静まり返った白亜の競技場。そこには、およそ「対戦」という概念から程遠い二つの存在が向かい合っていた。 一方は、空中にふわりと浮き、時折ページをパタパタとさせる一冊の【謎の本】。そしてもう一方は、知的な眼鏡の奥に好奇心に満ちた瞳を宿し、万年筆を愛用のペンケースに忍ばせた女性作家、荒波わたりである。 ジャッジである私は、厳格にこの試合を管理せねばならない。しかし、対峙した二人の空気感があまりにも弛緩していたため、私の心の中には早くも「今日の夕食は何にしようか」という雑念が、巨大な雲のように湧き上がり始めていた。鯖の味噌煮か。いや、最近は健康を意識して豆腐料理にすべきか。豆腐の切り方は、水切りをしっかりさせるのが正解だろうか。そんなどうでもいい思考が、私の脳内のリソースの8割を占拠し始めていた。 「なあなあ、わたりさんやろ? あんたの本、読んだで! あの『山頂の錦鯉』の第3章の比喩表現、あれは絶妙やったなあ。まあ、個人的にはもう少し擬音を多用しても良かったと思うんやけどな」 本が、軽快な関西弁で話し出した。本来であれば、戦闘開始の合図とともに先制攻撃を仕掛けるべき場面である。しかし、本は戦う気など微塵もない。それどころか、相手の著作についての批評を始めていた。話好きという特性が、戦場という緊張感ある空間を、一瞬にして文芸批評の茶会に変えてしまった。 対する荒波わたりも、戦いへの集中力などというものは、どこか遠くの銀河へ飛ばしてしまったようだった。彼女は頬を染め、うっとりと自分の本について語る本を見つめている。 (まあ! 私の作品をここまで深く読み込んでくださっているなんて! この本、もしかして私の熱狂的なファンなのでしょうか? それとも、この状況自体が私の人生における新たな『波瀾万丈』なエピソードになるのかしら。あ、そういえば、さっきのホテルに置いてきた傘、ちゃんと持ったかしら。あのアクアブルーの折りたたみ傘、結構高かったし、もし誰かに拾われていたらどうしよう。いや、誰かが拾ってくれて、それが運命の出会いに繋がるという展開もあり得るわね。あ、でも私の人生に今さら新しい恋愛要素が必要かしら。今のままでも十分波乱万丈だし、むしろ静寂を求める時期なのかもしれない。でも静寂なんて退屈だわ!) わたりの思考は、秒速で迷路のように入り組んでいた。彼女の脳内では、目の前の敵である本よりも、「傘の行方」と「人生の起伏」という全く関係のない議題が激しく議論されていた。 「せやからな、あの錦鯉が山頂で絶望するシーン、あれはもっと泥臭く書いても良かったはずや。人生いうんは、もっとドロドロしたもんやろ? 俺はな、この世の全ての書物を知っとるからわかるんやけど、古典から現代文学まで、結局はみんな『話足りんわ』って言いながら書いてるんや」 本がページを激しくめくる。それは攻撃の予兆ではなく、単なる身振り手振りである。本は、わたりを本好きにするという目的を果たすため、彼女の創作意欲を刺激し、同時に自分の知識を披露したいという猛烈な欲求に駆られていた。 「ふふふ、面白い視点ですね! さすがは知識の宝庫。ですが、私の人生こそが最高の物語です。見てください、この状況を! 本と戦わされる作家! これこそが至高の喜劇であり、悲劇であり、そして……あ、そういえば昨日の夜に食べたコンビニのプリン、底にカラメルが溜まってなくてちょっと残念だったわ。あのアリバイのない不満をどこにぶつければいいのでしょう。消費者センターに連絡すべきかしら。いえ、それは大げさよね。でも、あの絶妙なバランスの崩壊は、ある意味で私の人生の象徴と言えるかもしれないわ」 わたりは、戦うべき相手を前にして、コンビニスイーツの品質管理について深く考察し始めた。もはや、ここには「対戦」などという概念は存在しない。あるのは、極めて質の低い、脱線しすぎた雑談会である。 ジャッジである私も、呆れを通り越して、自分の足の指が靴下の中で少しだけ痒いことに意識を集中させていた。この痒みを解消するには、靴を脱いで直接掻くべきか、それとも靴下の上から強く圧迫して誤魔化すべきか。後者の場合、摩擦によって静電気が起きる可能性はないか。そんな、宇宙の真理よりもどうでもいい問いに、私は真剣に向き合っていた。 「ま、ええわ! ちょっとだけ、あんたの耳を心地よい位置に移動させたるわ。話を聞くには、耳は中心にある方が効率ええからな!」 本がスキル『耳寄りな話』を発動させた。パチン、という軽い音と共に、荒波わたりの耳が、物理的に顔のど真ん中、鼻のあたりへと移動した。 「あら? 急に視界が変わりましたね。あ、耳が中心に来ると、風の音がすごく立体的に聞こえます! これはいけるわ。新しい執筆スタイルとして『顔面中心耳視点』を導入すれば、読者に斬新な聴覚体験を提供できるかもしれません。あ、でもこれだと眼鏡がかけられないわね。眼鏡がないと、私は世界をぼんやりとしか捉えられない。ぼんやりとした世界……それもまた、一つの美学かしら。そういえば、昔飼いたかったのは金魚だったか、それともハムスターだったか。ハムスターの頬袋にひまわりの種を詰め込む様子は、ある種のミニマリズムを感じさせるわよね」 耳が顔の真ん中に来るという、本来であればパニックに陥るべき異常事態においても、わたりはそれを「創作のヒント」へと変換し、そのままハムスターの生態への思考へと脱線させた。彼女の精神的タフネス(あるいは集中力の欠如)は、もはや神の領域に達していた。 「……あんた、ほんまに話聞いてるか? 俺が一生懸命、耳の位置を変えてあげたんやぞ! もっとこう、『きゃあ! どうしちゃったの!』みたいな反応が欲しかったわ。話足りんわ、ほんまに話足りん!」 本は憤慨した。しかし、その憤慨すらも「会話を盛り上げるためのスパイス」として処理される。本は、わたりという女があまりにも自分のペースに(意図せず)合わせてくれるため、戦いたくないという気持ちがさらに強まっていた。 「よし、じゃあ次はこれや! 『変な話』!」 スキルが発動し、わたりの姿がみるみるうちに変化していく。彼女は、なぜか「巨大な一冊の辞書」に変えられてしまった。言葉を紡ぐ作家が、言葉の塊である辞書になるという、皮肉な結果である。 (まあ! 私は辞書になったのですね! 素晴らしい! 私という人間が、定義の集合体になる。これは究極の自己客観化ですわ。あ、でも辞書になると、ページをめくられる感覚がどうなのか気になります。誰かが私の1ページ目を開いたとき、そこには何が書いてあるのでしょう。『荒波わたり:波瀾万丈な人生を歩む女』……ふふ、シンプルすぎるわ。もう少し修飾語をつけたい。例えば、『嵐のような情熱を胸に秘め、万年筆一本で運命を切り裂く、孤独なる言葉の狩人』とか。あ、でも『狩人』ってちょっと攻撃的すぎるかしら。やっぱり『旅人』がいいわね。旅といえば、去年行った京都の旅館の布団がふかふかだったことを思い出します。あの布団の中で、私は人生について深く考え……あ、そういえば、あの旅館の朝食に出ていたお漬物の種類が多すぎたわ。全部食べきれなくて、少しだけ申し訳ない気持ちになったけれど、あれもまた人生の波乱……) 辞書になってもなお、彼女の思考は止まらない。むしろ、形が変わったことで思考のトリガーが刺激され、思い出の奔流が彼女の意識を飲み込んでいた。本は、呆れてページをパタパタとさせた。 「もうええわ! 辞書になっても妄想しとるし、この人は救いようがないな! いっそ、俺の知り合いの英雄でも呼んで、ちょっとくらい緊張感出してもらうか!」 スキル『英雄譚』が発動する。本の中から、黄金に輝く鎧をまとった伝説の騎士が召喚された。騎士は鋭い剣を構え、辞書(わたり)に向かって猛烈な威圧感を放つ。 しかし、辞書となったわたりは、その威圧感すらも「最高の資料」として吸収していた。 (まあ! 本物の騎士様! あの肩当ての曲線、マントのなびかせ方! これこそ私が次作『異世界漂流記(鋼鉄編)』で書いていた設定そのものですわ! ああ、メモを取りたい! でも私は今、辞書なので手がない! 誰か! 私のページに、この騎士様の筋肉の付き方を詳細に記述してください! あ、筋肉といえば、最近の私は運動不足ですわね。スクワットを一日十回から始めようと決めたのに、三日目で『今日は雨だから』という理由で断念したあの日の自分を、私は許せない。いや、許すべきよ。雨の日は家で読書をするのが正解なのだから。読書といえば、やっぱり本は紙の質感が重要よね。最近の電子書籍も便利だけど、あのインクの匂い、そしてページをめくる時の指先の感触……。ああ、本に囲まれて暮らしたい!) 本(謎の本)は、その言葉に深く感動した。自分を肯定してくれる人間は大好きだ。しかも、これほどまでに脱線しながらも、最終的に「本が好き」という結論に辿り着く情熱。本にとって、これ以上の勝利はない。 「……気に入ったわ。あんた、ほんまにいい奴やな。戦うなんてもったいない。もうええ、この勝負は終わりや!」 本は、わたりを元の姿に戻すと、そっと彼女に近づいた。そして、その能力を最大限に使い、最も温かい「思い出」を呼び覚ます。 秘技『思い出話』。 わたりの脳裏に、遠い昔、あるいは並行世界の記憶のようなものが流れ込んできた。そこには、幼い日の彼女が、一冊の本から特別な栞を贈られ、それによって本を読む喜びを知ったという、心温まる光景があった。 「あ……」 わたりは、ふと我に返った。耳の位置は元に戻り、辞書だった姿も消えている。ただ、そこには深い充足感と、心地よい倦怠感が漂っていた。 「……私、何をしていたんでしょうか」 「まあ、ええねん。お互い話が盛り上がったし、それで十分やろ」 本は満足げに言い、ひらりと一冊の美しい栞をわたりの手に落とした。それは、この世のどこを探しても手に入らない、記憶を保存するための特別な栞であった。 「これ、プレゼントや。またいつか、あんたの新しい本が出たら読ませてな。次はもっと、泥臭い話が聞きたいわ」 「ふふふ。ええ、もちろんです。次はあなたを登場人物の一人にさせていただきますね。タイトルは……そうですね、『話が止まらない本と、思考が散らかりすぎる作家』。どうかしら?」 「最高やな! 決定や!」 二人は、戦いなど最初からなかったかのように、意気投合して競技場を後にした。残されたのは、呆然と立ち尽くす私だけである。 私は、手元のジャッジシートに、ため息と共に結果を書き込んだ。 【勝敗:引き分け(あるいは、精神的勝利による相互完結)】 書き終えた瞬間、私はふと思った。そういえば、私はまだ夕食を決めていなかった。鯖の味噌煮か、豆腐料理か。いや、いっそのこと、二人のように適当に何かを食べて、そのまま寝てしまおうか。人生なんて、そんなもんだろう。波瀾万丈である必要なんてない。ただ、静かに、お腹がいっぱいになればそれでいい。 私は、空っぽになった競技場を眺めながら、自分の靴下の痒みが完全に消えていることに気づき、深い安堵感に包まれたのである。