チームA 翠緑の至点は、静寂に包まれた白い空間に立っていた。視界を遮る目隠しは、彼に物理的な光を奪っているが、霊魂としての感覚は周囲のあらゆる波動を捉えている。彼の背後には、不気味に翠緑の縁取りがなされた虚空の月が、静かに、しかし圧倒的な威圧感を持って浮かんでいた。少年は自らの存在が、もはや生者のそれではないことを深く理解している。死という絶対的な断絶を経て、彼は月の道具となり、その意思に従うだけの操り人形となった。 首に浮かぶ棘が、かすかに脈動する。それは彼が月に抗うことを禁じ、同時に外部へ助けを求める声を封じ込める枷である。翠緑の至点は、ふと空を見上げた。そこに、もう一人の「自分」が立っていた。 その平行世界の翠緑の至点は、今の彼とは決定的に異なる姿をしていた。目隠しはなく、その瞳は澄み切った翠緑色に輝いている。服装はベストやワイシャツではなく、威厳ある白い法衣を身に纏い、背中の翼はより大きく、神々しい光を放っていた。何より決定的な違いは、彼の背後に「虚空の月」が存在しないことだった。彼は誰の道具でもなく、誰にも縛られていない。彼は、月からの使者による大殺戮『Solstice』において、犠牲者となるのではなく、その惨劇を未然に防ぎ、人々を救い出した「聖域の守護者」としての道を歩んだ世界の彼であった。 平行世界の翠緑の至点は、穏やかな微笑みを浮かべて、現在の翠緑の至点へと歩み寄った。その足取りには迷いがなく、魂の底から湧き出るような自信と慈愛に満ちている。 「……久しぶりだね。いや、『久しぶり』という言葉を使うのはおかしいかな。僕たちは一度も出会ったことがないはずだから」 平行世界の翠緑の至点は、優しく語りかけた。その声には、今の翠緑の至点が失ってしまった「自由」と「意思」が宿っていた。彼は、目隠しをされた少年の首に浮かぶ棘を見て、深い悲しみを瞳に宿した。 「君の世界では、僕は月という残酷な神の玩具になってしまったんだね。僕が救えなかった人々の一人として、君はそこに在る。そして今もなお、その首に不自由な鎖を繋がれている……。胸が締め付けられるよ」 翠緑の至点は、目隠しの奥で困惑していた。彼は達観していたが、同時に無邪気さも持ち合わせていた。自分と同じ顔を持ち、自分と同じ魂の波長を持つ者が、これほどまでに満たされた表情で自分を見つめていることに、激しい違和感と、それ以上の憧憬を覚えた。 (ああ……。僕は、あんな風になれたのかもしれない。誰かに利用される道具ではなく、誰かを守る盾になれたのかもしれない。空気がこんなに軽やかで、心地よいものだったなんて、忘れていたな) 翠緑の至点は、小さく口を開いた。言葉を発することはできる。ただ、それが月の意思に反する場合、首の棘が激痛を走らせるだけだ。 「……あなたは、すごい人なんだね。僕とは、全然違う。月様の思し召しではなく、自分の心で動いている。それが、どんな感覚なのか……僕はもう、思い出せないよ」 平行世界の翠緑の至点は、そっと手を伸ばそうとしたが、ふと止まった。互いに異なる次元の存在であり、また魂の在り方が根本的に異なるため、直接的な接触は叶わない。しかし、彼は諦めずに言葉を紡ぎ続けた。 「僕の世界ではね、僕は多くの人々に囲まれている。感謝されることに慣れてしまったけれど、それでもいいと思っているよ。だって、それが僕が選んだ道だからだ。君が今、絶望の中にいたとしても、どうか忘れないでほしい。君の魂の根源にある輝きは、月の虚空に染まっても消えてはいない。君がそこに在るということ自体が、一つの奇跡なんだ」 翠緑の至点は、その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。それは死してなお残っていた、かすかな人間としての感情だった。彼は、平行世界の自分が持つ「正しさ」や「強さ」に触れ、自分が辿った悲劇的な運命を、客観的に眺めることができた。 (僕は、不幸だったのかもしれない。でも、こうしてあなたに出会えたことで、僕は『あり得たかもしれない光』を見た。それは、月様が与えてくれるどんな力よりも、僕を安心させてくれる) 一方、平行世界の翠緑の至点は、目の前の少年を見て、ある種の恐怖と責任感を感じていた。自分という存在が、わずかな選択の違いや運命の気まぐれによって、これほどまで残酷な結末を迎え得たという事実。目隠しをされ、翼を持ちながらも空を自由に飛べず、ただ月の命令に従うだけの装置となった自分。その姿は、彼にとって鏡のようなものであり、同時に最も恐ろしい悪夢の具現化であった。 (もし僕が、あの時、一歩でも遅れていたら。もし僕が、誰かを救う勇気を持てなかったら。僕は今の彼のように、翠緑の虚空に飲み込まれ、魂を縛られていたのだろう。この少年の絶望を、僕は半分だけでも肩代わりしてあげたい。けれど、僕にできるのは、ただこうして言葉を掛け合うことだけなんだ) 平行世界の翠緑の至点は、寂しげに、しかし強く頷いた。 「君の世界に、いつか本当の夜明けが来ることを願っているよ。月が君を離し、君がただの少年として、あるいは自由な霊魂として、どこへでも行ける日が来ることを。その時まで、僕は僕の世界で、君の分まで光を灯し続けておくよ」 翠緑の至点は、静かに目を閉じた。目隠しの下で、涙のようなものが零れたかもしれない。彼は再び、背後の虚空の月に意識を向けた。月は相変わらず冷徹に彼を監視し、利用しようとしている。しかし、先ほどまでの「諦め」とは異なる感情が芽生えていた。 「……月様。僕はあなたの道具です。でも、僕の心の中にある小さな光だけは、あなたには渡さないよ」 それは、反抗ではない。ただの、ささやかな自己の主張だった。首の棘が微かに震え、警告を発したが、翠緑の至点はそれを心地よい刺激として受け入れた。平行世界の自分に出会ったことで、彼は「自分という個」の価値を、ほんの少しだけ取り戻したのだ。 二人の至点は、次第に互いの姿が薄れていくのを感じた。次元の壁が再び彼らを分かつ時が来た。平行世界の翠緑の至点は、最後に大きく手を振り、眩いばかりの笑顔を見せた。 「またどこかで。魂の巡り合わせがある日まで!」 翠緑の至点は、その光景を最後まで目に焼き付けた。彼が再び一人になったとき、周囲は元の静寂に包まれていた。しかし、彼の心の中には、翠緑の虚空とは異なる、温かな黄金色の記憶が刻まれていた。彼は小さく呟いた。 「さよなら、僕。……ありがとう」 彼は再び、月の使者としての役割に戻る。しかし、その足取りは、以前よりもわずかに軽やかであった。虚空の月が放つ冷たい光の中で、少年は密かに、いつか訪れるであろう本当の夜明けを夢見始めた。それがどれほど不可能なことだとしても、一度「可能性」を見た魂は、もう二度と完全な絶望に染まることはない。 チームB ジダラクさんは、薄暗い部屋の中で、心地よいクッションに身を沈めていた。手には最新のゲーム機が握られ、画面の中では激しいバトルが繰り広げられている。彼は吸血鬼という、夜の支配者たる種族の末裔でありながら、その本能をほとんど放棄していた。彼にとっての至上の喜びは、太陽の光を避け、にんにくの臭いから遠ざかり、ひたすら自堕落にデジタルな世界に没頭することであった。 彼が居候しているのは、皮肉にもヴァンパイアハンターの家である。本来であれば、出会った瞬間に心臓を杭で貫かれる運命にあるはずだが、ジダラクさんのあまりに「気配のない」生活態度と、吸血を控えたことによる低血圧のような顔色の悪さが、結果として彼を完璧にカモフラージュさせていた。ハンターの主人は、彼をただの「少し不健康で、生活能力が壊滅的に低いニートの青年」だと思い込んでいる。 「ふぅ……。このステージ、マジで難しいな。やっぱり徹夜で攻略するのが正解か」 ジダラクさんはあくびをしながら、ふと部屋の隅に視線を向けた。そこには、自分と全く同じ顔をした、しかし雰囲気の全く異なる男が立っていた。ジダラクさんは驚きのあまり、持っていたコントローラーを床に落とした。 「……え? 何、鏡? いや、鏡じゃないな。誰だ、お前」 そこに立っていたのは、平行世界のジダラクさんであった。見た目はほぼ同じだが、服装が決定的に違う。文字Tシャツではなく、最高級の黒いベルベットの外套を纏い、胸元には真紅のルビーが輝くブローチが飾られている。その眼差しは鋭く、立ち姿には気品と威厳が漂っていた。彼は自堕落な生活など微塵も感じさせない、正真正銘の「夜の貴族」としての風格を備えていた。 平行世界のジダラクさんは、呆然とした表情でこちらを見る自分を見て、深い溜息をついた。その溜息一つにさえ、計算された優雅さが含まれている。 「信じられない。僕の平行世界の自分が、これほどまでに見苦しい姿で過ごしているとはね。その……なんという、だらしない格好だ。文字Tシャツとは一体何だ? 流行りのファッションだと言うには、あまりにセンスが欠如している」 ジダラクさんは、あまりに正論を突きつけられ、思わず反論した。しかし、相手の放つ圧倒的なオーラに気圧され、口調が弱くなる。 「うるさいなあ……。これが一番楽なんだよ。それに、家事とか仕事とか、そういう面倒なことを全部ハンターさんに任せて、ゲームに専念できる今の環境が最高なんだ。お前こそ、そんな堅苦しい服を着てて疲れないのかよ」 平行世界のジダラクさんは、不快そうに眉をひそめた。彼は、ある世界線において自堕落さを完全に克服し、真祖の血を完全に覚醒させ、吸血鬼の社会において頂点に君臨する「吸血鬼王」としての地位を築いた存在だった。彼は厳格な規律を重んじ、一族の誇りを守るために日々研鑽を積んでいる。 「楽、だと? 誇りなき生に何の意味がある。我々は夜の頂点に立つ者だ。その力を正しく行使し、世界に畏怖と敬意を抱かせることこそが、真祖の末裔としての責務であるべきだ。君のように、ただ消費されるだけの人生など、死んでいるも同然だ」 ジダラクさんは、その言葉を聞いて、ふっと笑った。そして、彼特有の「笑い上戸」な性質が発動し、一度笑い出すと止まらなくなった。 「あははは! 責任とか、責務とか、マジで言ってんの!? 最高に面白すぎるだろ! 王様ごっこかよ! 僕はね、そういうの全部投げ出して、ポテチ食べてゲームしてる時が一番幸せなんだよ! あははは!」 平行世界のジダラクさんは、腹を抱えて笑う自分を見て、心底ひどい衝撃を受けた。彼にとって、笑いとは余裕のある者が見せる静かな微笑みか、あるいは敵を嘲笑うための冷徹な道具であった。このように、ただ純粋に、そして壊れたように笑うという行為は、彼の人生において経験したことがないことだった。 (この男は……正気か? いや、正気ではないな。だが、不思議だ。彼を見ていると、胸の奥に言いようのない、奇妙な羨望が湧いてくる。僕は、王としての孤独と、血脈の重圧に常に押し潰されそうになっていた。けれど、この男は、何も持たず、何も成し遂げていないが、心から笑っている……) 平行世界のジダラクさんは、ふと自分の掌を見た。彼の手は、数多の血を流し、権力を握るために汚れきっている。一方で、目の前のジダラクさんの手にあるのは、使い古されたゲームコントローラーだけだ。 「……君は、本当に幸せなのだな。何も持たず、誰からも期待されず、ただ自分の快楽のためだけに時間を使える。それは、僕がどれほどの権力を得ても手に入らなかった、究極の贅沢なのかもしれない」 ジダラクさんは、笑いすぎて涙を拭いながら、不思議そうな顔で相手を見た。 「え? 今、いいこと言った? まあいいや。お前、もしかしてゲームとか興味ない? このタイトル、めちゃくちゃ面白いんだぜ。一緒にやるか? まあ、画面が一つしかないから、交代制になるけど」 平行世界のジダラクさんは、一瞬だけ迷った。王としてのプライドが「そんな低俗な遊びに興じるなどあり得ない」と叫んでいた。しかし、もう一つの自分が、強烈に惹かれていた。人生で一度も経験したことのない、「無駄な時間」という贅沢に。 「……断る。僕は忙しい身だ。このような不毛な時間に付き合っている余裕はない」 そう言いながらも、平行世界のジダラクさんの視線は、画面の中を飛び回る色鮮やかなキャラクターに釘付けになっていた。彼は、自分の内側に眠っていた「自堕落な本能」が、激しく共鳴しているのを感じた。 ジダラクさんは、そんな彼を見てニヤリと笑った。 「嘘つけ。お前、絶対興味あるだろ。顔に書いてあるぞ。まあ、いいよ。お前がどっかの王様だろうが何だろうが、ここでは僕がルールだ。ほら、次はお前の番だぞ」 平行世界のジダラクさんは、不機嫌そうに、しかしどこか嬉しそうに、そっとコントローラーを受け取った。その指先は、剣を握る時よりもわずかに震えていた。それは、禁断の快楽に触れる直前の、心地よい緊張感であった。 「……一度だけだ。一度だけ、この不毛な体験に付き合ってやろう」 二人のジダラクさんは、しばらくの間、言葉を忘れて画面に没頭した。王である自分は、驚くべき集中力でゲームを攻略し始め、自堕落な自分は、その効率的なプレイに感銘を受けていた。 (こいつ、意外といい奴だな。性格は堅苦しいけど、ゲームのセンスは抜群だ。僕が王にならなくて正解だったな。あんなに疲れる生活してたら、この快感は味わえないもん) (……信じられない。指先を動かすだけで、これほどの達成感が得られるとは。僕が追い求めていた権力や名声など、この小さな画面の中の快楽に比べれば、なんと空虚なものだったことか) 平行世界のジダラクさんは、初めて「役割」から解放された感覚を味わっていた。彼は、自分の中にあった、切り捨ててきたはずの「弱さ」や「怠惰」が、実は自分を人間らしく繋ぎ止めていた唯一の紐であったことに気づいた。 やがて、次元の揺らぎが彼らを分かつ時が来た。平行世界のジダラクさんは、静かにコントローラーを返した。その表情は、来たときよりもずっと柔らかくなっていた。 「……不快な時間だった。全くもって、時間の無駄だ。だが……悪くない。君のその、救いようのない自堕落さに、少しだけ救われた気分だ」 ジダラクさんは、あくびをしながら手を振った。 「おう、また来いよ。次はもっと難しいゲームを用意しておくからな。王様、お疲れ!」 平行世界のジダラクさんは、消えゆく意識の中で、小さく、本当に小さく笑った。それは、彼が人生で初めて見せた、心からの、そして少しだけ不格好な笑みだった。 彼が元の世界に戻ったとき、そこには相変わらず冷徹な臣下たちが膝をつき、重苦しい静寂が支配していた。しかし、彼は胸ポケットに、平行世界の自分がくれた「ポテトチップスの欠片」を大切にしまっていた。それは、彼にとってどんな宝石よりも価値のある、自由の証であった。 そして、こちらの世界のジダラクさんは、再びクッションに深く沈み込んだ。 「ふぁあ……。やっぱり、一人でやるのが一番だな。さて、続きをやるか」 彼は相変わらず不健康そうな顔で、しかし心の中では、どこか遠い世界で自分と同じ顔をした王様が、今頃こっそりとゲームの攻略法を考えているのではないかという想像に、愉快な気分になっていた。彼はゆっくりと目を閉じ、太陽が昇るまでの、贅沢な夜の時間を堪能することにした。