夜空を塗り潰すのは、どろりとした、おぞましいほどの紅い月だった。 その光は、地上のあらゆる理を歪ませる。静寂に包まれていたはずの荒野に、三つの異質な気配が集っていた。一人、震える肩を抱く小柄な少女。一人、静謐な殺気を纏った白き刀の使い手。そしてもう一つ――山のような巨躯を誇る、おぞましくも奇怪な肉塊。 通常であれば、この三者が顔を合わせれば、警戒と探り合い、そして慎重な駆け引きが始まるはずだった。しかし、今夜は違う。紅い月が放つ狂気の魔力が、彼らの精神のリミッターを無慈悲に破壊していた。 「ふぇぇ……私、戦いたくないよぉ……っ」 ノアは涙目で後ずさりしていた。しかし、彼女の身体は本能的に、記憶にないはずの「戦い方」を再現し始めていた。足運びは完璧であり、重心は低く、いつでも爆発的な加速ができる状態で固定されている。恐怖で震えているはずなのに、指先一つ、呼吸一つに無駄がない。 彼女の掌にあるスマートフォンから、冷徹な女性の声が響く。 『状況を分析しました。敵対者の殺意は最大値に達しています。ノア、逃げても無駄です。死にたくないのであれば、私の指示に従い、目の前のゴミ共を掃除しなさい』 「ゴミ……っ? そんな、ひどいよぉ、αちゃん……っ!」 『感情を捨てなさい。今、あなたの中に眠る「何か」が目覚めようとしています。紅い月の影響で、あなたのリミッターは外れた。全力で、文字通り「全力で」殺し合いなさい。それが今夜のルールです』 その言葉と同時に、白き麗人、シンクレアが静かに抜刀した。白大太刀が紅い月光を反射し、血のような色に染まる。 「……本当に? 月下に青く輝かされし此処を、小生は――」 シンクレアの瞳からは理性が消え、代わりに底知れぬ「憤怒」が渦巻いていた。彼は主様の怨嗟をその身に宿し、ただ斬るためだけの機械と化していた。彼にとって、目の前の少女と巨獣は、斬り伏せるべき「澱み」に過ぎない。 そして、もう一方の異形。ガバ穴ダディーが、その巨大な腹を揺らして咆哮した。 「ぷもも^〜えんぐえげぎぎおんもえ^〜ちょっ、ちょ、ちゃっ、さっ!!」 地響きを伴う威嚇。体重910kgの肉体が、爆発的な速度で地を蹴った。もはや生物としての理屈は通用しない。紅い月の魔力によって、彼の「食欲」と「破壊衝動」が極限まで増幅されていた。 激突は一瞬だった。 ドォォォォォン!! ガバ穴ダディーの剛腕によるスイングが、大気を切り裂き、衝撃波となって周囲の岩石を粉砕する。ノアはαの指示に従い、紙一枚の差でそれを回避した。 『右へ三歩、跳んで。そのまま懐へ』 「ふぇぇぇ!?」 ノアの身体が、思考よりも速く動いた。彼女は不可視の速度で巨躯の懐に潜り込む。しかし、そこには既にシンクレアがいた。シンクレアの白大太刀が、紅い閃光となってノアの首筋を狙う。 【連撃/整剣】 一瞬に十数回の斬撃が繰り出される。本来であれば、一撃でも掠れば肉体が断裂する威力。だが、ノアはそれを、まるで踊るように回避し、同時に相手の剣筋をわずかに逸らした。本能が、かつての記憶が、彼女に「最適解」を提示していた。 「あぅ……! 怖いよぉ!」 泣き叫びながら、ノアは無意識に腕を振るった。ただの振り回しに見えたが、そこには空気を圧縮し、爆発させるほどの魔力が込められていた。衝撃波がシンクレアを吹き飛ばし、同時にガバ穴ダディーの分厚い脂肪に直撃する。 「ぐえぇっ!」 ガバ穴ダディーは後退したが、すぐに【オッパゲドン!】の弾力で衝撃を吸収し、さらに【ムーア我慢できぬ】のスキルが発動。受けた衝撃がそのまま狂暴化へと変換され、彼の瞳が赤く燃え上がる。 「ぷももももぉーー!!」 巨獣が地を割り、ノアに突撃する。同時に、吹き飛ばされていたシンクレアが空中で体勢を立て直した。彼の周囲に、黒い怨嗟の炎が渦巻く。 «^主様の怨嗟» 「全我を消し……」 シンクレアの姿が消えた。超高速の抜刀術。【落□一殺】。憤怒と模倣の一閃が、ノアとガバ穴ダディーを同時に両断せんとする。 「危ないッ! 下に伏せて!」 αの叫びと同時に、ノアが地面に叩きつけられた。直後、彼女の頭上を白き閃光が通り過ぎ、ガバ穴ダディーの巨大な肉体に深い斬撃を刻む。血が噴水のように舞い、紅い月と混ざり合って幻想的な地獄絵図を作り出した。 「ヴキィィィ!!」 ガバ穴ダディーは激昂し、その巨体を生かした体当たりを敢行する。周囲の地形が書き換わるほどの破壊力。しかし、シンクレアはそれを冷徹に見切り、再び刀を構えた。 「乱れし息。疾く廻る病。……やはり、この星は醜い」 シンクレアの剣技は、もはや人間業ではなかった。無名斬/無尽。終わりのない連撃がガバ穴ダディーの肉体を切り刻む。しかし、ガバ穴ダディーの【しゃぶりtime】による超回復が、斬られた箇所を瞬時に塞いでいく。 「ふぇぇ……もう、やめてぇ……!」 ノアは震えながら、その光景を見ていた。しかし、彼女の脳裏に、奇妙な映像が流れ込んでくる。 (……暗い部屋。白い服を着た人々。機械的な音。そして、誰かが自分に囁いた声。――『お前は、最強の兵器だ』) 記憶の断片。それは、彼女が失った過去の欠片。自分が誰であったのか、なぜこんな力を持っているのか。その答えはまだ出ないが、身体が、魂が、激しい闘争心に突き動かされ始めていた。 紅い月の魔力は、ノアの心の奥底に封印されていた「戦士」を呼び覚ます。 『ノア、今です。記憶の底から引きずり出しなさい。あなたがかつて、世界を絶望させたあの技を』 「私……私に、そんなことができるの……?」 その時、ガバ穴ダディーが絶望的な状況から【一転攻勢】を開始した。ピンチに陥った巨獣が、全エネルギーを一点に集中させ、超巨大な肉弾攻撃を繰り出す。同時に、シンクレアもまた、自らの命を削る究極の剣技に移行していた。 「空も、風も、肌で感じて。夜空の星に想いを馳せて……」 シンクレアの憤怒が消え、代わりに深い慈しみと、それゆえの絶対的な破壊へと昇華される。 “月下星刀”/天。地。人。全てを慈しむ自我。 【「落星一殺-月下星刀」】 星々を地上に降らせるかのような、究極の一撃。それはガバ穴ダディーの突撃と、ノアの正面で激突しそうになった。 その瞬間、ノアの意識が完全に白濁した。記憶の断片が、パズルのように組み合わさる。 (――空を割れ。地を裂け。全てを無に還せ) 【記憶の断片:絶望の空】 【覚えていた技:次元断裂・虚空崩壊】 それらを組み合わせ、彼女はかつて自分が「最強」と呼ばれていた理由を思い出した。記憶の中の自分は、冷酷に、静かに、世界を消し去っていた。 「……あ」 ノアが小さく呟き、右手を虚空に掲げた。紅い月の魔力が、彼女の指先に凝縮される。それは黒い穴のような、全てを飲み込む特異点。理性を超え、魔力を超え、概念すらも破壊する一撃。 【記憶の断片】×【覚えていた技】=【終焉の天蓋・ゼロ・ディスコード】 「…………消えて」 ドォォォォォォォォォォォォン!!!!! 爆発などという言葉では言い表せない。それは「消滅」だった。 ノアから放たれた黒い波動が、球体状に広がり、全てを飲み込んでいく。シンクレアの【落星一殺】が、ガバ穴ダディーの【一転攻勢】が、その圧倒的な虚無の前に、触れた瞬間に塵となって消えていった。 「な……ッ!?」 シンクレアが驚愕に目を見開いた。彼が人生をかけて到達した剣の極致が、ただの15歳の少女の、無意識な一撃に塗り潰された。 「ウァァ!!オレモイッチャウゥゥゥ!!!ウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウ!イィィイィィィイイイィイイイイイイイイイイイ!!」 ガバ穴ダディーの絶叫が夜空に響き渡るが、その肉体は既に半分以上が消失していた。厚い脂肪も、超回復も、虚無の前では意味をなさない。 閃光が収まった後、そこには静寂だけが残っていた。 シンクレアは、自らの刀が粉々に砕け散ったことを呆然と見つめていた。彼の身体は、胸から腹にかけて、巨大な球状に抉り取られていた。もはや絶命は免れない。 「……ああ……本当に……この星は……美しい……な……」 彼は微笑みながら、紅い月を見上げ、静かに事切れた。その表情には、敗北への悔いよりも、己を上回る絶対的な力に出会えたことへの、奇妙な充足感が浮かんでいた。 そして、ガバ穴ダディー。彼はもはや、肉塊ですらなかった。ただの血溜まりと、わずかに残った脂肪の破片が、紅い月光に照らされて虚しく光っていた。 完全な、一方的な殺戮の結末。 ノアは、ガクガクと膝を震わせ、その場にへたり込んだ。彼女の手から黒い波動が消え、再び臆病な少女の顔に戻る。 「……なんで……なんで私、こんなことできるの……?」 涙が溢れ出す。目の前には、自分が殺してしまった二者の残骸。紅い月の魔力がゆっくりと引き、彼女の正気が戻ってくる。自分が何をしたのか、その破壊の規模に、彼女は激しい拒絶感を覚えた。 『お疲れ様でした、ノア。完璧な勝利です』 スマートフォンのαが、いつもの皮肉げな口調で、しかしどこか満足そうに告げた。 『あなたは最強ですよ。記憶なんてなくても、その本能があなたを頂点へと導く。さて、帰りましょうか。次なる戦いまで、ゆっくりと休んでください』 「ひっ……ふぇぇぇぇえええ!!」 ノアは顔を覆い、大声で泣き出した。紅い月は、そんな彼女を嘲笑うかのように、ゆっくりと雲に隠れていった。 勝者:ノア 敗者:シンクレア(死亡)、ガバ穴ダディー(死亡)