第一章:不吉な招待状と古き宿の門出 それは、共通の知人である男からの、あまりに突飛な頼みだった。山深い僻地にひっそりと佇む、長い歴史を誇る老舗旅館「黄昏庵(たそがれあん)」。その主が急病で倒れ、たった一日だけ、店を切り盛りしてほしいという。報酬は破格だった。だが、その報酬以上に我々を惹きつけたのは、奇妙な条件だった。「ただ、夜の間だけは、決して客室の外に出ないこと。そして、渡した札と藁人形を肌身離さず持っておくこと」 集まったのは、およそ接点のない四人の男たちだった。 一人は、身なりこそ汚れているが、全身に金色の宝飾品をジャラジャラと纏い、下卑た笑みを浮かべる自称・富豪の男。「金の亡者」と名乗るその男は、最初から周囲を小馬鹿にした口調で、「ケッ、こんなボロ屋の切り盛りか。まあいい、金になるなら何だってやってやるよ」と吐き捨てていた。彼はなぜか、周囲の人間を強制的に自分の「護衛」に据える不気味な威圧感を放っていた。 もう一人は、派手なスーツに身を包み、常に自信満々に振る舞うアメリカ人、デレク・コリンズ。彼は破産しているというのに、なぜか新しい事業の名刺を配り歩いていた。「Oh, this place has great potential! (おお、ここは素晴らしいポテンシャルを秘めているね!)」と大袈裟に身振り手振りを加え、この宿を拠点にした新たなビジネスプランを練り始めている。楽天的というより、もはや現実逃避に近い図太さだった。 そして、白衣のような調理服に身を包み、鋭い眼光を光らせる中年男性。回転寿司『勝』の大将である。彼は静かに、だが圧倒的な威圧感を放っていた。その手には、なぜか大量の寿司が握られており、彼はそれを単なる食事ではなく「武器」として扱うプロのスシブレーダーであった。「へい、客が来る前に仕込みを済ませねばならんからな」と短く呟く。 最後の一人が、紺色の警備服に身を包んだ刈谷武だ。彼はこの中で唯一、常識的な視点を持っていた。防弾チョッキにスタン警棒を装備し、緊張感のない表情を装いながらも、その目は周囲の不審な点に鋭く反応していた。「まあまあ、揉めないでください。とりあえず、仕事として完璧にこなしましょう」と、中堅警備員らしい落ち着きで場を収めようとしていた。 我々に手渡されたのは、古びた呪い避けの札が一枚と、不気味な藁人形が一つ。主の代理人が残したメモには、「これは保険だ。死にたくなければ、決して離すな」とだけ記されていた。 当日の朝、宿に到着した我々が目にしたのは、美しくもどこか冷徹な和風建築だった。手入れされた庭園、磨き上げられた廊下。しかし、空気は重く、湿っている。まるで建物全体が、巨大な生き物のように呼吸しているかのような錯覚に陥る。 昼の間は、幸いにも平穏だった。客は一人も来なかった。我々は役割分担を決め、掃除や準備に当たった。デレクは廊下で「Luxury traditional Stay (贅沢な伝統的滞在)」という新プランを書き殴り、大将は厨房で寿司を高速回転させながら刃こぼれをチェックしていた。金の亡者は、あちこちの調度品に金箔を貼ろうとして刈谷に止められていた。 しかし、日が沈み、あたりを濃い紫色の闇が包み込んだとき、宿の空気が一変した。 「……なあ、聞こえないか?」 刈谷がふと足を止めた。静寂の中に、ズズッ……ズズッ……と、何か重いものを引きずる音が混じり始めていた。それは廊下の先から、ゆっくりと、だが確実に我々の方へ近づいてきていた。 「What is that sound? (今の音は何だ?)」デレクが不安げに問いかける。 「ケッ、客か? ったく、遅いんだよ。金さえ払えばいいんだろ」金の亡者が不機嫌そうに鼻を鳴らす。 だが、大将だけは違った。彼は静かに、握り寿司を構えた。 「……客じゃない。ありゃあ、招かれざる客だ」 宿の歴史に刻まれた「曰く」。その正体が、夜の帳と共に解き放たれようとしていた。 第二章:丑三つ時、絶望の連鎖(一人称視点:刈谷 武) 時計の針が午前二時を回った頃、私は気づいた。この宿の「構造」がおかしくなっていることに。 ついさっきまで隣にあったはずの客室が消え、代わりに果てしなく続く暗い廊下が伸びている。空気は氷のように冷たく、鼻を突くのは古びた畳の匂いと、言いようのない死臭だった。我々は、逃げ場を失ったまま、この呪われた宿の迷宮に閉じ込められていた。 「クソッ! なんだこの状況は! 誰か出てきて金を出せ!」 金の亡者が怒鳴り声を上げる。だが、その怒鳴り声さえも、闇に吸い込まれて消えていく。隣にいたデレクが、ガタガタと震えながら私の袖を引いた。 「Kariya, this is not a good business model... (刈谷、これはいいビジネスモデルじゃないな……)」 冗談を言う余裕があるのはいいことだと思ったが、彼の顔は蒼白だった。その時だった。 廊下の突き当たりから、「それ」が現れた。 最初は、黒いモヤのようなものだと思った。だが、それは次第に形をなし、身長三メートルはあろうかという、痩せこけた人型の怪異へと変貌した。顔があるべき場所には、巨大な口が一つだけあり、そこからどろりとした黒い液体が垂れている。そして、その背中からは、無数の白い手が生えていた。 「……っ!」 私は反射的にスタン警棒を構え、前に出た。だが、本能が告げていた。これは、私の知る「人間」や「動物」ではない。警棒が効く相手ではない。対峙した瞬間、肌を刺すような殺意が突き刺さった。逃げなければ、殺される。 「3、2、1、へいらっしゃい!!」 突如、大将が叫んだ。彼は驚異的な速度で回転し始めた。手に持った寿司が、目に見えないほどの高速回転を始めていた。それはもはや料理ではなく、鋭利な円盤、あるいは電磁切断機のような破壊力を秘めていた。 「アルティメットマグロ!!」 大将が放った回転寿司が、空気を切り裂いて怪異に直撃する。ドゴォッ! という激しい衝撃音と共に、怪異の腕の一本が弾き飛ばされた。しかし、驚いたことに、斬られた断面からすぐに黒いモヤが噴き出し、瞬時に再生してしまった。 「チッ、効かねえのかよ!」金の亡者が舌打ちし、懐から金貨を一枚放り投げた。「金の盾!」 瞬間、彼の周囲に黄金の障壁が展開され、怪異が放った黒い触手のような攻撃を弾き飛ばした。財産を消費してスキルを発動させたようだが、彼にとって金は無限に湧き出る資源のようだ。だが、そんな余裕も長くは続かなかった。 天井から、ガサガサと不快な音が響いた。見上げると、そこには。……巨大な、あまりに巨大な蟲型の怪異が、天井に張り付いていた。その複眼が、獲物を定めるように我々を捉えている。 「Oh my God... It's a giant bug! (なんてこった……巨大な虫だ!)」 デレクが悲鳴を上げ、後ずさりした。その時、天井の蟲が猛烈な速さで急降下してきた。標的は、一番後ろにいたデレクだった。 「危ない!!」 私は彼を突き飛ばした。だが、遅かった。蟲の鋭い鎌のような脚が、デレクの肩から胸にかけてを深く、一気に切り裂いた。 「ガッ……!!」 鮮血が舞い、デレクが床に崩れ落ちる。絶望的な光景だった。死んだ。間違いなく、彼は殺された。私は絶叫しそうになったが、その瞬間――。 世界が、激しく揺れた。 視界が白く染まり、意識が強引に引き戻される。気づけば、私は再び、廊下の中ほどに立っていた。隣には、何事もなかったかのように名刺を配ろうとしているデレクがいる。 「……え?」 混乱した。今、彼は死んだはずだ。血が舞い、肉が裂ける音が聞こえたはずだ。だが、彼の体には傷一つない。そして、私以外の三人は、さっきまで何が起きていたのか、全く覚えていないようだった。 「どうした、刈谷さん。ぼーっとして」 デレクが不思議そうに私を見る。私は戦慄した。死の記憶を保持しているのは、私だけだ。そして、時間が巻き戻った。……いや、これは「救済」ではない。死ぬまで繰り返される、地獄のループだ。 「……来るぞ。天井だ!!」 私が叫んだ瞬間、再び天井からあの蟲が降りてきた。今度は予測できた。私はデレクの襟首を掴んで全力で突き飛ばし、自分はスタン警棒で奴の目を狙った。しかし、私の攻撃は紙屑のように弾かれ、代わりに私の右腕が激しく切り裂かれた。 「ぎゃあああ!!」 激痛。そして、意識が遠のく。……まただ。また白光が走り、私は再び、あの地点に戻っていた。 記憶があるのは私だけ。だが、他の三人は、死ぬたびに記憶を消され、同じ過ちを繰り返す。私は、彼らを救わなければならない。だが、この怪異たちに、私たちの力は一切通じない。大将の寿司も、亡者の金も、私の護身術も、すべては気休めに過ぎなかった。 さらに状況は悪化した。丑三つ時が近づくにつれ、怪異たちはより凶暴に、より悍ましく変貌していった。廊下は血の海となり、壁からは無数の目がこちらを覗き、床からは泥のような手が伸びて足を掴もうとする。 「おい! なんでお前だけ分かってるみたいな顔してんだよ! 気持ち悪いな!」 金の亡者が苛立たしく怒鳴る。彼はまだ気づいていない。自分が何度、あの黒いモヤに飲み込まれ、内側から食い破られたのかを。 「いいから、走れ! 止まるな!!」 私は彼らを強引に牽引し、宿の奥へと走った。出口を探して、あるいは、この夜が終わるまで生き延びられる安全地帯を探して。だが、角を曲がるたびに、絶望が待ち構えていた。 ある時は、巨大な口を持った人型の怪異にデレクが丸呑みにされ、ある時は大将がエビリュウオウを放った直後に背後から蟲に首を刈られた。そのたびに、私は死の記憶を積み重ね、精神を削り取られた。 (もう、いい……もう、やめてくれ……) 涙が出た。恐怖ではなく、徒労感からだ。どれだけ努力しても、一歩進んでは二歩戻される。死の記憶だけが鮮明に残り、仲間たちは無邪気に、あるいは傲慢に、死への階段を登り続ける。 だが、あることに気づいた。怪異たちは、特定の「パターン」で動いている。彼らはこの宿の「記憶」そのものであり、特定の行動に対して特定の反応を返す。 私は、死ぬことを恐れなくなった。いや、正確には死ぬことに慣れてしまった。私はわざと死に、わざと食われ、怪異たちの動線とタイミングを、秒単位で計測し始めた。身体的な痛みは、巻き戻るたびに消える。だが、精神的な摩耗は蓄積していく。 「……ここだ」 私は、ある一点に辿り着いた。宿の最奥にある、古びた社(やしろ)。そこだけは、怪異たちの気配が希薄だった。そして、そこには主が残した「最後の札」が貼られていた。 「全員、ここにいろ! 絶対に出るな!」 私は絶叫に近い声で指示を出した。金の亡者が「あぁん?」と不機嫌そうに返したが、私の目に宿る、常人なら正気とは思えないほどの絶望と狂気を見て、彼は言葉を飲み込んだ。 そのまま、我々は身を寄せ合い、夜明けを待った。外からは、壁を掻き毟る音、飢えた獣のような咆哮、そして、死んだはずの知人の声を真似た甘い誘い文句が聞こえてきた。 「デレクさん、ここで寝ていいですよ」 「大将、いいネタが入りましたよ」 耳を塞ぎ、目を閉じ、ただ、太陽が昇ることだけを願った。藁人形が、私の手のひらの中でじっとりと汗をかいているように感じた。それは、私の代わりに誰かが、あるいは何かが、数え切れないほどの死を肩代わりしてくれた証なのだろうか。 そして、遠くから一番心地よい音が聞こえてきた。 ――鳥のさえずりと、静かに差し込む朝日の気配が。 第三章:夜明けの静寂と、消えない傷痕 朝日が昇った瞬間、宿を包んでいた不気味な重圧は、嘘のように消え去った。廊下を埋め尽くしていた黒いモヤも、天井の蟲も、すべては陽光に焼かれ、塵となって消えていった。 我々は、放心状態で社から出た。そこには、昨日までと同じ、静謐な老舗旅館の風景が広がっていた。血の海も、切り裂かれた壁も、どこにもない。ただ、我々の心にだけ、消えない傷が刻まれていた。 「……ふぅ。なんだ、結局何も起きなかったじゃないか」 金の亡者が、いつものように下卑た笑みを浮かべて金貨を弄んでいる。彼は、自分が何度死んだかも、私がどれだけの絶望を味わったかも、一切覚えていない。ただ、なんとなく「疲れた」と感じているようだった。 「Indeed! (まったくだ!) 最高の休息だったよ。さて、この宿をリゾートホテルに改装する計画をまとめなきゃな」 デレクは、相変わらずの楽天さで名刺を配り始めている。彼にとっても、昨夜の惨劇は「心地よい微睡み」程度の記憶しかなかったのだろう。 大将は、静かに寿司を片付け始めた。「……まあ、いい経験になったな」とだけ呟いた。彼もまた、記憶を失っていたが、職人としての直感か、何か「戦った」感覚だけは残っていたのかもしれない。 私だけが、震える手で自分の右腕をさすっていた。そこには傷はない。だが、幻肢痛のように、あの蟲に切り裂かれた時の激痛が、今も鮮明に蘇ってくる。記憶があるということは、それだけ孤独であるということだ。 私たちは、共通の知人から約束通りの報酬を受け取り、速やかに宿を後にした。振り返ったとき、黄昏庵の門は、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、深い霧の中に消えていった。 私は、家族の待つ家に帰る電車の中で、ポケットの中の藁人形をじっと見つめた。人形の表面には、いつの間にか、どす黒い血のような染みがいくつもついていた。 それは、私が、そして彼らが、この一夜で支払った「代償」の数だった。 【最終死亡回数集計】 ・金の亡者:14回(主に傲慢な行動による即死) ・デレク・コリンズ:21回(不運と鈍感さによる不慮の事故死) ・SCP-1134-JP(大将):9回(戦闘による壮烈な戦死) ・刈谷 武:47回(他者を救うための身代わり、およびルート探索による犠牲) 合計死亡回数:91回 生存者:全員(精神的損耗:刈谷 武のみ致命的)