空に浮かぶのは、毒々しいまでに紅い月。 それは天に開いた巨大な傷口のようであり、あるいは世界を飲み込もうとする血に飢えた眼球のようでもあった。この不吉な天体から降り注ぐ魔力は、地上に降り立つ者たちの精神をじりじりと焼き、理性の皮を剥ぎ取り、内側に潜む飢餓感と破壊衝動を極限まで増幅させていた。 静寂が支配していたはずの荒野に、今は三つの強大な気配が衝突し、空間そのものが悲鳴を上げている。 一人、黒い雷を身に纏い、狂気的な笑みを浮かべる男、【黒き稲妻】黒雷トオル。 一人、青紫の閃光となり、冷徹な殺意を剣に込める剣士、【蒼き閃光】青光閃翔。 そして一人、血に飢えた獣の眼光を宿し、巨大な大剣を地に突き立てる灰色の獣人、【獅子喰い猟犬】アイリッシュ・ウルフハウンド。 本来であれば、彼らは互いの実力を認め合い、あるいは慎重に間合いを計り、最小限の損耗で勝利を掴もうとするはずだった。だが、今の彼らにそんな「理性」は不要だった。紅い月が囁いている。今夜は、殺し合うのにちょうどいい夜だと。 「……ハハッ! 最高だ! 体の中を電気が駆け巡って、止まらねえぞ!!」 黒雷トオルが叫ぶと同時に、彼の周囲に黒い稲妻が爆ぜた。それはもはや制御されたスキルではなく、暴走する破壊の奔流だ。彼が足を踏み出した瞬間、地面が黒い雷撃に焼かれ、ガラス状に溶け落ちる。エネルギーの充填量などという概念は消え失せた。ただ、最大限の出力をぶつければいい。それが正解なのだと、本能が告げていた。 「……騒がしいな。一太刀で黙らせる」 青光閃翔が低く呟く。彼の瞳には紅い月が映り込み、その冷徹な精神さえもが「効率的な殺戮」という快楽に塗り潰されていた。彼は構えを捨て、ただの直立から消えた。速度の次元が違う。紅い月の魔力によって、彼の「蒼き閃光」は極限まで加速し、空間を切り裂く真空の刃となって黒雷へと襲い掛かる。 ガギィィィン!! 黒雷が反射的に放った黒い雷撃の壁と、青光の剣閃が衝突する。通常であれば弾き飛ばされるはずの衝撃だが、二人ともが狂乱していた。黒雷は腕から溢れ出す黒い電光をそのまま剣のように形成して迎え撃ち、青光は斬撃にさらなる魔力を乗せて強行突破を試みる。 その衝突の余波で、周囲の岩石が粉々に砕け散った。しかし、その爆風の中を、音もなく、そして獣のような獰猛さで突き抜けてきた影がある。 「グ……ガアアアッ!!」 アイリッシュ・ウルフハウンドだ。普段の彼は、冷酷な狩猟者として振る舞い、内なる甘えたい欲求を理性で抑え込んでいた。だが、今の彼は違う。紅い月は彼の「抑制」という鎖を完膚なきまでに破壊した。残ったのは、純粋な捕食本能と、強者を屠りたいという破壊衝動のみ。 アイリッシュの持つ大剣【獅子喰い】が、黒雷と青光の激突点へと突き刺さった。スキル【穿ち】。だが、その威力は通常の数倍に跳ね上がっていた。大剣が放つ衝撃波が地表を割り、二人を強制的に引き離す。 「ケケッ! いいぞ、その面だ! もっと殺し合おうぜ!!」 黒雷が歓喜に震えながら、両腕に膨大な黒い雷を充填する。もはや予兆など隠す気はない。視覚的な派手さは頂点に達し、夜空の紅い月さえも黒い雷鳴が塗り潰そうとしていた。彼はそのまま、地面を蹴ってアイリッシュへと突っ込む。 「黒雷・極大崩落!!」 上空から降り注ぐ黒い雷の雨。一本一本が城壁を粉砕するほどの威力を持ち、大地を黒い炎のように焼き尽くす。理性を捨てた黒雷にとって、効率など意味をなさない。面制圧こそが最高の快楽だった。 アイリッシュは【猟犬の足運び】で不規則に跳ね、雷撃の隙間を縫う。しかし、あまりに広範囲すぎる攻撃に、肩や脇腹を数撃ち焼かれた。肉が焦げる臭いが漂う。だが、それがアイリッシュをさらに昂ぶらせた。傷つき、血を流すことで、彼の本能は研ぎ澄まされる。スキル【狩人の牙】が発動し、彼の速度と膂力が跳ね上がった。 「ガァッ!!」 アイリッシュが【薙ぎ】を放つ。大剣が描く円弧は、黒雷の足元を文字通り「刈り取った」。黒雷は咄嗟に雷撃を爆発させて後方に飛び退いたが、右足の甲が深く斬り裂かれ、鮮血が舞う。 その血の飛沫を見た瞬間、青光閃翔の瞳に冷酷な計算と狂気が混ざり合った。 (今だ。二人とも、出力に溺れている。隙だらけだ) 青光は「間合い」の達人だ。紅い月の影響で攻撃力が増大していても、彼の本質である「的確さ」は失われていなかった。むしろ、超感覚にまで研ぎ澄まされていた。彼は地を這うような低姿勢から、文字通り「光」となった。 「蒼光・絶影斬」 目視不能の速度。黒雷が気づいた時には、自身の胸元に青紫色の線が走っていた。深い、あまりに深い斬撃。黒雷の肺から空気が漏れ、血が口から溢れる。 「ガハッ……! クク、ハハハ!! やられたぜ!!」 黒雷は絶望せず、むしろ歓喜していた。致命傷を負いながら、彼は残された全魔力を右拳に集約させる。もはや技の形すら成していない、ただの「黒い雷の塊」だ。それを、至近距離にいた青光の腹部へと叩き込んだ。 ドォォォォォォン!! 爆発的な衝撃が青光を吹き飛ばす。青光の肋骨が砕ける鈍い音が響き、彼は数十メートル後方まで弾き飛ばされ、岩壁に激突した。しかし、青光もまた、血を吐きながら不敵に笑っていた。彼にとっても、この痛みこそが生きている実感であり、殺し合いの醍醐味となっていた。 三者はボロボロだった。しかし、紅い月の魔力は彼らに「再生」と「興奮」を与え続けている。痛みは快楽に変わり、疲労は昂揚感に変わる。血で汚れ、服は裂け、正気はどこへともなく消え去った。 そして、戦場にさらなる異変が起きる。 「……いい波長だね。みんな、いい具合に壊れてる」 いつの間にか、戦いの外縁に一人、女が立っていた。【紅き波長】長田紅波。彼女はこれまで、三者の激突を静かに観測していた。彼女のスキルは「波長」を操ること。そして今、彼女は紅い月の魔力と共鳴し、最悪の波長を戦場に散布していた。 《狂気の波長》 目に見えない振動が、三者の脳を直接揺さぶる。もともと紅い月で不安定だった精神に、追い打ちをかけるように「純粋な狂気」が注ぎ込まれた。もはや彼らに会話は不可能だった。あるのは、相手を完全に破壊し、肉塊に変えたいという根源的な欲求のみ。 「ガアアアアアアアアッ!!!」 アイリッシュが絶叫した。彼の限界が来た。それまでの戦闘で、大剣【獅子喰い】には黒雷の血、青光の血、そして自らの血がたっぷりと蓄えられていた。 《渾身の必殺》 大剣に蓄積された血液が爆発的に解放され、アイリッシュの身体を包み込む。筋肉が異常に膨張し、骨格が軋みながら変形し、灰色の毛並みが逆立つ。巨獣化したアイリッシュは、もはや理性の欠片もない「殺戮の獣」へと変貌した。その巨体からは想像もつかない速度で、彼は地を蹴った。 ドガァァァン!! 衝撃波だけで周囲の地面が陥没する。アイリッシュの巨大な爪が、黒雷の肩を深く引き裂いた。黒雷は悲鳴さえ上げず、ただ狂ったように笑いながら、その口を開き、至近距離から黒い雷撃をアイリッシュの顔面に叩き込む。 「死ねぇぇぇ!!!」 黒い雷がアイリッシュの頭部を焼き、皮膚を焦がす。だが、覚醒したアイリッシュには超速の再生能力が付加されていた。焼かれた肉が瞬時に盛り上がり、再生する。その絶望的なタフネスに、黒雷の顔に初めて「恐怖」に似た快楽が浮かんだ。 そこへ、青光閃翔が舞い降りる。彼はもはや剣を振るうことさえ忘れていた。ただ、最短距離で相手の喉笛を斬る。その一心のみで、彼は蒼き閃光となり、巨獣化したアイリッシュの背後へ回った。 「終わりだ」 青光の剣が、アイリッシュの脊髄を正確に断とうとしたその瞬間。長田紅波が指を弾いた。 《水素アルファ線》 紅い熱線が、青光の足元を正確に射抜く。爆発的な熱量に、青光のバランスが崩れた。わずか数センチの狂い。だが、この極限の戦いにおいて、数センチは死に直結する。 「……あ」 青光が絶句した瞬間、振り返ったアイリッシュの巨大な顎が、青光の上半身を正面から噛み砕いた。 グシャッ!! 肉と骨が砕ける凄まじい音が響き渡る。青光閃翔という稀代の剣士は、絶叫を上げる間もなく、その身体を真っ二つに引き裂かれた。鮮血が紅い月に向かって噴水のように舞い上がり、夜空をさらに赤く染める。 【蒼き閃光】青光閃翔、死亡。 残ったのは、巨獣となったアイリッシュと、瀕死の状態で笑い続ける黒雷、そしてそれを操る紅波の三人だ。 黒雷は、友だったはずの男が肉塊に変わった光景を見て、絶頂に達した。彼は残された全魔力を、文字通り「自らの命」と引き換えに、一つの点に凝縮させた。もはや黒い雷ではない。それは闇に塗り潰された、特異点のような破壊の種だった。 「全部……全部まとめて、消えちまええええ!!!」 黒雷が叫び、その特異点をアイリッシュへと叩きつける。同時に、紅波もまた、あらゆる波長を一点に集中させ、黒雷の精神を崩壊させる《狂気の波長》を最大出力でぶつけた。 黒雷の意識は、快楽と絶望、そして破壊衝動の濁流に飲み込まれ、白濁した。彼が放った黒い雷の特異点は、アイリッシュの胸部を直撃し、巨大な爆発を引き起こした。 ズゥゥゥゥゥゥゥゥン!!!!! 大地が激しく揺れ、巨大なクレーターが形成される。爆風が紅い月さえも揺らしたかのように見えた。爆煙の中、静寂が戻る。 煙が晴れた中心地には、胸に巨大な穴が開いたアイリッシュの巨躯が、力なく横たわっていた。再生能力をもってしても、命の根源を焼かれた特異点には抗えなかった。アイリッシュはゆっくりと瞳を閉じ、最後に一度だけ、誰かに甘えたいと願ったかのように、小さく喉を鳴らして息を引き取った。 【獅子喰い猟犬】アイリッシュ・ウルフハウンド、死亡。 そして、その隣には、黒雷トオルがいた。彼は笑っていた。口からは血が溢れ、目は焦点が合っておらず、身体の半分が黒い雷の反動で消し飛んでいた。彼は自らの命を使い切ったのだ。 「……あは……は……いい、夜、だったな……」 それが、彼の最期の言葉だった。黒雷の身体は、ゆっくりと灰になり、紅い風に吹かれて消えていった。 【黒き稲妻】黒雷トオル、死亡。 静まり返った荒野に、一人だけ立っている女がいた。 長田紅波は、血の海となった戦場を眺め、満足げに溜息をついた。彼女は最初から、直接的に戦うつもりはなかった。ただ、紅い月の魔力を利用して彼らの感情を増幅させ、互いに殺し合わせ、その「絶望と狂気の波長」を観測して楽しんでいたに過ぎない。 「本当に、いい波長だったよ」 彼女はふわりと微笑むと、空を見上げた。紅い月は、十分な血を啜ったかのように、少しだけ色を淡くしていた。 勝者、長田紅波。 夜空には再び静寂が訪れたが、地面に刻まれた深い傷跡と、三人の強者が散った血の跡だけが、そこが地獄であったことを物語っていた。