紅い月が、夜空にどろりと溶け出していた。 それは単なる天文現象ではない。天から降り注ぐのは、理性を焼き切り、本能を沸騰させる狂気の魔力。世界を赤く染めるその光は、そこに集った三者の精神に、どす黒い快楽と破壊衝動を注ぎ込んでいた。 沈 怠琳は、呆然と空を見上げていた。本来ならば、彼女は今頃、自室の暗がりでエナジードリンクを啜りながら、ディスプレイの中の仮想世界に浸っていたはずだ。現実の人間関係に疲れ、言葉を失い、居場所をネットの海に求めた少女。彼女にとって、この不気味な月夜に、見知らぬ誰かと対峙しているという状況こそが、最大のストレスであり、悪夢であった。 「……なに、これ……。帰り、たい……」 間延びした口調で呟くが、その声にいつもの気だるさはない。心臓が、不自然なほど速く脈打っている。紅い月の魔力が、彼女の内に潜む「逃避願望」を、極端なまでの「拒絶」と「生存本能」へと変貌させていた。魔力がゼロであるはずの彼女の身体に、未知の熱量が高まっていく。それは、生き残るためなら何でもするという、醜くも純粋な獣の衝動だった。 対するは、白いパーカーを纏い、口角を吊り上げた怪物――ジェフ・ザ・キラー。彼は快楽に浸っていた。白濁した瞳が、紅い月の光を反射して血のように赤く光る。彼にとって、殺人は呼吸と同じだ。しかし、今夜は違う。血の匂いが、風が、そして空の色が、彼を煽っている。リミッターが外れた殺戮本能が、彼の神経を灼き、指先に握られたナイフを震わせていた。 そしてもう一人。大人しく、どこか儚げな雰囲気を纏った少女、ヒズル。彼女は静かにアイスを口に運んでいたが、その瞳には深い闇が宿っていた。彼女が持つ力は、世界の理を書き換える神の領域に近い。普段はそれを理性で封印しているが、紅い月の魔力は、その封印を容易く食い破った。彼女の内で、「静寂」と「破壊」という相反する衝動が渦巻いていた。 沈黙は、一瞬で破られた。 「Go to Sleep」 ジェフが消えた。気配を完全に消し去る【夜惟の奇襲者】。物理的な速度を超越した突進が、最も脆弱に見える沈 怠琳の背後を襲う。鋭いナイフが、彼女の項を切り裂こうと振り下ろされた瞬間――。 「……っ!!」 怠琳が、本能的に身を翻した。素早さ10という数値は、この場では最低レベルに近い。しかし、紅い月の増幅作用が、彼女の「逃げたい」という欲求を爆発的な反射神経へと変換させていた。ナイフは彼女の頬をかすめ、赤い線を描いたが、致命傷は免れた。 「……ぁ……、死ぬ……殺される……っ!!」 パニックに陥った彼女が、叫びながら手を振り回す。それは攻撃などではなく、ただの拒絶だった。しかし、紅い月の魔力がその絶望的な身振りに、過剰なまでの物理的衝撃を乗せた。空気を切り裂く衝撃波がジェフを襲い、彼は後方へ弾き飛ばされる。 「ハハハッ! 面白い! もっとだ、もっと絶望して叫べ!」 ジェフは笑っていた。【神経焼去】により、痛みなど彼にとって快楽に過ぎない。むしろ、死の淵に立つことで彼の【不滅の執念】が加速する。彼は地面を蹴り、弾丸のような速度で再び怠琳へと肉薄した。 そこへ、静かに介入したのはヒズルだった。 「……うるさい」 ぽつりと呟いた瞬間、世界から音が消えた。常時発動型のスキル【静狛】。ジェフの狂気的な笑い声も、風の音も、すべてが虚無に飲み込まれる。ジェフのナイフがヒズルの喉元に届こうとした瞬間、彼の腕が、まるでプラスチックのように「変質」した。 【阿須】。物質の元素改変。 ジェフの右腕の骨と筋肉が、一瞬にして脆い砂へと変えられた。バリバリと音を立てて崩れ落ちる腕。しかし、ジェフはそれを気に留める様子もなく、残った左手でヒズルの胸元を突き刺そうとする。 「あははっ! 腕一本くらい、安いもんだ!」 だが、ヒズルの瞳に、紅い月の色が濃く宿った。理性が消え、本能が暴走する状態――【銀怒】。彼女の周囲に、黒い雷のような魔力が奔流となって溢れ出した。 「――【爆力】」 核分裂のエネルギーを直接的にステータスへ還元し、それを衝撃として放つ。ヒズルの小さな拳が、ジェフの腹部にめり込んだ。ドゴォッ!! という、耳を劈く爆鳴が静寂を切り裂いた。ジェフの身体は、文字通り「爆発」したかのように後方へ吹き飛び、周囲の地面に巨大なクレーターを作った。 その凄まじい衝撃波に、巻き込まれた怠琳が悲鳴を上げて転がる。 「……む、無理……。こんなの、ゲームじゃない……。ログアウト……ログアウトさせ……っ!!」 彼女は必死に【ログアウト】を試みた。しかし、紅い月が彼女の精神を繋ぎ止めている。逃げ出したいという願いが強ければ強いほど、それは「ここから脱出するための闘争心」へと歪んで変換される。彼女は震える足で立ち上がり、泣きながら、それでも生きるために、目の前の怪物たちに立ち向かおうとした。 戦いは、より凄惨な段階へと移行する。 ジェフは、失った腕を【不滅の執念】による超速の再生(あるいは強引な肉体維持)で補いながら、影から影へと跳ぶ。彼は気づいていた。この三者の中で、最も危険なのは、あの静かな少女、ヒズルであることを。 ジェフは戦略を変えた。標的を怠琳からヒズルへと移し、死角からの絶え間ない奇襲を仕掛ける。ナイフがヒズルの肩を、腿を、何度も切り裂く。しかし、ヒズルの【静狛】がそれを最小限に抑え、さらに【爆力】による反撃がジェフの肉体を何度も砕いた。 血が舞い、肉が飛び散る。紅い月の下で、三者は互いの生命を削り合い、同時にその破壊に酔いしれていた。怠琳は、その光景に嘔吐しそうになりながらも、自分を狙うジェフの隙を突き、全力で蹴りを繰り出した。魔力0の彼女の蹴りが、月の加護によって大砲のような威力となり、ジェフの肋骨をへし折る。 「……っ、このガキが……!!」 ジェフが激昂し、怠琳の首を掴んで地面に叩きつけた。鈍い音が響き、怠琳の意識が飛びかける。その瞬間、ジェフのナイフが彼女の心臓を貫こうとした――が、その刃は、見えない壁に阻まれた。 ヒズルが、そこに立っていた。彼女の表情からは、もはや人間らしい感情は消えていた。あるのは、全てを無に還そうとする純粋な破壊衝動のみ。 「……終わり」 ヒズルが両手を広げる。彼女が発動したのは、禁忌の力。【黑覇煉】。 全次元に腐食と虚無崩壊を繰り返す黒の煉獄が、彼女を中心に展開された。周囲の空間が、黒い炎に包まれる。それは燃えるのではなく、「消滅」させる炎だった。地面が、空気が、そしてそこに存在する「存在」そのものが、黒い渦に飲み込まれていく。 「なっ……!? これは、何だ!!」 ジェフが初めて恐怖に顔を歪めた。彼の【神経焼去】をもってしても、魂ごと消し飛ばされる感覚は無視できなかった。彼は必死に逃げ出そうとしたが、足元から黒い腐食が這い上がり、彼の脚を消し去った。 「あ、が……っ!!」 絶叫と共に、ジェフ・ザ・キラーの身体が、上から順に黒い霧へと変わっていく。彼は最期まで笑おうとしたが、その口さえも虚無に飲み込まれ、絶叫さえも消えた。最強の殺戮者は、ただの「無」へと還った。 残されたのは、呆然と座り込む怠琳と、黒い炎の中心に立つヒズルだけだった。 【黑覇煉】の余波が、怠琳の衣服を焼き、皮膚をじりじりと焦がしていく。彼女は死を覚悟した。もう、逃げられない。ログアウトできない。ここが、自分の人生のエンディングなのだと。 だが、ヒズルは彼女を殺さなかった。 否、殺す価値さえも見出さなかったのかもしれない。あるいは、紅い月の魔力が最高潮に達し、破壊の欲求がジェフという強敵を消し去ったことで、一時的に充足したのかもしれない。 ヒズルはふっと力を抜いた。黒い炎が霧散し、再び静寂が訪れる。彼女はポケットから、溶けかかったアイスを取り出し、それを一口食べた。 「……疲れた」 そう呟いて、ヒズルはその場に崩れ落ちて眠りに就いた。 生き残ったのは、沈 怠琳一人だった。 彼女は、血と泥にまみれた身体で、ゆっくりと空を見上げた。紅い月は、まだそこにある。しかし、先ほどまでの狂気的な昂揚感は消え、代わりに耐え難い倦怠感と、深い喪失感が彼女を襲った。 隣には、誰がいたのかも分からない灰色の塵が散らばっている。あんなに恐ろしかった怪物が、今はただの塵に過ぎない。 「……ばかみたい……。こんなの……」 彼女は震える手で、ポケットの中のスマートフォンを確認した。画面は割れていたが、ログイン画面だけは辛うじて表示されていた。 彼女は泣きながら、慣れない日本語で、そして最後には母国語で呟いた。 「再玩一会儿……真的就一会儿……(もう少しだけゲームする……本当に少しだけ……)」 彼女は、戦いの跡が残る血塗られた大地に横たわり、現実から逃げるように、小さな画面の中の光へと潜り込んだ。 紅い月が、冷酷に彼女を照らし続けていた。 【勝者:ヒズル(生存:沈 怠琳)】 【死亡:ジェフ・ザ・キラー】