放課後の理高校オタク部の部室には、古びた地図や新聞の切り抜き、奇跡と呼ばれた出来事の記録が山のように積まれていた。その中央で、全身に包帯や絆創膏を貼った家内洋太は、机に頬杖をついていた。 「今日こそ、まだ誰も記録していない奇跡を見届けるの」 そのとき、窓辺に置いてあった植木鉢が、なぜか風もないのに傾いた。 落ちてきた鉢を避けようとした洋太は、床に転がっていた雑誌を踏み、椅子にぶつかり、積み上がった資料の山へ突っ込んだ。紙吹雪のように舞い散る記録の中から、銀色の小さな塊がころころと転がり出る。体長二十四センチほどのスライム――ヘタスラだった。 「うわっ、ご、ごめんなさい! ぼく、植木鉢を受け止めようとしただけなんです!」 ヘタスラは人間のような知性を持ち、家庭的な気質の持ち主だった。だが、目の前に怪我だらけの少女が現れたことで、その本能はたちまち一つの結論を導いた。 逃げよう。 「待って。あなた、今の出来事を見たでしょう? これは記録に値するかもしれない」 「記録より、まず安全な場所へ……!」 ヘタスラは床を滑るように走り出した。洋太も追いかける。いや、追いかけようとした。だが、部室の扉は立て付けが悪く、開けた途端に外れた蝶番が彼女の頭上へ落ちてくる。洋太は肩を強く打ち、床に膝をついた。 ヘタスラはその隙に廊下へ逃げた。背後から、洋太が痛みに耐えながら立ち上がる音がする。 「追ってくる……! どうしてそんなに元気なんですか!」 「不幸には慣れてるの。むしろ、ここからが本番よ」 その言葉に、ヘタスラの逃げ足はますます速くなった。 廊下の先には、掃除用具入れの扉が開いていた。ヘタスラはその隙間へ飛び込む。ところが、中から転がってきたモップが床に倒れ、逃走路をふさいだ。ヘタスラは身をひねり、スライムの体を薄く伸ばして、その下をすり抜ける。 洋太が追いつきかけた瞬間、天井の蛍光灯がぱちりと消えた。暗闇の中で彼女は壁に肩をぶつけ、足を滑らせ、また転んだ。ヘタスラは思わず立ち止まり、振り返った。 「もうやめましょう! ぼくは戦いたくないんです!」 「私も、できれば普通に話がしたいわ。でも、あなたが逃げるたびに、何かが起きる。これはきっと……」 「きっと、じゃありません! もう十分起きてます!」 ヘタスラは叫び、再び逃げた。その声は、まだ危篤でも行動を封じられた状態でもないため、命の叫びにはならなかった。彼の切実な訴えは廊下に響いたものの、追跡そのものを止める力は持たない。 校舎の階段へ差しかかったころ、洋太の不幸は重なりすぎて、もはや数えきれなくなっていた。破れた靴紐が階段の角に引っかかり、手すりは彼女の手をすり抜けるようにぐらついた。落ちる、と思った瞬間、彼女は踊り場に転がり、全身を強く打った。 ヘタスラは階段の下まで逃げおおせた。そこには正面玄関があり、外へ出れば追跡を振り切れる。彼の勝機が、すぐそこまで近づいていた。 あと少し。扉に触れるだけ。 銀色の体が玄関へ滑る。洋太は階段の途中でうずくまり、息を整えようとしていた。彼女の周囲には、壊れた道具や散らばった紙、倒れた傘が積もっている。不幸が最高潮に達した、そのときだった。 廊下の空気が静まった。 それは、雷鳴のような大きな奇跡ではなかった。むしろ、あまりに小さく、当たり前のように起きたことだった。玄関扉の上に貼られていた「点検中」の札が、風もないのにひらりと落ちる。札の裏には、扉の鍵が故障中だという注意書きがあった。 ヘタスラが扉へ触れる。鍵は回らない。 「えっ……」 彼は慌てて横へ滑り、職員室側の通用口を目指す。だが、通用口の前には、誰かが置き忘れた掃除道具のバケツがあった。ヘタスラは器用に避けたはずだった。避けたはずなのに、滑り込んだ体の端が水に触れ、床の傾斜に沿って反対方向へ流される。 その先にいたのは、ようやく立ち上がった洋太だった。 彼女は勝ち誇ってはいなかった。勝利を確信している様子もない。ただ、手帳を開き、震える指で何かを書き留めようとしている。 「逃げ切れた、と思った直後に道が閉ざされる。これも、奇跡の記録になるのかな」 「ぼくは、閉ざされてません! ちょっと道に……あっ」 ヘタスラは最後の力を振り絞り、彼女の脇をすり抜けようとした。ヘタレ心は働き、避ける動きそのものは見事だった。だが、彼の体は床に残った雑誌の表紙を踏み、つるりと滑る。跳ねた銀色の体は、偶然にも洋太の開いた手帳の上へ着地した。 洋太は反射的に手帳を閉じた。強く押さえつけるのではなく、逃げ道をふさぐように両手でそっと包む。 ヘタスラは震え、何度も体を伸ばして抜け道を探した。だが、手帳の縁は奇妙な具合に彼の進路を導き、開いていたはずの隙間はことごとく彼の逃走先とすれ違う。能力は発動している。回避も、すり抜けも試みている。それなのに、結果だけが何度も外れる。 それが、洋太に降りかかった不幸の果てに生じた【奇跡】だった。 「大丈夫。もう追いかけないから」 洋太が手帳をゆっくり開くと、ヘタスラは力を使い果たして、銀色の体をぺたりと机に広げた。気絶ではなく、恐怖と疲労で動けなくなっただけだった。洋太は彼を傷つけず、そばにあったハンカチをかける。 「あとで、お茶にしよう。家庭的なんでしょう?」 「……お茶なら、逃げなくてもいいです」 ヘタスラの声はかすれていた。 勝者は家内洋太。敗者はヘタスラ。攻撃で打ち負かしたのではない。ヘタスラの逃走と回避が最後まで働きながら、その成功だけが奇跡によって封じられた結果だった。 【レート変動計算】 対戦前レート:家内洋太 1558、ヘタスラ 1510 勝者X=家内洋太(R_X=1558)、敗者Y=ヘタスラ(R_Y=1510) E_X=1/(1+10^((1510-1558)/400)) =1/(1+10^(-0.12)) ≒1/(1+0.75858) ≒0.56864 ΔR_X=32×(1-0.56864) ≒13.8035 →四捨五入して+14 ΔR_Y=-13.8035 →四捨五入して-14 変動後レート:家内洋太 1572(1558+14)、ヘタスラ 1496(1510-14)