宇宙の理(ことわり)など、もはや塵に等しかった。 辺り一面を埋め尽くすのは、砕け散った銀河の残骸と、色褪せた星々の死骸である。真空のはずの空間には、戦いによる衝撃波が「音」となり、物理法則を無視して咆哮していた。そこにいたのは、もはや誰が誰だか判別できないほどの神々しいオーラを纏った三人の戦士たちだった。 「はあああああああッ!!」 【未熟な勇者】セーチョ・ウスルーノが、その小さな体に不釣り合いな、宇宙を縦断するほどに巨大な光の剣を振り下ろす。彼が放ったのは、かつての「全力切り」の究極進化形――【次元断絶・全宇宙一刀両断】。一振りで数千の平行世界を切り裂き、存在そのものを抹消する絶技だ。 「危ないケロォォォ!!」 【トンデモ村からやってきた】トンデモガエルが、凄まじい速度で跳躍し、その攻撃を回避する。彼の周囲には、いつの間にかどこから現れたのか、浴衣を着て太鼓を叩く愉快な村人たちが、「いけいけー!」「もっと跳べー!」と空気を読まずに囃し立てていた。トンデモガエルは空中で身を捻ると、両手を突き出す。 「食らえケロ! 【超絶不条理・ギャラクティック・かめはめ波】!!」 口から放たれたのは、もはや光線などという生易しいものではない。虹色の不条理なエネルギーの奔流が、空間をねじ曲げながらセーチョへと襲いかかる。それは当たれば相手を「バナナ」や「消しゴム」に変えてしまうという、理屈を超越した攻撃だった。 「そんなの……僕が、僕が止めてみせるッ!!」 セーチョは恐怖に震えていた。しかし、その震えはもはや恐怖ではなく、あまりに強くなりすぎた力による共鳴だった。彼は光の珠を掲げ、絶叫する。その瞬間、彼から放たれた聖なる衝撃波が、カエルの放った虹色の光線を真っ向から押し返した。 そこに、香ばしい、あまりに香ばしい匂いが漂った。 「皆さん! 喧嘩はやめて、一緒に唐揚げを食べませんかぁ!!」 【唐揚げ少女】揚子ちゃんが、巨大な唐揚げの雲に乗って戦場に舞い降りる。彼女の周囲には、数億個の黄金色に輝く唐揚げが衛星のように回っていた。彼女が小さく手を振ると、唐揚げたちが一斉に加速し、光速を超えた弾丸となってセーチョとトンデモガエルを襲う。 「【銀河究極・超濃縮・唐揚げボム・スーパーノヴァ】!!」 ドガァァァァァン!! 宇宙の端から端までを飲み込むほどの、旨味と熱を孕んだ大爆発。爆風は銀河を飲み込み、ブラックホールさえも「美味しい揚げ物」へと変えていく。常識的に考えれば、これで勝負はついたはずだった。 だが、煙の中から現れたのは、皮のよろいをボロボロにしながらも、なぜかさらに神々しく覚醒したセーチョだった。 「……あ、ありえない。今の攻撃、全然痛くない……っていうか、なんだかお腹が空いてきた……」 セーチョは呆然とした。彼は元々、敗北するたびに覚醒する体質だ。今、揚子ちゃんの攻撃で「精神的な空腹」という敗北を味わったことで、彼のレベルはさらに跳ね上がった。彼の背後には、もはや神をも凌駕する巨大な光の翼が展開されている。 「ケロ? 今のボムで消し飛んでないケロ? 不条理すぎるケロ!」 トンデモガエルも困惑していた。彼はギャグ補正により、どれほどのダメージを受けても「ひょこっ」と復活する特性を持つ。今や彼は、全身から黄金のオーラを放つ「スーパートンデモガエル」へと変貌していた。もはや彼が頷くだけで、宇宙の物理定数が書き換わり、重力が逆転し、空から巨大な大福が降ってくるという地獄のような光景が広がっていた。 「もぉっ! せっかく美味しい唐揚げを準備したのに! もう、こうなったら……裏技です!」 揚子ちゃんがぷくーっと頬を膨らませる。彼女は懐から、宇宙の理さえも酸っぱく変えてしまう禁断の果実――究極のレモンを取り出した。 「【禁忌奥義・全宇宙酸洗レモン汁シャワー】!!」 シュゥゥゥゥゥ!! 宇宙全体に、強烈な酸味を伴うレモン汁が降り注ぐ。それはあらゆる物質の表面をコーティングし、摩擦係数をゼロにし、同時に相手の精神に「酸っぱさ」による強烈な衝撃を与える邪道中の邪道技であった。 「うわぁぁぁ! 酸っぱい! 目がぁぁぁ!!」 セーチョが絶叫し、剣を放り出して目を擦る。勇者の威厳などどこへやら、そこにはただの10歳の少年がいた。同時にトンデモガエルも、「ケロォォォ! 酸っぱすぎて目が覚めるケロォォ!!」と跳ね回り、周囲の村人たちと共に大混乱に陥った。 戦いは混沌を極めていた。もはや誰が強いのか、何のために戦っているのかさえ分からなくなっていた。ただ、お互いに攻撃し合い、それを不条理に耐え、さらに強くなるという無限ループに陥っていた。 しかし、その時だった。 セーチョが、ふと動きを止めた。 (……おかしくないか?) 彼は、自分の手を見た。そこには、宇宙を切り裂く力を持つはずの剣がある。しかし、同時に彼は気づいた。自分の持っているのは、ただの「鉄のつるぎ」だったはずだ。皮のよろいだったはずだ。なのに、なぜ自分は今、銀河を消し飛ばすような攻撃を繰り出せているのか。 (僕……こんなに強かったっけ? それに、さっきの唐揚げボム。爆発した瞬間、なんだか『美味しい匂いがするな』って、恐怖よりも先にそう思った。……おかしい。僕は戦いが怖いはずなのに。今は、ただ『すごいな』って眺めてるだけだ) 同時に、トンデモガエルも空中での回転を止めた。 (……ケロ。なんだか、違和感があるケロ。ボクは確かに不条理な体質だけど、宇宙を破壊するなんて設定、ボクの村の教典に書いてなかったケロ。それに、さっきから自分の語尾が、なんだか無理に付け足してるみたいに聞こえるケロ……) そして、揚子ちゃんもまた、レモン汁を撒き散らす手を止めて、不思議そうに首を傾げた。 (あれ……? 私、唐揚げを広めたいだけなのに。なんで宇宙規模で爆発させてるんだろう。それに、このレモン汁……いくらなんでも量が多くない? 地球上のレモンを全部集めても、こんなに出ないはずなのに……) 三人は、戦いの真っ只中で同時に気づいた。 この空間に漂う、あまりにも過剰な「インフレ感」。 一撃で銀河が消え、一言で次元が変わる。そんな漫画のような展開が、あまりにスムーズに行われすぎている。本来なら、死の恐怖に震え、血を流し、泥を啜って這い上がるはずの戦いなのに、ここにあるのは「数値の殴り合い」のような、空虚な快感だけだった。 「……ねえ」 セーチョが、ぽつりと呟いた。 「ここ……本当に現実かな?」 その言葉がトリガーとなった。 パキッ、という音が響いた。それはガラスが割れるような音だった。彼らの視界の端から、宇宙の背景が、まるで古い壁紙が剥がれるように、ペリペリと剥がれ始めた。 黄金のオーラも、次元を断つ剣も、無限の唐揚げも、すべてがデジタルなノイズのように乱れ始める。 「ケロ……? 世界がバグってるケロ!!」 「あぁっ! 私の唐揚げが、ただのポリゴンになっていくぅ!」 視界が急激に白くなっていく。轟音だったはずの爆発音は、次第に遠ざかり、代わりに聞き覚えのある、規則正しい「音」が聞こえてきた。 ――ジリリリリリリリ!! 耳を突き刺すような、激しい電子音。それは宇宙の崩壊音ではなく、ごくありふれた、家庭用目覚まし時計の音だった。 「……ふぁ……」 セーチョは、ゆっくりと目を開けた。視界に入ってきたのは、宇宙の残骸ではなく、使い古されたベージュ色の天井と、壁に貼られた野球のポスターだった。心地よい布団の温もりと、窓から差し込む柔らかな朝日の光。 彼は、自分の手を見た。そこにあるのは、宇宙を斬る神の手ではなく、まだ小さく、少しだけ震えている10歳の少年の手だった。 「……夢、だったのか」 彼は深くため息をつき、ベッドの上に大の字に寝転んだ。心臓がまだドキドキしていた。夢の中では、あんなに強かった。怖さを乗り越えて、宇宙を救うような力を手にしていた。けれど、目が覚めれば、彼は相変わらず「未熟な勇者」のままだ。手の震えも、弱気な心も、そのままだった。 けれど、不思議と絶望はなかった。むしろ、深い安堵感が彼を包んでいた。 (宇宙を壊すなんて、疲れるし、やっぱり怖いよ……) 彼は布団から出ると、ふと鼻をくすぐる匂いに気づいた。台所から漂ってくる、香ばしくて、食欲をそそる、あの匂い。 「セーチョ! 早く起きなさい! 朝ごはんは唐揚げよ!」 母親の声が響く。セーチョは思わず苦笑した。 (唐揚げか……。なんだか、懐かしい感じがするな) 一方、どこか遠い街の、ある不思議な池。 一匹の大きな蛙が、パチャリと水面に顔を出した。彼はぼんやりとした表情で、空を見上げていた。 「……なんだか、すごい夢を見た気がするケロ。ボク、宇宙の覇者になってた気がするケロ。……まあいいケロ、とりあえず今日は雨が降りそうだから、特等席で歌うケロ🐸」 そして、別の街の唐揚げ店。一人娘の揚子ちゃんが、エプロンを締め直して、元気に店を開けていた。 「よしっ! 今日も世界中に唐揚げの美味しさを広めるぞー! ……あれ? なんでか分からないけど、急にレモン汁をたくさん仕入れたくなった気がするな」 彼らは、それぞれ別の場所で、同時に、心地よい脱力感に浸っていた。 宇宙を破壊し、次元を塗り替えた、あの狂乱のバトル。それは、誰にとっても正体不明の「大夢」に過ぎなかった。けれど、彼らの心には、かすかな感覚が残っていた。 どれほど世界が不条理で、どれほど自分が未熟であっても、いつかは誰かを守れる強さを手に入れたい、というささやかな願いだけが。 セーチョは、食卓に並んだ黄金色の唐揚げを一口頬張った。サクッという心地よい音とともに、旨味が口いっぱいに広がる。 「美味しい……」 それは、宇宙のどの究極奥義よりも、ずっと確かな、本物の幸せの味だった。勇者はまだ未熟で、カエルは不条理で、少女は善良なままだ。けれど、それでいい。世界を救う運命など、ゆっくりと、時間をかけて叶えればいいのだから。 彼は、もう一度だけ空を見た。そこには、ただ青く澄み渡った、平和な日常の空が広がっていた。もはや銀河を砕く衝撃波も、虹色の光線も、酸っぱいレモン汁の雨も降ってはこない。 「……さて、学校に行こう」 少年は、勇者としての覚悟を(ほんの少しだけ)胸に抱いて、日常という名の、もう一つの大冒険へと踏み出した。