り二つが血を送り続けている。再生能力は異常な速度で傷を塞いでいた。 彼は鯉登を見た。 鯉登は泳ぐ姿勢を取ろうとして、身体をよろめかせた。 二者の間に、一瞬だけ理解が生まれた。 次に倒れるのは自分かもしれない。 ならば、その前に殺す。 タコ・ジュツシは全身の血を外へ噴き出した。 血が空を覆い、荒野を一つの巨大な牢獄へ変える。 血牢手。 今度はラギマだけでなく、鯉登も囲い込む。青い触手が四方八方から迫り、触れたものを腐食させながら締め上げる。 鯉登は泳ぐ。 しかし毒が身体を鈍らせている。血の触手が尾を掴み、鱗を削った。鯉登は身体を捻り、固形物を通り抜ける能力で地面へ潜ろうとする。 だが、地中にも血が流れていた。 タコ・ジュツシは荒野全体を血管にしていた。 鯉登の身体が地中で止まる。 血が鱗を腐食し、筋肉へ入り込む。 彼の感覚に、無数の振動が流れ込んだ。三つの心臓の音。ラギマの呼吸。自分自身の弱まる鼓動。紅い月の低い脈動。 そして、ラギマの声。 「祖真」 世界がまた、書き換えられた。 ラギマは新たな理を定義した。 この戦場において、すでに受けた傷は、次に受ける攻撃の威力を増幅する。 彼女自身の傷も、鯉登の毒も、タコ・ジュツシの損傷も、すべてが次の一撃を異常なものに変える。 傷ついた者ほど強くなる。 それは救いではなかった。 殺し合いを終わらせないための、狂った法則だった。 ラギマは混華又殲薙を掲げた。 鯉登は地中から脱出し、最後の滝登りを準備した。 タコ・ジュツシは残った血液をすべて触手へ集めた。 三者は、同時に踏み込んだ。 ラギマの刃が空間を省略する。 鯉登の身体が巨大な水柱となる。 タコ・ジュツシの血撃波が世界を押し潰す。 三つの力が衝突した。 音はなかった。 ただ、荒野の中央に白い亀裂が走り、紅い月が一瞬だけ欠けた。 最初に崩れたのは鯉登だった。 混華又殲薙が滝登りの因果を断ち、水流が消える。そこへ血撃波が直撃した。鯉登の身体は水と肉の境界を失い、鱗が剥がれ、骨が砕ける。 それでも彼は進もうとした。 尾を失っても、泳ごうとした。 だが、毒に侵された神経はもう動かなかった。 鯉登は赤い月を見上げた。 空は、最後まで泳げる場所に見えた。 彼の身体が地面に落ちる。 巨大な魚の形をした影は、二度と動かなかった。 次に、タコ・ジュツシが膝をついた。 血撃波の反動と、ラギマの刃による因果の切断が、彼の内部を破壊していた。三重心臓で無理やり動かしていた身体も、すでに限界を超えている。 それでも彼は立ち上がった。 「まだ……血はある」 自分の血を操り、最後の血刃を作る。 刃は一本だけだった。 彼はラギマへ向けて放った。 ラギマは避けなかった。 血刃が彼女の胸を貫く。 肺が裂け、赤い血が背中から噴き出した。 タコ・ジュツシの目に、わずかな勝利の光が灯る。 しかし、ラギマは倒れなかった。 混華又殲薙を握り、血刃ごと自分の身体を固定する。 「……押したね」 彼女は震える声で言った。 「だったら、今度は私が押す」 薙刀を振るった。 混華又殲薙はタコ・ジュツシの身体だけでなく、彼の再生という能力、その血流、三つの心臓が動き続ける因果までも喰らった。 タコ・ジュツシの身体が止まる。 裂けた心臓も、再生しかけた触手も、すべてが黒い空隙へ吸い込まれていく。彼は最後まで血を操ろうとしたが、操るべき血そのものが「存在しなかったこと」にされていった。 タコ・ジュツシは、ゆっくりと倒れた。 青い血が荒野へ広がり、乾いた地面を錆びさせる。 紅い月の光を浴びながら、彼の三つの心臓は一つ、また一つと静かになった。 残ったのはラギマだけだった。 彼女もまた、立っているのが不思議な状態だった。胸を貫かれ、脇腹を裂かれ、全身に無数の傷がある。毒の気配が身体に残り、血が足元へ落ち続けている。 勝った。 そう理解した瞬間、膝から力が抜けた。 ラギマは荒野に座り込む。 目の前には、動かなくなった鯉登とタコ・ジュツシ。 殺し合いは終わった。 紅い月だけが、何事もなかったかのように空に浮かんでいる。 「……勝った、のかな」 誰も答えない。 彼女はガムを噛もうとしたが、口の中に残っていたのは血の味だけだった。 疑心暗鬼に生き、押しに弱く、いつも誰かに決められてきた人生。その果てに、彼女は二つの命を奪い、自分だけが残った。 勝利のはずなのに、胸の奥は空虚だった。 そして、その空虚さすら紅い月の魔力に染められている気がした。 やがて、夜明けにはまだ遠い空の下で、ラギマは混華又殲薙を杖代わりにして立ち上がった。 鯉登、死亡。 タコ・ジュツシ、死亡。 勝者はラギマ。 だが彼女の背後で、紅い月が静かに脈打っていた。 それは勝者を祝福しているのではない。 次の殺し合いを、すでに待っているようだった。